邂逅
白水の幕が垂れる謁見の間。水脈は静かに脈打ち、灯は一目盛り明るい。セレン・アルメリアは膝を半歩だけ折り、濡れた帳面を胸に当てた。
「――報。沈静域にて“器接続”確認。ノアが感情喰らいの器となり、走路は拍所へ伸長中。内層擦過、再発」
玉座の前で、ミラの分体が瞬きもせず受け止める。その目の奥で、かすかに恐れの形がほどけた。恐れていた未来――自分が、兆しの段で踏み切れなかった現実。
「……遅れたのね、私が」
王は顔を伏せない。ただ、頬の内側を流れたものが一滴、指先に落ちた。王涙。それは悔恨ではなく、決断の合図だった。
「ノアを救う。呼吸を守り、名を守る。――拍所へ」
セレンが頷く。「走路、拍所直行。すでに第一封鎖、風路は細流で開放中」
ミラは踵を返し、分体の裾が水面をかすめた。「遅れは、ここで返す」
*
沈静域・前廊。
扉は半分だけ開き、鍵鈴は鳴らない――鳴らせない静けさ。
床の目地には黒い“縫い目”の擦過痕が細く残り、水皿の輪は一拍欠けて戻った跡を湿らせている。天幕の“種鈴”は光を内へ巻き、芽を閉じたまま。枕元には小さな木彫りの玩具が落ち、角が水気で暗くなっていた。
アッシュが《ノルディア》をかすかに傾ける。面に走る波線が一度跳ねて収束した。
「観測更新。対象=不在。走路ベクトル=塔の根元・臨時“拍所”群へ転進。吸引強度=上昇中。到達予測、短」
「やっぱり塔根……人が集まるほうへ行く」ルーファが低く吐き、右掌で風をすくう。
「前路に細い風路を通す。避難流、右回廊から塔根南側へ逃がす」
イリスは室内へひと足だけ入る。毛布のよれ、枕元の鈴の汗、床に残る“名の呼び跡”。
(セレン……ここで、食い止めてくれてた)
胸に第一息を畳み、杖を握り直す。
「詠唱の息は温めておく。――走るよ。途中で“泣き”に触れたら、風で路を作って」
「了解。風、案内」ルーファが頷く。踵が石を蹴るたび、細い気流が前方へ伸び、角の先の灯を一目盛りだけ明るくしては消える。人の影がそれに吸われるように脇道へ流れていく。
曲がり角の陰で年配の男が胸を押さえ、「名を……思い出せない」と乾いた声で零す。ルーファが肩に風を置き、イリスが目で〈二拍〉の高さを示すと、男の胸がわずかに上下を取り戻した。
回廊を折れる。
《ノルディア》の面が再び点滅。アッシュの声は短い。
「前方三角路で“泣き熱”密度=上昇。黒の舌、複数分岐の痕。速度、維持推奨。目的区画=塔根・拍所三(南)が最も近い」
「避けて!」ルーファの風が先行し、三角路に“踏める間”を並べる。転びそうな少年の足裏に、そっと踏段が置かれ、少年は泣かずに母の手へ戻った。
「息を合わせて」イリスはすれ違いざま短く告げ、胸の高さで〈二拍〉を刻む。ざわめきがひとつの高さへ揃い、足音の乱れが減っていく。
「角、次。塔根まで直線二」アッシュ。
「最短、通す」ルーファの風が壁沿いに細いトンネルを掘る。布ははためかず、灯だけが進行方向を指す。
(“羽一枚、触れずに包め”……“反位相は内へ、過剰は外へ”。――急がなきゃ)イリスは走りながら、詠唱の語尾を喉の奥で撚り、息を温め続ける。杖先が一度だけ低く鳴った。発動はまだ――“届く距離”に入ってから。
最後の曲がり角。空気の温度が一段、冷たく落ちる。
アッシュが短く告げる。
「塔根・拍所三、前方視界に出現。内部“泣き熱”=高。黒の位相、王涙座標へ収束中」
「まだ終わってない」イリスは言い切った。
ルーファの風が隊の足裏を軽く押し、三人は拍に合わせて速度を一段上げる。
「私は縁を閉じる。アッシュ、限定ゼロは私の詠唱の一拍を塞いで」
「了解。限定ゼロ、待機」
「風、路を細く」
