悲哀律の断層
静哭湖〈ラメント・レイク〉は、もう落ちきっているはずだった。
――なのに、床下のどこかで、水音が揺れている。
臨時“拍所”の空気は、さっきまでとは別の重さを帯びていた。
喰らいの黒い“縫い目”は、湖の底で鈍色の塊となって沈んだはずだ。ノアの胸鈴は、ひとしきり泣き崩れた子どものように黙り、セレンは喪失人として静かに息だけを続けている。
さっきまで、この場を満たしていたのはノアの泣き声だった。
いま、それすらも止んでいる。
――なのに。
王涙の座標から、まだ“高さ”が変動していた。
水面もないのに、拍所の床が、ごく浅い波を打つ。石目の向こう側で、見えない湖が身じろぎしているみたいに。
「……異常、継続」
アッシュが《ノルディア》の面を軽く叩く。青白い線が一度だけ走り、すぐに収束した。
「観測:静哭湖――本来静止すべき悲哀波形に“上振れ”検出。震源=王喉座標。
原因――外部干渉ではなく、“王個体の悲哀過剰”と推定」
ミラは応えない。
王は、喪失人となったセレンを見ていた。
さっきまで拍所の灯の下で帳面を開き、涙を言葉にしていた涙議会の筆頭官――セレン・アルメリア。“悲哀の記録”を預かるその手は、今はもう動かない。
あの少女は、もう「役目」としての動きをすべて失っていた。
瞳から色が抜け、名を結ぶ糸はほどけてしまった。胸は上下しているのに、そこに“誰か”はいない。腕は、握りしめたいものの形を忘れ、指先は空を掴んだまま止まっている。
細い腕。握りしめられない指。
――それは、三百年前に膝の上で温度を失っていった、小さな身体と重なる。
(また……)
胸の内側で、古いひびがきしんだ。
(また、奪われた)
怒律の戦火の中で失った娘。
封印の中で、世界から遠ざけられた自分。
そして今世で、“娘と同じ名”を与えた少女。
世界は、一度きりではなかった。
「陛下……」
近くでセレンの名を呼び続けていた涙守が、声を震わせる。
ミラは、ゆっくりと視線を上げた。
拍所の灯が、一目盛りぶん暗くなっている。
灯火は消えていない。けれど、光の“高さ”が下がっている。
その暗さの理由が、自分の足元に集まり始めた“涙”のせいだと気づくのに、ほんの一拍かかった。
床の目地が、さざ波のように揺れている。
泣き終わったはずの者たちの胸から、名もつかない悲しみの粒が、ふっと抜けて足元へ沈んでいく。
喪失人になりかけていた者の瞳からさえ、薄い光が剥がれ、静哭湖の底へ落ちていく。
――悲哀が、戻ってきている。
ミラのもとへ、ひとりぶんずつ。
イリスは、それを見た。
「……王の喉に、国中の悲しみが落ちてる」
声が低く震えた。これは、さっきまで彼女たちが戦っていた喰いの仕業ではない。
静哭湖の構造そのものが、逆向きに働き始めているのだ。
「悲哀だけを沈めるはずだった湖が、“悲哀を集める穴”になってる……」
ミラの肩が、一度だけ揺れた。
王は、ゆっくりと笑う。
ひどく、壊れかけた笑いだった。
「そうね」
掠れた声が、拍所の天幕に触れて震える。
「怒律の火も。封印も。この三百年も。……そして今も」
ミラはセレンの頬に指を添え、動かないまつげを撫でた。
「世界は幾度も、私から【愛しい涙】を奪う」
指先から、一滴、王涙が落ちた。
床に触れた瞬間、それは音もなく吸い込まれる。
静哭湖の底が、ぎくりと軋んだ気がした。湖の深みのどこかで、まだ形になりきらない嗚咽が、鈍い輪郭で身をよじる。
「世界が、私を悲しませる」
ひとつひとつの言葉が、石の目地に刻まれていく。
