静哭湖の底
沈む、という感覚は、思っていたほど苦しくなかった。
冷たいのに、痛くはない。
重いのに、潰れはしない。
ただ、世界のほうが自分から遠ざかっていく。
ノアの体は、もはや「体」という輪郭をあまり持っていなかった。
腕も足も、はっきりとは分からない。代わりに、胸のあたりにひとつだけ――重さがある。
胸鈴。
名前をもらったときに、一緒に下げてもらった、小さな鈴。
(……鳴らない)
湖の中で、鈴は音を出さない。
手を伸ばそうとしても、指先の感覚がうまく掴めない。
それでも、そこにあると分かる。重さで、形で。
音の代わりに、鈴からじわりと輪が広がる。
水の底で、目には見えない拍が静かに波紋になった。
*
上下の区別は、薄い。
静哭湖〈ラメント・レイク〉の内側は、
「上」も「下」も、「境目」もあいまいな場所だった。
暗くはない。
けれど明るくもない。
灰色の光が、どこからともなく満ちている。
それが、全部「泣きそびれた涙」の色なのだと、誰かが言った気がした。
ノアの周りには、薄い影がいくつも漂っていた。
しゃがみ込んで顔を覆う人。
石段に座ったまま、肩だけ震えている人。
口を開けているのに、声のない子ども。
形はぼやけていて、誰か分からない。
だけど、胸の奥にひりつくような感覚だけが伝わってくる。
(……痛い)
喉の奥が、少しだけ熱い。
泣くときの前ぶれに似ている。でも、やっぱり涙にはならない。
ノアは知っている。
自分が「泣けない子」だということを。
風鈴の下で、みんなが泣いていた日のことを思い出す。
風が鳴らす音に合わせて、周りの子たちの頬が濡れていくのを、ただ見ていた。
自分の胸の中にも、何かが溜まっていく感覚はあったのに。
目からは一滴も出てこなかった。
「ノア、泣けないの?」
そう言った誰かの声。
返事ができなくて、うつむいていたとき、
横から伸びてきた手が、頭にそっと置かれた。
「じゃあ、泣けるまで一緒にいようか」
セレンの声だった。
その少し後で、名前をくれた。
――ノア。
――泣けないけど、ちゃんと“在る”って意味で。
(……名前)
胸の鈴が、わずかに重さを増す。
*
――名は、殻。
湖のどこかで、黒い喉鳴りがした。
姿は見えない。
けれど、ノアの周りの水が一瞬だけ冷たくなる。
――殻は、喉にひっかかる。
――外せば、飲み込みやすい。
声は低くて、柔らかくて、
優しいふりをした刃みたいだった。
ノアはゆっくりと首を巡らせる。
動いているかどうか、自分ではよく分からない。
それでも、視線の先に「黒」があるのを感じた。
湖の中心。
そこに一本、底なしの穴みたいな影が立っている。
黒い柱。
けれど、本当はそれが「口」であり、「喉」なのだと分かる。
人の悲しみを、名ごと飲み込もうとしている口。
その表面に、細い糸が幾重にも巻き付いていた。
銀と青と、水の色。ミラの涙と、風の路と、調律の衣。
静哭湖の水が、その黒い口を縫い止めている。
――ここは、楽だ。
声が、もう一度、ノアの耳に届いた。
――泣けないおまえには、よく似合う。
――誰も、おまえに「泣け」とは言わない。
――何も、こぼさなくていい。
「……ここは」
ノアの声は、自分でも驚くほど、小さかった。
水の中で、泡になってすぐ消えてしまう。
「ここは、“無”じゃないの?」
――まだ、だ。
黒い柱の内側で、喉が笑った。
――王の涙が、悲を座らせた。
――だから今は、“重さ”が残っている。
――だが、いずれ腐る。腐れば、無と同じになる。
ノアの周りを漂っていた影たちが、かすかに揺れる。
誰かの肩が震え、誰かの膝が折れそうになり、
誰かの手が、空の何かをつかもうとして空を切った。
――悲は、長く座らせるほど、臭う。
――臭いは、喉に残る。
――無になれば、無臭。静かで、美しい。
(……きれい、なのかな)
ノアは、考える。
泣けなくて、周りの顔ばかり見ていたとき。
自分だけ乾いたままでいたとき。
あのとき感じたのは、美しさではなかった。
ただ、置いていかれるような感覚。
みんながどこかへ流れていくのに、自分だけ地面に縫いつけられているような。
――おまえは、流れられない。
――だから、沈めばいい。
黒い声が、耳のすぐそばで囁いた。
いつの間にか、黒い柱の一部が、糸からこぼれてノアの足もとへ伸びている。
冷たい舌先が、ノアのくるぶしに触れた。
感覚としては「冷たい水」とほとんど変わらない。
なのに、そこだけ、世界との接点が途切れそうな気がする。
――名を、外せ。
――鈴を手放せば、楽になる。
――誰も、おまえを呼ばない。
――“泣けない子”という言葉も、消える。
(……泣けない子)
ノアは胸に手を伸ばす。
今回は、ちゃんと指先が動いた。
鈴の輪郭が、指の腹に触れる。
冷たくて、小さくて、頼りない。
引けば、外れてしまいそうだ。
そのとき。
遠くの水面で、何かが揺れた。
――ノア!