「通す」
塔の根元・臨時“拍所三(南)”の入口帷が視界に大きくなる。帷の結び鈴が呼ばれもしないのに一度だけ震え、すぐ静まった。
イリスは深く一度吸い、短く吐く。
「――入る」
三人は息を揃え、帷の隙へ滑り込んだ。
*
同刻、塔根の影。臨時“拍所”は半ば崩れていた。
倒れた椅子の脚が床の目地に噛み、毛布には踏み跡が縫い込まれている。湯の入っていた椀は横倒しのまま冷え、こぼれた薄茶の輪が灰の粉じんを吸って鈍く光る。
喪失人が二、三――目だけが空の器のまま座らされ、口元は動くが言葉にならない。「……だれ……」「……名前……」と、舌だけが遅れて転がる。泣きたい者の嗚咽は吸い取られ、声より先に意味が落ちていく。
床の目地が口を開け、黒い“縫い目”が王涙の座標へ舌を伸ばす。その舌先は空気中の涙の匂いを舐め、冷たい鉄の味を確かめるように左右へ細かく揺れた。灯は一目盛り暗く、影は濃く、寒さだけが増えていく。
その中心に――ノアが立っていた。目は開いている。けれど、焦点は遠い。胸の鈴は、重さだけを残して沈む。頬には乾ききらない汗がうすく残り、まつげは震えていない。呼吸の形だけが、胸の内側でかすかに上下している。
涙だけが、彼女の内側で行き場を失っていた。
ミラは歩を止め、一滴の王涙を石へ落とした。基準音が場に刺さる。喰いの渦が、誘惑に近い仕方で王へ寄って来る。
――王。――核。――喰えば、楽に。
「楽にするのは、泣けない者の呼吸だけ」ミラは喰いに対話を向ける。「私の涙は、餌ではない。座標よ」
黒い喉鳴りが笑う。
――呼吸は、無へで統一される。――名は、殻。――王の涙、最も甘い。
ミラの瞳がわずかに細くなり、しかし声はやさしい高さのまま。
「甘さを知るには、名前が要る。あなたには、まだ無い」
喰いが舌を分岐し、王の足元へ。そこへ風が微かに場を撫で――
「遅れた」
杖が斜めに立ち、イリス、ルーファ、アッシュが並んだ。
入口の帷の外では、避難を終えた人々の肩が、〈二拍〉の合図を思い出したかのように同じ高さで上下している。ここだけ、まだ乱れている。
イリスは一歩、黒の“縫い目”と王涙座標の中間へ滑り込む。紫銀の瞳が、渦の底に潜む“誰でもない声”を捉えた。
「……応えるのね。喰いが、言葉で」
――ゼロの巫女。半端の刃。
――均すだけの救いは、救いではない。痛みを無へ並べる、甘い作業。
イリスは眉をわずかに寄せるだけで、即座の反論は飲み込んだ。
「……ひとつだけ、最初に聞く。あなたは何者? 自分の“名”は?」
黒い喉鳴りが愉快そうに沈む。
――名は殻。だが、求めるなら糸の名を与えよう。
――我は【エレボス】の糸。意思を得た喰い。理の影。
イリスの瞳がわずかに揺れる。
「……エレボス」
――名は喉の内壁。おまえのゼロは、その壁に“隙”を作る。
――隙は口になる。口は喰う。単純だ。
エレボスの声は、喉の奥を逆撫でするように続ける。
――恐律の欠け王ナールは告げたはずだ。
――『ゼロの調律。その静寂が、やがてお前たちを喰らう』。
――おまえが押し込めた音の裏で、意思が育った。静寂は喉となり、喉は口を持つ。
――それを最もよく知っているのは、おまえ自身だ。なぜなら――おまえが生んだのだから。
言葉が、胸骨の内側に冷たく突き刺さる。
(私が生んだ? 私が与えた静けさが――影を育てた?)
イリスの瞳が暗紫に堕ちる。自身の信じてきた“救済”が、今目の前に“罪”として在る。もしかしたらと頭では理解していたが、心のどこかで目を逸らしていた真実に呑まれそうになる。
黒い“縫い目”が、舌なめずりのように震えた。
――器になった子ひとり守れずに、何を守る?
