最初の涙
拍所に、遅れて音が戻ってきた。
さっきまで世界中の悲しみを飲み込んでいた静けさが、
ようやく息を吐き直したみたいに。
崩れた椅子が軋み、遠くで誰かがしゃくりあげる。
倒れた湯椀が、ころ、と遅れて転がる。
拍所の中央には、なお静哭湖〈ラメント・レイク〉があった。
水なのに、波がない。
湖なのに、底が見えない。
王涙を基準音に、悲しみだけを集めて座らせた「重さの輪」。
その湖心から、黒い柱は消えていた。
ノアを飲み込み、喰らいを縫い止めて沈めた「無の喉」は、
今はもう形を保っていない。
湖の底で、ただ鈍い影の層として横たわっているだけだった。
アッシュが《ノルディア》の面を軽く叩く。
淡い光線が水面を走り、拍所全体の輪郭をなぞる。
「観測。喰い本体=深層沈降。活動値、低。
エレボス糸群、ほぼ静止。――ただし……」
報告が途中で切れた。
面の隅に、微かな揺らぎが残る。
「……一部、情報不足。深度が足りない。
危険度=“完全消滅”には至らず。経過観測、要」
イリスは静かに頷き、杖を下ろす。
第三階位・第四階位で張り巡らせた薄衣と反涙膜は、まだ拍所の縁をそっと支えていた。
(今、ゼロを深く差し込めば、喰いごとノアを削ってしまう)
だから、追撃はしない。
刃を抜かない救いを選んだのは、自分だ。
風がひと筋、拍所の中を撫でた。
ルーファの風だ。悲哀の余韻と、避難を終えた人々の息を、そっと散らす。
「……ミラ?」
湖の縁で、王は動かなかった。
ミラは静哭湖のほとりに立ち、片膝をついていた。
指先はまだ王涙の座標に触れている。
第七階位の負荷が分体の輪郭を削っていて、肩は細かく震えていた。
「王喉負荷……まだ高い。ミラ、無理しすぎ」
ルーファが低く呟く。
ミラは、顔だけをこちらに向けた。
微笑みに、ひび割れたガラスみたいな筋が一本走っている。
「……大丈夫。まだ、座標は保ってる」
そのときだった。
拍所の空気の高さが、一瞬だけ変わる。
「……ノア!」
セレンが叫んだ。
自分でも驚いたような声だった。
拍所の後方、避難を誘導していた位置から、セレン・アルメリアが駆けてくる。
拍匙〈息/息〉を握る指先が白い。
さっきまで、ノアが喰われた瞬間をただ見ていることしかできなかったその手が、
今はまっすぐ湖の中心を指していた。
「今、声が――」
彼女は息を飲み込む。
耳ではなく、胸の内側で聞こえた。
セレン……! ぼくは、ここだよ!
水の向こうから、かすれた少女の声。
輪郭はまだ曖昧で、水泡みたいに頼りない。
けれど、確かに「ノア」という名を抱えていた。
アッシュが即座に面を傾ける。
「観測:静哭湖内部――局所波形、変調。
名座標“ノア”由来と思われる感情波、微弱発生」
イリスの紫銀が、わずかに明度を上げた。
「……戻ってこようとしてる」
ミラが、静かに目を細める。
「セレン。行きなさい」
「でも、王喉が……」
「静哭湖は、まだ悲だけを沈めている。
“喉”は縫い止めた。ノアの座標だけは、まだ上とつながっている」
ミラは拍所の中心に座る水面を見つめて言う。
「ノアを呼べるのは、あなた。――あの子に名前を与えたのは、あなたでしょう」
セレンの喉が、音にならない声で震えた。
かつて広場で、泣けない子に手を伸ばした日のこと。
風鈴が鳴る下で、濡れない頬を持て余していた少女の肩に手を置いて、
「じゃあ、泣けるまで一緒にいよう」と笑った日のこと。
そのあとで、そっと渡した風鈴と、名前。
――ノア。
――泣けないけど、ちゃんと“在る”って意味で。
(……呼ばなきゃ)
セレンは湖の縁まで歩み出る。
膝が震えているのを、拍匙を握る指に力を込めて誤魔化す。
「ルーファ、風を貸して。ノアに届く“路”がほしい」
「もちろん」
ルーファの風が静かに立ち上がる。
