理と風と悲哀と
黒い喉鳴りが、拍所の底から這い上がる。
悲しみと静寂の境目を舐めるように、低い声が場を撫でた。
――王。核。
――涙で“湖”を作るつもりか。
――悲を集めれば集めるほど、喉は太る。喰うには都合がいい。
王涙の座標に、黒の気配がじわりと濃くなる。
悲哀と無が綱引きするように、空気の高さが軋んだ。
――巫女。ゼロの刃。
――おまえが開けた“静寂”が、ここまで喉を育てた。
――今度は、その王ごと、まとめて“内側”にしてやろう。
黒い“縫い目”が王涙の座標めがけて跳ね上がる。
塔根の影、臨時“拍所”の空気がきしんだ。
泣き損ねた声と、喰い損ねた闇が、同じ高さで擦れ合う。
イリスは一度だけ息を畳み、素早く全体を見渡した。
(高位で叩き潰すのは、ミラの仕事。――私は“削ぐ”)
「……まずは低位で抑える。場を壊さないように、“効率”だけ削る」
短くそう告げてから、指示を飛ばす。
「アッシュ、王から半歩前。ノルディアは“喉”優先。ミラに届く前で命令を切って」
「ルーファは拍と風路。ミラの息が乱れないように」
「セレンは王のそば、ノアの名を呼び続けて。エレボスに“外側”を見せてあげて」
そして、自分の立ち位置を決めるように一拍だけ踏む。
「私は縁。低位で削って、ミラの悲律が届くまで――持たせる。行くよ」
イリスが一歩、石の継ぎ目へ滑る。杖先が低く鳴った。
「理よ、界面の衣となれ――羽一枚、触れずに包め」
──【調律魔法第三階位――界面薄衣〈ヴェイル〉】
床から薄い“衣”が立ち上がる。透明な膜が拍所の地表をなぞり、王と喰いの間に一枚の面を引いた。
「涙の反位相を置く――過剰は外へ、呼吸は内へ」
──【調律魔法第四階位――反涙膜】
涙の高さだけが反転する。泣くべき喉の震えは内側へ、吸い取ろうとする黒だけが外側へ押し出される。
薄い衣が地表で裏返り、黒の吸引がわずかに緩む。角度が半拍ぶんズレた。
「今」セレンの声が落ちる。
アッシュは膝を沈め、左前腕をわずかに傾けた。面を走る光線が、ひとつ、ふたつと結び目を描く。
「限定ゼロ。命令層の結び目、最小断」
音はない。空気だけが一粒ほど跳ね、黒の軌道がコツ、と外れる。
ぱちり――“縫い目”の一部が解け、舌の先が床に落ちた。
《ノルディア》の面が淡く瞬き、アッシュの声が短く落ちる。
「観測:喰いの走路=“未練”濃度の高い点優先。毛布・椅子・喉元。避難線との交差、増加傾向」
――干渉検出。名で縫い留められた領域。効率、低下。
黒の喉鳴りが、低く不快な波を吐き出す。
身じろぎした縫い目が別の舌を地に這わせた。毛布の山、倒れた椅子、泣きたい者の喉もとへ――。
「拍線、足もと!」
ルーファが右掌を返す。
風が床の石目に沿ってスッと走り、転びかけた足裏へ“踏める間”を置く。踏段がひとつ、またひとつ。散った呼吸が拍所の高さへ戻る。
「二時へ、半拍」
イリスは短く合図し、界面薄衣を操って縁を偏向させる。反位相の面がすべり、黒の舌先が王から外れ、柱の影へと逸れた。
アッシュがその動きをなぞるように告げる。
「観測:縫い目ベクトル=王涙座標から“風路”側へ半拍ズレ。風との相性=中。調律、継続推奨」
途端、別の一条がセレンの喉めがけて跳ぶ。
「……来るな」
アッシュが声より速く踏み込んだ。《ノルディア》を差し挟み、面をひねる。
「二結び、ほどく」
青白い稲妻は出ない。ただ、黒の内側で“命令の結び目”だけが解け、攻撃の勢いが死ぬ。
喉を狙った舌が、セレンの肩先でふにゃり、と力を失い、粘る影となって床に貼り付いた。
(……セ、レ、ン……)
ノアの薄い声が黒の底で擦れる。
セレンは振り返らない。ただ頷きだけ返し、拍匙〈息/息〉を握り直す。
「ノア。ここは“無”じゃない。息してる。……一緒に、戻る」
近くの母子の肩へ匙を当て、呼吸を揃える。