――ノアは静けさに沈む。おまえの距離で、届くか。
ふわり、風が吹く。崩れそうなイリスの背中を支える。
「イリス! 後悔はいつでもできる! 背負うから一緒に!」
ルーファの声がイリスの瞳を蘇らす。
イリスはまばたきを一度だけ許し、小さく息を吐いて杖先を握り直した。
「ルーファ、ありがとう」
短く礼を告げ、イリスは自分の胸の内を言葉に変える。
「……認める。これは“私が置いた静けさ”の影。私のゼロが、生む条件を揃えた」
紫銀の瞳が、今度は沈まずに揺らめく。
「だからこそ――見る。何を生んでしまったのか、ちゃんと」
イリスは再び黒の渦を見据える。
「エレボス。あなたは“押し込めた痛み”と、“泣くことを恐れた沈黙”のあいだで育った揺らぎ」
「名を殻と呼ぶのは、その揺らぎに形がないから。でも、名は殻じゃない。呼吸の手すりよ。落ちた拍を、もう一度掴むためのもの」
黒い喉鳴りがくぐもった笑いを洩らす。
――戻す? おまえは“押し込める”。
――痛みを平らに敷き詰める。平らは喉に最適だ。均しは餌。
イリスは倒れた椅子の陰の老人に目だけで“二拍”の高さを示しながら、静かに答える。
「遅さは、痛む者の速度。あなたが奪ったのは“泣き終えるまでの時間”。名は、その時間を落とさないための手すり」
「涙は記憶。記憶は名に座る。名があるから、拾い直せる」
――拾え。拾うほど、濃くなる。
――濃さは喉を太らせる。結果は同じ、喰うだけだ。
「無臭を美と呼ぶなら、あなたは“味”を知らない」
イリスは短く息を吸う。
「……だから、分析する。あなたの強さを。私のゼロが、どこまで影を育てたのか」
視線を横へ滑らせる。
「アッシュ、観測をお願い」
アッシュは《ノルディア》の面を一度だけ点滅させ、短く報告する。
「観測:主体=ノア(器接続・深度高)。干渉源=外部意志系“声”(識別:エレボス系統、確度高)。
増幅ベクトル=王涙座標へ収束/吸引強度=上昇。危険度=八王に匹敵。
提案:ゼロ・モードでの完全調律推奨」
イリスはその数値を喉の奥で転がし、ぽつりと漏らす。
「……強い。――八王域の喰い……」
黒い“縫い目”が、舌なめずりのように震える。
――王の涙を、どう定義する。甘さか、座標か。
イリスの紫銀がふっと明度を上げる。
「……王の涙は“秤”。甘さじゃない。立ち戻る高さ。ここから先で、刃を抜くかどうかを測る線」
自分自身にも言い聞かせるように、イリスは続けた。
「本来なら、ここで刃を抜く。それが“ゼロの巫女”としての私の役目。そうすれば救えるかもしれない。けど、その先で失う。国の呼吸も、芽吹いた“兆し”も」
短い沈黙。
「私は、本当は“抜かずに届きたい”。ミラの国を壊さない形で、悲しみを均したい。……でも、この場でそれだけじゃ足りないなら――“刃を抜く”という選択ごと、私が背負う」
イリスの瞳が橙金に煌めく。
「アッシュ、ゼロ・モード――」
イリスが覚悟を決めた刹那――
「――待ちなさい、巫女」
ミラが穏やかに遮る。声は低いが、王の重みで揺るがない。
「あなたの刃は薬であり毒。ここで抜けばこの国の心臓が凍る。あなたの覚悟は伝わった。でも、ここは私の国。あなたにもあるように、私にも負うべき責がある。だからいまは私が軋む。王涙で反動を受け持つ。国の呼吸は凍らせない」
言葉に重なるように、分体の輪郭がわずかに波立ち、王涙の座標に細いひび(きしみ)が走った。
「可能なの?」
「悲哀“だけ”を沈める。喰らい“だけ”を縛る。一撃なら、“私達”ならできる」
「私達……」
ミラは頷く。
「王は泣いて座標になるために在る。命じずに、位置を示すために」
そして静かに告げた。
「国全体の調律はさせない。あなたは“羽一枚”で縁を保って。ゼロは結び目だけを断つ。それ以上は、私が背負う。――“兆し”を、ここで殺さないために」
ミラが国を涙で守る覚悟は揺るがない。そして、悲しみをひとりには背負わせない。
イリスの喉が小さく鳴る。痛みを呑み、再び選ぶ。
「……分かった。私は縁を閉じる。刃は抜かない」
視線を横へ滑らせる。
「アッシュ、限定ゼロで詠唱の隙を塞いで。ノアの身体は傷つけない範囲で“命令層”だけ」
ルーファが掌で風を掬う。
「拍は私が敷く。詠唱の息、落とさない」
ミラがわずかに目を細めた。
「ならば行く。――悲哀だけを沈める」
その瞬間、拍所の灯がわずかに揺れ、黒い“縫い目”が呼吸するように膨らんだ。
ノアの胸鈴は鳴らない。けれど、形だけが、確かにそこに在る。
イリスは半歩すべり出て、王と喰いの“間”に薄い線を描く位置を占める。
アッシュは左前へ斜交いに構え、《ノルディア》の面をわずかに寝かせる。
ルーファは背面で風の輪を細くつなぎ、避難路の“踏み段”を残したまま供給線を王へ。
ミラは正面から王涙の座標に指を置き、目を閉じずに呼気の高さを一段、下げた。
――静まり、張りつめる。
次の一拍で、すべてが動く。