「だからこそ、私は世界より深く泣く。――すべてが、もう痛まなくなるまで」
その宣言とともに、空気の密度が変わった。
拍所にいる全員の胸が、一斉に内側から掴まれる。
喉の奥に重いものが詰まり、息が深く吸えない。
泣こうとしても、その前に“どこか”へ落ちていく感覚だけが残る。
「っ……!」
ノアが、胸を押さえた。
さっきまで涙を流していた眼が、今度は逆に“涙を拒む”ように乾き始める。
涙腺の手前で、なにか別のものに塞がれていく。
喉の内側で、別の音が鳴る。さっき喰らいの器だったときに感じた、あの冷たい飢えとは違う――けれど、よく似た渦。
(また……入ってくる)
ミラの足元から立ち上る悲哀が、ノアの胸鈴に触れた。
鈴が一度だけ鈍く鳴り、悲しみの一端が胸の内に吸い込まれていく。
音は短いのに、その余韻は、胸郭のぜんぶにゆっくりと染み込んでいく。
周囲で膝をつきかけていた者が、ふっと肩の力を抜き、喪失人になりかけていた目に、かろうじて“うつろ”ではない揺らぎを取り戻す。
代わりに、ノアの呼吸が乱れた。
「くるしい……セレンのぶんと、みんなのぶんと、王さまのぶん……」
胸の内側で、“悲しい”がぶつかり合って鳴る。
「ぜんぶ、いっしょくたに鳴ってる……!」
胸鈴は、本来は“名”を支えるための器だ。
今は、悲哀そのものを一箇所に押し込める“臨時の湖”にされかけていた。
イリスが顔をしかめた。
「ノア、それ以上は――」
言いながらも、止めきれない。
ノアの胸鈴は、自分でも扱いきれない器になりかけている。
さっきまで“喰われる側”だった器が、今は“引き受ける”器として、悲哀を飲み込んでいた。
ルーファがそっとノアの背に風を置く。
「吐いて。ぜんぶ飲まなくていい。……胸まででいいから」
風がノアの呼吸に合わせて、肺の出入りを助ける。
けれど、悲哀そのものまでは運び出せない。これは風の領分ではないのだ。
「観測」
アッシュの声が、空気の重さを切り裂く。
「王喉悲哀圧――上昇。静哭湖:国全体の悲哀律が“王一個体”に収束中。
ノア:周辺悲哀を部分的に喰収。負荷、限界近傍」
《ノルディア》の面を流れる線が、不安定にちらついた。
「このままでは、エレリア全域の“泣き”が王に落ちる。国全体――沈降の危険」
「沈降」という言葉が、拍所の石を冷やす。
それは比喩ではない。国全体の感情律が、一点の悲哀に引かれ、沈んでいくという観測だった。
ルーファが奥歯を噛みしめる。
「……泣くための国が、王ひとりの涙で埋まるってわけ?」
風が、自然とミラから距離を取る。
触れれば、風ごと沈められてしまいそうな圧だった。
イリスは、杖を握り直した。
手の中の感覚が、昔と違う。
(……軽くなった)
三百年前。
八王すべての感情に触れた、あの調律の夜。
本当に“ゼロ”だった頃の自分なら、今目の前にある悲哀の波を、もっと冷たく、均一な数字として見られた。
深さの違いだけを計り、余剰を削り取るだけの刃になれた。
でも今は――胸が、いちいち痛む。
ミラの悲しみを、“値”ではなく“顔”として見てしまう。
怒律の火に焼かれた過去と、封印の暗がりと、今、目の前で二度目の喪失に震える「母」の姿として。
(……昔の私なら、この乱れは、一息で均せたはずなのに)
喉の奥で、自嘲に近い息が絡んだ。
指先が一瞬、杖から離れかける。
それを、巫女としての訓練が黙って戻させる。
恐律国でナールを封じたときも、紙一重だった。
足りなかったのは、ゼロの切れ味じゃない。――それを振るう“私”の側だった。感情を取り戻した調律者では、八王級の恐怖を受け止めたまま、昔のようにゼロを立てていられない。