拍所の騒ぎを煽らないように、ただ湖の上に、細い風路だけを通す。
イリスが、低く補助を入れた。
「第二階位――拍律補正〈ハルモニア〉。
ノアの拍にだけ、焦点を」
静哭湖の表面に、目に見えない「拍」が一つ、浮かび上がる。
セレンが知っているノアの息の高さ。
風鈴の下で、何度も隣で聞いた呼吸のリズム。
セレンは膝をつき、湖面すれすれに身を置いた。
拍匙〈息/息〉の先で、水を一度だけ撫でる。
「ノア。……ここだよ。
セレンだよ。――“外側”から、呼んでる」
水面が、ほんのわずかに震えた。
波紋ではない。
悲哀の重さを乱さないために、静哭湖は波を許さない。
それでも、その震えは「応答」として十分だった。
湖の底から、一筋の光が伸びてくる。
色を持たないはずの水の中で、その道だけが、かすかに淡い青に光った。
ルーファの風が、それに沿って道を撫でる。
アッシュが即座に観測を重ねる。
「観測:静哭湖内部、名座標“ノア”から外側へ向かう意志ベクトルを検知。
引き上げ可能。――ただし、残留エレボス糸、周辺に存在」
「切れる?」
イリスが問う。
アッシュは少しだけ躊躇してから、首を振った。
「ゼロで深く断てば、ノアの“泣きたさ”も削る。
局所限定なら、“大部分”は切れる。――誤差は、出る」
(誤差)
誤差、という言葉が胸に引っかかる。
イリスは唇を噛んだ。
それでも、選ばなければならない。
「……誤差は、私が背負う。
ノアを置いては行かない」
ミラが、静かに指を上げた。
「私も、静哭湖で押さえ続ける。
残った糸があっても、ここで動ける幅は“羽一枚”。
王喉で抑え込む」
ルーファが短く笑う。
「じゃあ、その羽一枚ぶんは、私が風で“外側”に押し返す」
セレンは振り返らない。
ただ、湖を見つめて頷いた。
「ノアを引き上げる。その先で何が起きても……私、ノアのそばにいる」
拍所の誰も、それを止められなかった。
*
引き上げの儀式は、派手なものではなかった。
セレンは湖の縁に膝をついたまま、拍匙を口元に寄せる。
息を吸い、ゆっくりと吐きながら、名前を呼ぶ。
「ノア」
ただ、それだけ。
それを何度も、繰り返す。
呼ぶたびに、湖面の下で何かが揺れる。
アッシュの観測値が、小数点以下の波形を微かに変えていく。
イリスの調律が、ノアの拍と外側の拍を合わせる。
ルーファの風が、涙の匂いを少しだけ薄める。
王の静寂が、それでもなお悲哀を座らせ続ける。
やがて――水面が、ひとところだけ高くなった。
波ではない。
静かな膨らみ。
そこから、小さな影が出てきた。
水に濡れた髪。
閉じた瞼。
胸の鈴。
セレンは躊躇わなかった。
身を乗り出し、その身体を抱き上げる。
「ノア!」
腕の中の少女が、微かに息を吸う。
静哭湖の水を吐き出すように、喉がかすかに震えた。
瞼が、ゆっくりと開く。
「……セ、レン?」
焦点が合うまでに、少し時間がかかった。
それでも、目が自分を捉えた瞬間、セレンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「うん。セレンだよ。――おかえり、ノア」
ノアの指先が、胸の鈴を探る。
水に濡れた鈴は、ちゃんとそこにあった。
指先で挟んだとき、ほんのわずかに、内側で音が鳴る。
その音が、どこかで静哭湖の底と共鳴した。
黒い影が、湖の底で身じろぎする。
喉鳴りはもうほとんど声にならない。
悲哀と王涙と名に縫い止められて、エレボスの糸はほとんど動けない。
それでも、完全な無ではない。
器を失い、喉を持たなくなった「残りかす」。
それが、最後の反射のように、ひと筋だけ、外側へ細い糸を伸ばした。
誰も、その瞬間には気づかなかった。
アッシュの観測にも引っかからないほど、
それはあまりにも細く、あまりにも「誤差」だったから。
