幕間 ミラ•アルメリア
悲哀律国エレリアが、まだ「追悼国家」と呼ばれる前の時代。
八王時代、悲哀律の王ミラは、まだ体のすべてがひとつで在った。
「……泣き声は、刃じゃない。悲哀は、争わない」
その言葉を、何度も議場で繰り返していた。
怒律国の進軍報が届くたびに。
隣国の城が燃え、怒りの炎が境界をなめるたびに。
怒律国の王は、怒りを律とする王だった。
怒りは理不尽を拒む力だが、過剰に膨らめば、あらゆる相手を「敵」に変える。
「怒りは止められないのですか」と、涙守のひとりが問うた夜があった。
ミラは首を振った。
「止めることはできる。でも、私が怒りに怒りで応えたら、“悲哀は争わない”という約束が折れてしまう」
「その約束は、誰との?」
「………昔の、自分とのよ」
問いを投げた涙守は、それ以上何も言えなくなった。
ミラには、誰よりもわかっていた。
悲哀は、怒りと違って“刃”になりにくい。
悲しみの涙は、振り上げるよりも落ちる形をしている。
だからこそ、彼女は悲哀律の王に選ばれた。
怒りを鎮めるために、悲哀を刃に変えてはいけない。
その信条だけは、どんな時でも守ると決めていた――はずだった。
*
怒律国の旗が、エレリアの境を越えた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
塔の鐘が鳴り、哭塔評議が緊急招集される。
民の涙は、まだ「遠くの火事」に怯えるだけのものだった。
「悲哀は争わない。泣くことを開き、怒りを受け止める」
ミラはそう決議し、国境の街道に涙の柱を立てた。
悲哀律の第六階位――哀哭環〈エレジー・リム〉。
侵軍する兵士たちの怒りを、その場で泣きに変える魔法。
怒りが涙に転じれば、剣を振るう腕は止まり、膝をついてしまう。
「……これなら、争わずに済む」
そう信じていた。
だが、怒律国の王は、兵たちの怒りに別の命令を重ねていた。
――“悲しみにするな。怒りのまま燃やせ”。
悲しみは、過去を見つめる感情だ。
怒りは、目の前の理不尽を殴りつける感情だ。
怒律の王は、兵士たちの胸に、悲哀への“拒絶”を仕込んでいた。
ミラが涙の輪を立てても、兵士たちの瞳は濡れなかった。
ただ、怒りの焔が涙を焼き尽くし、悲哀律の柱はねじ切られていく。
「悲哀は争わない――からこそ、届かないのですよ、悲哀律の王」
怒律国から届いた、嘲笑まじりの書状。
ミラはそれを、誰の前でも破り捨てることができなかった。
「……だったら、どうすればよかったの」
夜の宮で、ひとりきりで囁いた声を、覚えている。
*
それでも、ミラは最後まで「悲哀は刃にしない」を貫こうとした。
避難路を開き、哭塔を通じて民の涙を増幅し、
怒律の兵士たちに「泣ける場」を差し向け続けた。
怒りに燃えながらも、どこかで泣きたかった兵士は、確かに何人もいた。
だが、間に合わなかった。
怒律国の斥候隊が、エレリアの内側まで入り込んだ日。
ミラは、王城最奥の一室で、娘と話をしていた。
「母さま、今日も泣けない子がいたよ」
まだ幼い声。
夜色の髪に、淡い涙晶〈ルメリア〉を結い込んだ少女。
「その子がね、『泣いたら弱虫って言われるからイヤだ』って」
ミラは笑って、娘の髪を撫でた。
「弱虫じゃないわ。泣けるってことは、何か大事なものを持ってるってことよ」
「じゃあ、母さまは、ずっと泣ける?」
「……そうね。あなたがいる限りは、きっと」
娘は少し考えてから、笑った。
「じゃあ、泣けない子には、母さまを貸してあげればいいね」
その言葉に、ミラは冗談めかして答えた。
「私を貸す前に、あなたを貸してあげるわ。あなたは、悲しい人を見つけるのが上手だから」
娘の名は、セレンと言った。
【愛しい涙】を意味する古い言葉から取られた名だ。
涙を「重さ」ではなく「愛おしさ」で見てほしいと願って、ミラが選んだ名。
その日、塔の鐘は鳴らなかった。