声だ。
水を通して、震える線が降りてくる。
誰の声か、すぐ分かる。
拍匙〈息/息〉の音と一緒に覚えた声。
自分に名前をくれた人の声。
――ノア! ここは“無”じゃないよ!
こっちに、息がある!
水面の方角に、かすかな光が見えた。
一本の細い糸のような光が、湖の上から垂れている。
セレンの声に合わせて、光が一拍ごとに瞬く。
呼吸のリズム。
「外側」の高さ。
黒い喉鳴りが、苛立ったように震えた。
――あれが、殻だ。
――名を呼ぶ声。
――手すり。
――おまえを、世界に縫い留める針。
ノアの足もとを舐めていた黒い舌先が、鈴のほうへ伸びようとする。
だが、その途中で水がきしんだ。
静哭湖の水が、黒い糸をひと筋、強く締める。
ミラの涙の重さが、王の意志が、喰いの動きを縫い止めていた。
――邪魔を、するな。
喉鳴りが低く唸る。
湖そのものが、それに対して黙っている。
ただ、水の重さだけが、黒を動きにくくしている。
「……手すり、なの?」
ノアは、自分の口から出た言葉に少し驚いた。
イリスが言っていたのを覚えている。
拍所での、あのやり取り。
名は殻じゃない、呼吸の手すり――そんな言葉。
あのとき、ノアにはよく分からなかった。
今も、全部は分からない。
ただ、胸の鈴を掴んでみる。
引きちぎる力ではなく、
落としてしまわないように抱き寄せる動きで。
指に、鈴の輪が食い込む。
小さな痛み。それが、妙に「生きている」感じを連れてくる。
(……痛い。
でも、“無”よりは、こっちのほうが)
喉の奥の熱が、少しだけ強くなる。
目の裏側がじんとする。
それでも、涙にはならない。
けれど――
鈴の表面に、ぽたり、と一粒の水が落ちた。
湖の水とは違う、温度を持った一滴。
それが鈴を伝い、ノアの胸の内側へすべり込んでいく。
――観測:内部涙波、微弱発生。
どこかで、機械のような声がした。
アッシュの声に似ている気がした。
けれど、それはただの錯覚かもしれない。
黒い喉鳴りが、ひどく嫌そうな音を立てる。
――涙は、喉を詰まらせる。
――泣けなかった殻が、崩れる。
――おまえは、楽を捨てるのか。
ノアは、胸鈴を握りしめたまま、小さく首を振った。
「……楽かどうか、分からない。
でも、“ノア”って呼ばれるの、嫌じゃなかった」
セレンの声だけじゃない。
ルーファの風の音。
ミラの静かな呼吸。
イリスが一度だけ、名前を呼んでくれたときの、あの瞳の色。
全部が、湖の水の向こう側で揺れている。
「……だから、鈴は、外さない」
口にした瞬間、胸の鈴がかすかに熱を帯びた。
キン、と音は鳴らない。
けれど、内側で一拍、確かに鳴った気がした。
黒い舌先が、鈴に触れようとして弾かれる。
静哭湖の水がそこで渦を巻き、悲哀の重さが黒を押し戻した。
――名を、守るのか。
喉鳴りが、かすかに細くなる。
ノアは答えない。
ただ、胸の鈴から伸びる見えない糸を辿るように、
上のほう――セレンの声の方向へ顔を向けた。
上も下も分からない湖の中で、
それでも「外側」のある方角を、なんとなく感じ取る。
(……泣けないけど。
呼ばれたら、行きたい)
喉の奥の熱は、まだ涙にはならない。
けれど、その熱だけは、確かに「無」よりも重かった。
静哭湖の底で、ノアは初めて、
自分の“泣けなさ”を恥ではなく、「まだ来ていない何か」として抱えた。
黒い喉は、なおもそこにいる。
静かな湖は、なおも重さを保っている。
決着は、まだついていない。
けれど――
少なくともひとつだけ、ここで決まったものがある。
ノアは、自分の名前を手放さない。
そして、その名前を呼ぶ声のほうへ、
ゆっくりと、ほんの少しだけ――顔を上げた。
喉の奥にからまっていた言葉を、ノアはえいっと押し出す。
泡みたいに頼りない声が、水の中に弾けた。
「セレン……! ぼくは、ここだよ!」
その声がどこまで届くのか、ノアには分からない。
それでも、胸の鈴はさっきよりも確かに重く、温かかった。