揃った拍が、ノアの名を呼ぶ声の土台になる。
黒が王へ向けて体勢を作り直した。
座標一直線。王涙の甘さへ、縫い目が束になって伸びる。
拍所の中央で――ミラはもう、静かに詠唱を始めていた。
口唇はわずかに動くが、その言葉は誰にも聞き取れない。
悲しみを数え、名前を撫で、涙の重さをひとつの“形”にまとめていく長い祈り。
(第七階位……あれは、途中で止められない)
イリスが、ミラの周囲に集まり始めた悲哀の密度を見て直感する。
だからこそ、止めるわけにはいかない。
今ここでミラの喉が折れれば、この拍所ごと“無”に転がり落ちる。
《ノルディア》がわずかに震え、アッシュが短く報告する。
「観測:悲哀波形=王涙座標へ収束。ミラ喉負荷=上昇中。
推定詠唱残り拍数=少。妨害許容量、極小」
――王。核。泣の王。
――その喉を沈めれば、悲は無へと統一される。
黒い縫い目が、その気配を感じ取り、狙いを変える。
王へ、そしてその喉に絡みつこうと、束になって跳ね上がった。
「狙い、変えた……!」
イリスが低く呟く。
ミラは詠唱を止めない。代わりに、ルーファとセレンが前へ出た。
「王の前は、通さない」
セレンの掌が、水の皿の縁に触れる。拍匙〈息/息〉が、拍ごとにカチリ、カチリと鳴る。
ルーファがセレンと視線を合わせ、息をひとつ合わせる。
「悲を、路に変える。……やるよ、セレン」
「うん。一緒に」
二人の声が重なる。
「泣を導け。風よ、拍を踏め――」ルーファ。
「名をつなげ。呼ぶ声を“道”に変えて――」セレン。
──【共鳴複合律(悲哀×風×名)第四階位――風哭導】
ルーファの風が、セレンの呼びかけと重なり合う。
泣きたい者の胸から立ち上る悲哀が、風に乗って王の方角へと繋がっていく。
嗚咽はただの混線ではなく、細い“道”となって伸びる。
「拍、保持。乱れたら死ぬのは、こっち」
ルーファは冗談めかした声色で、しかし目だけは鋭く場を読む。
風の輪が王を中心にいくつも重なり、それらすべてがミラの喉元へ悲哀と魔素の細流を送り込む。
セレンはその中継点となりながら、ノアへ声を落とし続ける。
「ノア。聞こえる? ここで呼ばれてるの、全部“あなたの外側”からだよ。
無じゃなくて、ちゃんと“世界”から」
黒の底で、ノアの名が微かに揺れたような気配がする。
エレボスの喉鳴りが、不機嫌そうに濁る。
――名は、殻。
――殻は要らない。喰えば、みな同じ無臭。
「殻なんかじゃない。ノア、“あなた”って呼ぶための形だよ」
セレンは黒を見ない。振り向かずに、ただノアにだけ届くように声を落とす。
悲しみと祈りの境界、そのぎりぎりの高さで。
黒い舌の一部が、わずかに鈍る。
ミラへ向かう途中でほどけては落ち、風哭導が繋げた“道”に弾かれていく。
「……効いてる」
ルーファが小さく呟き、風の流量を一段上げた。「ミラに、もっと送る」
ミラの周囲の空気が重くなる。
悲哀が集まり、凝り固まり、王涙を中心にひとつの“重さ”を作っていく。
イリスはその変化を横目に、低位の魔法を途切れさせない。
「第二階位――拍律補正〈ルーメンパルス〉。
第三階位――界面再展開。
第四階位――反涙、角度調整」
拍所全体の“リズム”が揃っていく。
悲しみの高さ、呼吸の長さ、嗚咽の間隔。
エレボスが入り込める“乱れ”だけを削り取るように、調律の巫女は場を整えていく。
「アッシュ、“舌”の付け根。そこ、命令が濃い」
イリスの瞳がチラリと黒の束の根元を示す。
アッシュは短く「了解」とだけ応じ、足を前に出した。
「限定ゼロ。局所、三結び切断――」
踏み込みと同時に、腰のひねりで《ノルディア》を斜めに切り上げる。
面に刻まれた紋が一瞬だけ逆光し、そこから“光”というより“空白”の線が三本、扇状に解き放たれた。
《ノルディア》の面から、細く研ぎ澄まされた光刃が一筋、二筋と伸び、最後の一筋が遅れて追いかける。
