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セレン vs “喰い”

扉は、呼吸を一枚はさむほどの幅で開いた。

冷たい気配が足首を撫でる。鍵鈴は鳴らない――鳴らせない沈黙。


セレン・アルメリアは、板に左掌を置いた姿勢のまま、室内を斜めに切る。

天幕の内、寝台。毛布は乱れ、枕元の水皿の輪が一拍だけ欠け、すぐ戻る。

その欠け目から、黒い“縫い目”が糸のように伸びて、ひとりの少女の足首をなぞっていた。


ノア――。

セレンは声帯を冷やさないように息を整え、正面から言葉を置く。


「……何者。ノアを返しなさい」


影の奥で、喉の奥で、**“誰でもない声”**が笑う。耳ではなく、骨に触れて。


――返せ? おかしなことを言う。

――元からこれは、我の器。


寝台の上のノアは、目を開けている。だが、その焦点は遠い。

喉は沈黙し、胸元の“本鈴”だけが汗に濡れて重い。天幕の“種鈴(音の芽)”は、光を内に巻き込んで薄い。


黒い縫い目がふくらみ、床の目地が口の形にひらく。

吐息も気配も吸い込む“喰い”の喉鳴りが、室内の拍を潰しかけた――


セレンは半身に開き、間合いを一枚ずらす。

影の舌が床を舐めて伸び、脚を絡め捕ろうとする。


セレンは拍匙の柄の刻印部を床の目地へそっと当てる。体温で温めた木が微かな振動(拍)を残し、“喰い”の流れが一拍だけ鈍る。


その余白に、セレンは掌を寝台の端へ滑らせ、ノアの踝と影の間へ“見えない布”を差し込むように重心を置く。

音は立てない。拍だけを置く。〈息/息〉――二拍の微かな合図。


――無駄だ。

――名も拍も、器の底には届かぬ。


「届かせる」

セレンはノアの名を、最初のやわらかさで呼ぶ。


「ノア」


硬い。沈む。黒い縫い目が足裏から脛へ、体温を測るように這い上がる。

セレンは間合いを退かない。もう一段、名を深く落とす。


「“ノア”」


影がわずかに躊躇し、すぐ笑った。


――それは殻だ。休む“間”の名。

――いま働くのは我、喰うための喉。悲哀を増幅し、王へ導く。


黒い舌が分岐した。二条、三条。床の目地から生えた影は、彼女の膝・肘・喉を同時に狙う。

セレンは膝を滑らせ、肩を落とし、避ける。斬らない。殴らない。

拍匙の柄で影の走路を“ずらす”だけ――“命令層の結び目”ではなく、感情の流れを一指ぶん逸らす。


しかし、ひと口が死角から跳ねた。

セレンの頬を掠め、皮膚の下の“泣く器官”を冷やす毒のような冷え。

視界の端で、ノアの喉が一度だけ震え――声にはならない。


「ノア、聞いて」

セレンは床板に膝を下ろし、天幕の“種鈴”と本鈴のあいだを視界に入れる。

鈴は鳴らさない。鳴らせない。名だけを使う。名を、刃にしないために。


「ノア、ノア、〈ノア〉」


三段の呼称が、室内の空気に目に見えない柱を立てる。

同時に影の舌が跳ね、セレンの喉元へまっすぐ走った。


――遅い。

――返答は“喰う”だ。


黒が迫る。セレンは顎を半寸引き、拍匙の“刻印面”を喉前に添えるだけに留めた。

木は柔らかく、刃ではない。だが刻まれた〈ここで息をして〉の凹みが、彼女の鼓動を拾って拍に変える。

黒の舌が一拍だけ遅れ――次の瞬間、軌道を変えて肩口を狙う。


(受けない。受けたら、彼女が痛む)

セレンは肩で空気を割り、袖の中で素手の形を作る。

掌はひらく。掴まない。押さえない。ただ“喰い”の軌道線に"間”を置く。


――もどかしい。喰わせろ。

――まずは、おまえから。


影の縁が笑ったとき――

室内のどこにも属さないかすかな声が、影の裏側で割れた。


(……セ、レ、ン……)


黒が、止まった。

半拍。呼吸一つぶんにも満たない余白。


(逃げて、セレン。抑えられるのは――一瞬だけ)


同じ器の、まったく同じ場所から響く声。

黒い“喉鳴り”と同じ喉で、違う言葉が立った。

ノアだ。ノアが内側から黒を押さえつけている。


セレンは一歩も退かず、呼気を短くし、視線をノアの瞳へ合わせる。

焦点はまだ遠い――それでも、在る。

彼女は名を呼ぶ。名の最深部を、そっと撫でるように。


「……〈ノア〉。合図は覚えてる。鳴らさなくていい。いまは――息をして」


黒が唸る。

影の舌が暴れた。

ノアの声がきしむ。(だめ、来る……!)


セレンは防戦を崩さない。

拍匙で“喰い”の軌道を折り、袖で刃のない壁を作り、床の目地に〈息/息〉の拍を落とし続ける。

手足は流れるが、攻めない。

たった一度でも“実体”を傷つければ、それはノアを傷つける。


――煩わしい。

――殻(名)を砕けば、楽になる。


黒の舌が散弾のように割れ、視界の全方位から襲いかかる。

一本が死角から、ほぼ同時に――喉!


(避けきれない――!)


刹那、黒の根が痙攣した。

ノアの内側からかかった力が、影の命令線をわずかにほどく。


――干渉検出。器内からの“逆位相”。

――名で縫われた部位は効率が悪い。


(セレン、だめ、逃げて。ぼく――セレンを、喰らいたくない)

(はやく。いまの一瞬だけ)


セレンの視界が熱くゆがむ。

涙は落とさない。落とせない。いま落とせば、悲哀の熱が“喰い”に餌をやる。

だから、声だけで約束する。名の上に、言葉を置く。


「必ず助ける。――〈ノア〉、待ってて」


喉へ迫った影の舌先に――セレンは頬を寄せる。

わざと一寸だけ、自分のほうへ軌道をずらして受け流す。

痛みは来ない。冷たさだけが頬を撫でて、背後の柱へ吸い込まれた。


ノアの声が、紙のように薄く震えた。

(ありがとう……ごめんなさい)


黒が、戻る。

喉鳴りが低く笑い、ノアの焦点を塗りつぶす。


――無駄な足掻き。

――余計なことを。

――まあ、よい。


床の目地が開く。


――餌の密度は、向こうだ。

――王涙の座標。拍所。泣きたい者の“熱”。

――器、優先命令に従え。


黒い縫い目は、寝台の脚から、廊の影へ、さらに外――拍所の方向へと薄く長く走っていく。

人の呼吸が集まる場所。泣きたい者が集う場所。餌場。


黒は跡形もなく消えた。


セレンは拍匙を袖に戻し、部屋の灯を一目盛り上げる。

その光が内巻きに飲まれないことを確かめ、扉口で静かに囁く。


「名は、刃にしない。――でも、救いにする。必ず」


彼女は身を翻す。

廊に出た瞬間、護衛に短く合図を切る。


「第一封鎖、維持。風路は細流で開けて――“泣かせず、息させる”ほうへ。私は王の元へ」


足音は走らない。

拍に合わせて速く歩く。

涙は落とさない。いまは、約束だけを胸に置いて。


(〈ノア〉――必ず、戻る)

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