鳴らされる前に、哭塔を守る涙守たちが怒りの刃に斃れたのだと、あとで知った。
王城の守りが破られたとき、ミラはまだ娘の手を握っていた。
「母さま?」
扉の向こうで、怒りの足音がした。
悲しみではない、烈火のような怒りの波。
ミラは一歩だけ娘を自分の背に隠し、扉に向き直る。
「悲哀は争わない。ここで退きなさい」
静かな声だった。
だが、扉を蹴破って入ってきた怒律の兵士は、耳を貸さなかった。
怒りは、言葉を聞く耳を殺す。
「王を討て!」という叫びとともに、剣が振り上げられる。
ミラは手をかざし、涙の膜で刃を滑らせて落とした。
一本、二本。
その程度なら、まだ抑えられた。
問題は、誰も気づかなかった“別の刃”だった。
扉の隙間から滑り込んだ、一本の投げ槍。
「母さま!」と呼ぶ声と、ミラの振り返りが、わずかにズレた。
ミラが兵士たちの怒りを受け止めていた手は、娘を抱き寄せるためには遅すぎた。
鈍い音。
小さな身体が、ミラの背にぶつかるように倒れかかってくる。
「……セレン?」
胸元を見る。
白い布地が、赤く染まっていく。
娘の指が、ミラの衣の端を掴んだまま震えていた。
「母さま……泣かないで……」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間、王城の床が裂けた。
怒りに対して怒りで応えなかったはずの王が、
初めて自分の中の何かを折った瞬間だった。
「悲哀は――争わない。
……でも、奪わせはしない」
悲哀律第七階位。
本来は決して使うはずのなかった魔法。
悲しみの湖を、怒りの上に落とす、禁じられた静けさ。
「水よ、悲の重さを記せ。怒りを沈め、喉を縫い塞げ」
静哭湖〈ラメント・レイク〉の原型が、そのとき初めて顕現した。
床が抜けるような感覚とともに、怒律の兵士たちの怒りが、悲哀に飲み込まれていく。
叫びも罵声も、やがて嗚咽に変わり、それさえも静寂に沈んだ。
怒りは止まった。
兵士たちは武器を落とし、膝を折り、重い静けさの底へ沈んだ。
だが――悲哀は、怒りだけを喰ったわけではなかった。
奪われかけた未来への恐怖。
守れなかったという絶望。
すべてを守りたいという、ミラ自身の必死の願い。
そして、腕の中でゆっくりと温度を失っていく、小さな身体。
そのすべてが悲哀に変わり、湖の底に積もっていく。
静寂が戻ったとき、ミラはまだセレンを抱きしめていた。
だが、腕の中にあったはずの温もりは、どこにもなかった。
膝の上に落ちたのは、小さな涙晶だけだった。
娘の胸元でいつも揺れていた、【愛しい涙】の光。
ミラはそれを掴んだまま、声も出せなくなった。
悲哀は争わない――その約束を守ろうとして、結局、何ひとつ守れなかった。
怒律国の進軍は、確かにその場で止まった。
だが、残ったのは、過剰に凝縮された悲しみの湖と、娘を失った王だけだった。
*
その湖を見下ろしていたとき、静かに杖の音が響いた。
「……悲哀は、争わなかったわ」
振り向くと、そこに立っていたのは、風でも怒りでもない気配をまとった女だった。
白い杖。
紫銀の瞳。
黒でも白でもない、どこか“ゼロ”の静けさをまとった存在。
「争わなかったからこそ、ここまで溜め込んでしまった」
「あなたは――誰?」
「調律の巫女。イリス」
女は名乗り、静哭湖の縁に膝をついた。
「悲哀律の王、ミラ。あなたの悲しみは、世界の“深さ”を示している。でも、このままでは世界が沈み過ぎる」
ミラは答えられない。
答えた途端、崩れてしまうと分かっていたから。
イリスは湖に指先を差し入れ、波なき水面をそっと撫でた。
「悲哀だけを“刃にしない”と決めて、あなたはここまで来た。
……だからこそ、最後の最後で悲哀を刃にしてしまった。あなたひとりを守るために、世界があるわけじゃない」
「じゃあ、何のためにあるの?」
絞り出すような声だった。
「世界は、泣くためにあるの? 笑うためにあるの?