*
セレンはノアを強く抱きしめた。
濡れた髪が胸元に張り付く。
いつもより少しだけ、ノアの身体が重く感じられた。
「……ぼく」
ノアの声が、胸の奥に直接触れた。
セレンの服をきゅっと掴む指が震える。
「ぼく、ひどいことをした。
みんなを……怖い目にあわせて。
セレンも……」
言葉がそこで詰まる。
喉の奥で、何かがからまっている。
湖の底で飲み込んだ影のざらつきが、まだ内側に残っていた。
セレンは首を振る。
ノアの頭を胸に押し当てて、小さく笑った。
「ノアがしたんじゃないよ。
エレボスが、ノアの“泣けなさ”を利用しただけ」
彼女の声は、震えていなかった。
喉の奥で、何かを無理やり飲み込んでいる気配はあったけれど。
「……それでも、怖かったでしょ」
ノアが、かすかに問う。
セレンは、ほんの少しだけ黙った。
静哭湖の水面が、彼女の横で冷たく光る。
「うん。怖かった。
ノアが、どこか遠くへ行っちゃうかもしれないのが――すごく怖かった」
ノアの指先が、セレンの服を強く掴む。
(ぼくのせいだ)
そう思いかけたとき、セレンは言葉を重ねた。
「だからね、ノア」
彼女はノアの肩を少しだけ離し、瞳を覗き込む。
涙はまだない。
けれど、そこには確かに「揺らぎ」があった。
「泣いてもいいんだよ」
ノアが瞬きをする。
「ぼく、泣けないって――」
「知ってる。
でもね、“泣こうとする”ことはできるでしょ?」
セレンは微笑んだ。
「ノアが泣きたくて泣けないなら、一緒に“泣きたがろう”よ。
ノアの涙は、誰も責めない。
……私は、きっと嬉しい」
胸の奥に、微かな記憶が浮かぶ。
――それから……ぼくの最初の涙は、セレンのために流したい。
まだ湖に沈む前、どこかでそう願った気がする。
それがいつのことだったのか、はっきりとは思い出せない。
けれど、その願いだけが、胸鈴に絡みついて残っていた。
(……今、泣けたら)
ノアは目を閉じる。
喉の奥に、また熱が集まる。
胸の鈴が、内側からカン、と小さく鳴る。
その瞬間だった。
静哭湖の底から伸びていた「誤差」の糸が、
湖面を破って跳ね上がった。
誰にも気づかれないまま、
風の路と調律の薄衣の「隙間」をすり抜け、
王涙の座標の外縁をかすめて、一直線に走る。
器を失ったエレボスの糸。
最後の本能だけで動く「喉の残りかす」。
それでも、その本能はまだ「目的」を覚えていた。
――器、失敗。王、喰えず。
――だが、悲は残る。
――王の「子」を裂け。王律を軋ませろ。
――調律の巫女にゼロを抜かせろ。
――世界を均せ。抑えた悲は、すべて“裏”で喰う。
その矛先は――ノアではなかった。
セレンの心臓だった。
*
刺さる、というより、飲まれた。
黒い糸は、光も音も立てずに、セレンの胸元へすべり込んだ。
ノアを抱きしめていた腕と腕の間、ちょうど心臓の上を走る線のように。
「――っ」
セレンの身体が、びくりと跳ねる。
声にならない呼吸が、喉で途切れた。
「セレン……?」
ノアが顔を上げる。
胸のあたりが、ひどく冷たくなった気がした。
アッシュが遅れて叫んだ。
「観測――誤差糸、外部へ! 目標=セレン心臓座標!」
彼が踏み出すより早く、
イリスが詠唱に入ろうとするより早く、
ルーファが風を変えようとするより早く――
糸はもう、中へ入り込んでいた。
セレンの瞳から、色が抜け始める。
最初は分からない程度だった。
黒い睫毛の影に隠れて、いつもの柔らかい茶が少しだけ薄くなったように見えるだけ。
けれど、数拍のうちに、その茶が、灰色に近づいていく。
「やめて!」
イリスの声が響く。
伸ばした手が、すぐ目の前で止まる。
(ここでゼロを撃てば、セレンの“今”ごと削ってしまう)
刃を抜けば、助けられるかもしれない。