光は派手に閃かない。ただ、触れた部分の“命令構造”だけを削ぎ落とす白い無音だ。
黒の舌が石を削る寸前、その付け根に白い線が走る。
ぱん、と小さくはじけ、縫い目が根こそぎ解けた。
飛沫のように散った黒は、イリスの薄衣にぶつかり、反位相の面で撥ね返される。
「観測:喰い構造、“多舌束”から“単一喉”へ移行傾向。
命令密度、中心部集中。危険度ランク=八王級、維持」
――ゼロ。喉を焼く空白。
喰いの声がひときわ低く沈む。
黒い縫い目が王を狙うのをやめ、今度は風哭導の“道”そのものを噛みちぎろうとする。
風と名と悲哀が繋がったルートに、牙を立てる。
ルーファの顔色が一瞬、悪くなる。
「……ごめん、少し重い……!」
風を通したぶんだけ、エレボスの喉鳴りが逆流してくる。
セレンの喉も、さきほどより掠れてきていた。
《ノルディア》が再び震え、アッシュが即座に告げる。
「観測:風路への逆流=上昇中。ルーファ負荷=高。
提案:風路、王心側優先/外縁ルートの切り捨て推奨」
「第三階位――界面薄衣、前面集中! “道”の縁で、反転!」
イリスが声を鋭くする。
薄衣の膜が風哭導の“路”の両側に沿って立ち上がる。
黒が道に噛みついた瞬間、そのベクトルは半拍だけ外側にすべらされる。
攻防は拮抗していた。
それでも――じわじわと、場の“高さ”はミラの側へ傾いていく。
静かに、しかし確実に。
王の口元から、長い詠唱の終わりが見え始めていた。
(……もうすぐ、来る)
イリスは喉の奥でそう呟き、魔法の重ね掛けを止めない。
ルーファは風の路を保ち続け、セレンは掠れた声でなおノアの名を呼ぶ。
アッシュは最前線で、黒の舌をゼロの光刃で切り払い続ける。
「観測:詠唱波形、終止形へ移行。静哭湖発動まで“数拍”。
ここからの妨害=致命的。防御優先に切替」
――鬱陶しい刃。
――均されるほど、我らは喉を広げる。
――ならばその殻ごと、沈めてやろう。
黒い縫い目の全てが、一か所に収束する。
ノアの小さな身体を中心に、喉と影が絡まり合い、ひとつの“黒い柱”へと変じた。
それはもはや舌ではなく、口そのものだった。
世界をひと呑みにできると信じて疑わない、無の喉。
「来る……!」
イリスは衣を限界まで薄く伸ばし、王と黒の間に最後の“羽一枚”を残す。
ルーファは風路を王から外れた者たちの背中へ回し、セレンはノアの名を呼び続ける。
アッシュは《ノルディア》を逆手に構え、黒柱の根を縛るようにゼロの枠線を刻む。
「観測:喉構造=単一柱形態。逃げ道=ノア身体周辺のみ。
ここで沈め損ねれば、拍所全体、呑まれる確率――高」
アッシュの観測とほぼ同時。
静謐の中心で、ミラは目を閉じないまま、静かに言った。
「――悲哀よ。ここに座りなさい。
泣ききれなかった声も、喰われかけた名も、すべて。
“無”ではなく、“湖”として」
その言葉が、長い長い詠唱の最後の一節だった。
「水よ、悲の重さを記せ。波なき湖をここに。ひと点に集い、喉を沈めよ」
──【悲律第七階位――静哭湖】
ミラの瞳が静かに細くなる。
王としての視線が、王としての悲哀が、ひとつの点へと落ちていく。
「皆、ここまで支えてくれてありがとう。エレボス、これで終わりよ。――静哭湖、落つ」
音もなく、悲しみだけを満たした湖心が裏返り、拍所の底ごと世界の深みへと沈降していった。
鈍い粘りの音が、拍所全体を震わせる。
黒い柱の足元から、重さが一気に奪われた。
影が鈍色に変わり、“喉”の形を保てなくなる。
沈む。沈む。
喰らいだけが、底で足を奪われる。
ノアの小さな身体ごと、黒い影を抱いたまま――悲哀の湖心へと、真っ直ぐ引きずり込まれていった。
拍所の空気が、一拍だけ持ち上がる。
次の拍が来る前、その場にいる誰もが息を忘れていた。