それとも、誰も泣かないためにあるの?」
イリスは答えなかった。ただ、静かに言葉を重ねる。
「いま必要なのは、“封印”よ。悲哀律の王。
あなたの悲しみは、あまりにも大きすぎる。
このままでは、怒りだけじゃない。愛も、赦しも、すべてを呑み込んでしまう」
ミラは笑った。ひどく歪んだ笑いだった。
「だったら、全部呑み込めばいい。怒律も、私も、世界も。
悲哀は争わない。争えないまま、ぜんぶ沈めばいい」
イリスが眉をわずかに寄せる。
ミラは、湖の底を見下ろしながら、ひとつだけはっきりした声で言った。
「世界が、私を悲しませる。
だからこそ、私は世界より深く泣く。
……そのはずだったのに、泣き尽くしても、あの子は戻らない」
その言葉には、王としての覚悟と、人としての限界が同時ににじんでいた。
イリスの声が、少しだけ強くなる。
「それは、悲哀じゃない」
紫銀の瞳が、まっすぐミラを射抜く。
「それは、絶望。
悲哀は、絶望と違うわ。悲哀は『それでも』を探す感情。
いまのあなたは、『それでも』を手放している」
ミラの指先が、震えた。
――それでも、娘が生きていたら。
――それでも、あと一拍早く気づけていたら。
何度も繰り返した「それでも」が、胸の奥でまだ燻っている。
「あなたがそのまま“悲哀の化身”になれば、この世界の悲しみはすべてあなたに集まる。
……その先には、“虚無〈ヴォイド〉”しかいないわ」
イリスは、湖の底に潜む黒い影に目を向けた。
悲哀の濃度が高まり過ぎたとき、そこには必ず“無の喉”が口を開ける。
理と感情の隙間で生まれる、名のない飢え。
ミラは、そこで初めて湖から目を逸らした。
「……どうすればいいの?」
「あなたを、世界から少しだけ遠ざける」
イリスは杖を立てた。
「悲哀律の王ミラ。
あなたの悲しみを、世界の深さとして残す。
でも“今”のあなたを、この場から一度退ける。
いつか、世界がもう一度、悲哀と向き合えるまで」
静寂が、謁見の間を満たした。
ミラは最後に、ひとつだけ願いを口にした。
「……あの子の名を、どこかに残して」
イリスは頷いた。
「名は殻じゃない。呼吸の手すり。
あなたの娘の名も、どこかで誰かの“手すり”になる」
その言葉とともに、ゼロの調律が落ちた。
悲哀律の王ミラは封印され、静哭湖は世界の深層へ沈んでいった。
*
約三百年後。
封印のひび割れから、ひとつの影がゆっくりと浮上した。
完全な王ではない。
悲哀のすべてでもない。
世界の深さと繋がったまま、地上へ差し戻された“分体”。
ミラは、白水の幕が垂れる謁見の間で目を開けた。
「ここは……」
涙の匂いがした。
泣くことを政治にした国――悲哀律国エレリア。
眠っているあいだに、世界は変わっていた。
怒律国の旗はもう見えない。
代わりに、共感を基盤とした涙議制〈レメンティア・コンクラーヴ〉が、この国を支えている。
「王に、名を」
哭塔評議の代表がそう告げたとき、ミラは少しだけ迷った。
「ミラ。……それでいい。
悲哀律の王は、ミラの名で呼ばれてきたのでしょう?」
「では、姓は?」
少し間が空いた。
ミラは、そのときまだ、自分の本当の姓を思い出せなかった。
封印の中で、余分なものが剥ぎ取られていたのだ。
「……あとでいいわ。
いまは、この国の悲しみを“争わせない”ことが先」
そう答えて、彼女は再び王として立った。
*
さらに幾年かが過ぎた。
ある日、上層の塔が崩れた。
古い調律施設として使われていた塔――
調律民たちが「揺らぎ」を奪われ、均一な役目を刻み込まれていた場所。
その塔がひとつ、静かに崩れ落ちた。
灰と水が街を濁らせる。
上層から流れ出した白水が、路地を川に変える。
調律民たちは、崩落の衝撃で足を取られながらも、淡々と避難路を開こうとしていた。
彼らの顔には、無機質な“面”がかけられている。
感情の揺らぎを抑えるための仮面。
泣くことも笑うことも、均された喉に許されてはいない。
その中に、ひとりの少女がいた。
まだ幼い体に、大人と同じ面。