だからこそ、私は“器”に頼る道を選んだ。弱くなった調律を補うため、ゼロを預ける世界の手袋としてアッシュを造った――その設計がまだ途中なのだと、あの戦いで嫌というほど思い知らされた。
その夜の重さが、指先の節々にまだ残っている。
「イリス」
ルーファが、短く呼んだ。
風の巫女は、王から目を逸らしていない。
ただ、その瞳の奥には、恐れではなく、はっきりとした焦りがあった。
「このままだと、国ごと沈む。……“羽一枚”じゃ足りないよ」
イリスは、視線をミラから離さない。
王は、泣いていた。
誰も聞いたことのない深さで。
静かに。
けれど、世界を丸ごと沈めてしまいそうな密度で。
セレンの髪に触れていた指先から、王涙がいくつも落ちていた。
それぞれが静哭湖の底へ届き、底をさらに深く掘り下げていく。
「分かってる」
詠唱の息ではない、素の声が漏れた。
「ここまでゼロを“羽一枚”に留めてきたのは、ミラの選択を残すためだった。でも――」
胸の奥で、なにかがひとつ、音を立てて折れた気がした。
(私は、調律の巫女。
世界を均すために、世界に刃を向ける役目を選んだ)
(世界を守るためなら――また涙を奪うことになっても、振るわなきゃいけない)
エレリアは、「泣くこと」を政治にした国だ。
その国の王が、世界より深く沈もうとしている。
このままでは、国そのものが“泣けない世界”の側へ落ちる。
「ミラが、このまま世界より深く沈んだら。……この国も、“泣く場所”ごと沈む」
それは、悲哀を守るために生まれた国だ。
けれどその悲哀が、世界全体を引きずり込むなら――調律の巫女は、世界を優先しなければならない。
アッシュが、《ノルディア》をすっと構え替えた。
「提案。ゼロ・モード――制限解除の検討」
刃ではなく、観測としての宣言。
それでも、その一言は、ここにいる全員にとって「刃が抜かれる」音と同じだった。
イリスは、短く目を閉じる。
(今の私と、今のアッシュで――王を“救う”ことは、たぶんできない)
(でも、“止める”。世界のために)
救うことと、止めることは違う。
かつては、どちらも同じ「調律」で片付けられた。
今は違う――と知っていても、役目は変えられない。
自分の中に残った“人としての揺らぎ”が、刃の根元を鈍らせる。
それでも、世界を均すための刃は、誰かが振るわなければならない。
「……アッシュ」
イリスは目を開けた。紫銀の瞳に、迷いは残っているが、その向き先は決まっていた。
「ゼロ・モードの封を、完全に外して。――世界を守るために振るう」
「了解」
アッシュが答える。
ゼロの線が、《ノルディア》の内側でゆっくりと広がる。器のきしみが、低く響いた。
ゼロは、本来、世界から感情の凸凹を削ぎ落とすための“無”だ。
それを、イリスはこれから、ひとりの王と一国の涙に向けようとしている。
(たとえ、また誰かの涙を奪うことになっても)
(それでも世界を均す。それが――調律の巫女としての、私の選択)
拍所の灯が、もう一度だけ揺れた。
ミラの喉から零れ続ける悲哀が、静哭湖ごと国を引きずり込もうとする。
ノアの胸鈴が、それを少しだけ喰い、代わりに細い肩を震わせる。
ルーファの風は、まだ方向を決めかねたまま、ただ仲間たちの肺に“息を吸う余地”だけを残している。
――次の一拍で、世界の泣き方が変わる。
イリスは、それを知りながら、杖先をわずかに持ち上げた。
ゼロの刃を、世界の側に傾けるために。