でもその刹那に、彼女の名も記憶も、丸ごと「均して」しまうかもしれない。
イリスの喉が、詰まる。
ルーファは風で糸を引き剥がそうとした。
だが、すでに糸はセレンの内側に溶け込んでいて、掴むべき形を持たない。
アッシュは一歩遅れてセレンの前に立つ。
《ノルディア》の面を心臓の前にかざし、限定ゼロの輪郭を走らせた。
「限定ゼロ――命令層、外周のみ切断!」
光の空白が、セレンの胸元で一瞬だけ輝く。
入り込んだ糸の「これ以上外へ広がろうとする」部分だけを、ぎりぎりで削り落とした。
それで、致死の一撃は防げた。
だが――既に喰われたぶんは、戻ってこない。
セレンの瞳から、完全に色が消えた。
茶色も、光も、揺らぎも。
そこにあった「セレン」という名前の手触りが、すべて、ふっと消え失せた。
ノアが、信じられないものを見る目で見つめる。
「セレン……?」
セレンは、ゆっくりとノアを見下ろした。
瞳は空っぽだ。
けれど、その奥に、ほんの僅かな「残り火」が残っているように見えた。
エレボスの糸は、彼女の感情をほとんど持っていった。
けれど、完全に喪失人になるには、一拍だけ足りなかった。
その一拍で――セレンは、最後の言葉を選ぶ。
唇が、かすかに動く。
「ノア……」
名前を呼んだ。
その呼び方は、いつもと同じだった。
広場で、静かな部屋で、風鈴の下で呼んだときと、何も変わらない高さで。
「……泣いて、いいよ」
それだけだった。
ノアの胸の奥で、何かが切れた。
「いやだ」
声が震える。
喉の奥の熱が、一気に溢れ出す。
「いやだよ、セレン。……いかないで。
ぼく、ひどいことした。
でも、セレンに、ちゃんと――」
言葉が、涙になってしまった。
頬が熱い。
視界が滲む。
静哭湖の水とは違う温度の液体が、次から次へと目の縁からこぼれ落ちる。
「……ほんとうは、こんなふうに叶えたくなかったのに」
(それでも――ぼくの最初の涙は、やっぱりセレンのためだ)
泣き方が、分からない。
でも、止め方も分からない。
「セレン、セレン、セレン……!」
名前を呼ぶたびに、涙が落ちる。
ノアはセレンの服を掴んだまま、声を上げて泣いた。
拍所に、ノアの泣き声が響く。
静哭湖の水面が、その音を静かに受け止める。
悲哀の湖は、もうノアを沈めようとしない。
代わりに、ノアの涙を、そっと外側へ押し返すだけ。
ミラが、その光景を見つめていた。
静哭湖を維持していた指先が、震える。
王喉にかかっていた負荷とは別の「軋み」が、胸の内側から走る。
セレンは、ノアを抱いたまま、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
呼吸はある。
脈もある。
だが、瞳は空の器。
口元は動いても、言葉にはならない。
喪失人。
さきほどまで、拍所の隅に座らされていた者たちと、同じ空虚。
その中に、自分の娘のように思っていた少女が加わっている。
ミラの喉から、低い音が漏れた。
悲鳴ではない。
泣き声でもない。
ただの、きしむような吐息。
「……私の、静哭湖で」
ミラは、自分の手を見下ろした。
静哭湖を発動し、エレボスを沈め、ノアを救うために使った手。
そのすぐそばで、セレンが喪失人になっている。
「悲哀だけを沈める、はずだったのに」
王律が、わずかに軋む。
悲しみを座らせ、泣くことを許す王の律。
その律が、今、自分の悲しみで飽和し始めている。
拍所の灯が、かすかに揺れた。
静哭湖の水面で、ほんのわずかに波が立つ。
イリスが、その異変に気づいてミラを見る。
ルーファもアッシュも、言葉を失って、王の背中を見つめるだけだった。
ノアの泣き声が、なおも続く。
セレンは喪失人の瞳で、それをただ受け止めている。
王の中で、何かが静かに、しかし確かに――軋みはじめていた。