名も「番号」としてしか呼ばれてこなかった調律民のひとり。
(……揺れてる)
崩れた塔の影で、瓦礫の下敷きになった子どもが、小さな指を伸ばしていた。
少女の手を探すように、空を掻いている。
決められた行動指針では、その子を“次の担当に引き継ぐ”はずだった。
だが、その瞬間――胸の奥で、何かがひび割れた。
(助けなきゃ)
「感情」ではなく、「誤差」として扱われる衝動。
今まで抑え込まれていた何かが、崩落の衝撃とともに胸郭の内側で鳴った。
胸が、勝手に鳴った。
喉の奥に、熱が集まる。
面の内側で、呼吸が乱れる。
「……なに、この――」
自分でも知らない震えに戸惑ったそのとき、水音が変わった。
白水を踏んで、ひとりの女が降りてきた。
濁った水の上を、その足は沈まずに進む。
崩れた塔の残骸と、濁流の上をまたぎながら、王都の中心から歩いてくる。
悲哀律の王――ミラ。
上層から流れ出した水と灰を辿り、彼女は自らの足で現場に降りてきた。
調律民たちが一斉に跪く。
面の下で、目だけが揃って王を向いた。
ミラは彼らを見渡し――ひとりの少女で、足を止めた。
瓦礫の間に膝をつき、子どもの手を握り、面の内側で震えている調律民の少女。
(……揺らいでいる)
本来、揺らぎを奪われているはずの胸が、明らかに“揺れて”いた。
ミラには、それが分かった。
白水の上から一歩降りて、ミラは少女の前にしゃがみ込む。
少女は「規定どおり」に頭を垂れようとして――できなかった。
喉が、勝手に震えたから。
ミラは、その面に手を伸ばした。
額に触れない。
支配する印を刻まない。
ただ、片手で“面”そのものを外した。
金具が外れる乾いた音。
少女の素顔が、水と灰の匂いの中に曝される。
怯えとも戸惑いともつかない瞳。
泣きたいのに泣き方を知らない目の揺らぎ。
ミラは、その額には触れず――ただ目だけを見た。
「泣いていい」
命令ではない。赦しでもない。
「肯い」の音だけを含んだ、静かな宣言。
その瞬間、少女の喉が開いた。
今まで声を持たなかった涙が、一拍だけ、そこに居場所を得る。
目の縁が熱くなり、視界が歪む。
何が起きているのか、少女には分からなかった。
ただ、胸の内側で固まっていた何かが、崩れていくのを感じる。
ミラは続けた。
「あなたに、名をあげる」
少女が、かすかに目を見開く。
「名……?」
「【愛しい涙】という意味を持つ、古い言葉。
涙を嫌うんじゃなく、大事にしてほしいと願ってつけた名」
ミラは、自分の胸元からひとつの涙晶を外した。
かつて娘がつけていたものとよく似た形のルメリア。
それを少女の胸に掛けながら告げる。
「――あなたは、“セレン”」
名前が喉に落ちる。
呼び名ではなく、記号ではなく、
自分の「揺らぎ」に触れる音として、胸の内側に座る。
「姓は……アルメリア。
“思いやり”という意味を持っていた、昔の私の性」
ミラの声に、少しだけ震えが混じった。
「これからは、あなたが“アルメリア”を名乗って。
思いやりを、泣くことにも分けてあげて」
セレンは、自分の胸にぶら下がった涙晶を見つめた。
喉の奥から、知らない音がせり上がってくる。
「……っ……う……」
それは、うまく言葉にならなかった。
けれど、その音には、確かに「感情」が乗っていた。
世界が、彼女に初めて「音の居場所」を渡した瞬間だった。
灰と水に濁った路地で、
悲哀律の王と、元・調律民の少女が向き合っていた。
ミラは、その面の外れた顔を見つめながら、胸の奥でひとつだけ呟く。
(……また“セレン”を名乗らせてしまった)
かつて失った娘と同じ名。
【愛しい涙】の意味を持つ名。
悲哀は争わない。
でも、守るためには、涙がいる。
ミラはその日、自分の罪をもうひとつ、世界と分け合った。
セレン・アルメリア。
かつて失った娘と同じ名と、
“思いやり”を意味する性を持つ、その少女が――
三百年前の悲哀律の王の傷を、もう一度開くことになるとは、
そのときのミラはまだ知らなかった。




