表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/50

鈴の底で

沈静域・夜半。

灯はひと目盛りだけ増やされ、天幕の“種鈴たねすず”が、糸の先でうすく息をしている。


ノアは、眠っていない。

毛布の角を直角に折って、胸に“本物の鈴”を当て、ひとつ呼吸を数えるたび、紐を一回だけ撫でる。〈いま〉を保存する練習。

やさしい味の“ひみつ”は、舌の奥でまだ温かい。ルーファの笑顔、アッシュの「保存」の声、セレンの「それでいいわ」という頷き。全部、ここに貼りつけておく。


……それでも、足もとは冷たい。


床の水脈の目地で、輪がひとつだけ欠け、すぐ戻る。

(また、来た)

朝から時々、ひやりが通る。氷じゃない。泣き香みたいな、色のない冷え。


「……セレン」――呼びたくなる名前をノアは喉で止める。合図はまだ早い。鳴らさない約束をした。

彼女は、息。――ひとつ、吸って、吐く。

“種鈴”がかすかに応える。光の脈だけ、音は持たない。


そのとき、冷えが言葉になった。


――器。


耳ではない。毛布の内側、胸の鈴の金属よりさらに内側。骨と水の間。

声は、落ちてくる。


――器。悲哀を喰うために、つくられた器。

――名は優しい。けれど、名は殻だ。おまえの底に残されている目的は、ひとつ。


胸の鈴が一度だけ重くなった。紐を握る指が濡れる。汗か、涙か、分からない。

(王さまの涙は、基準の音……ミラの声、きれいだった。喉がふるえるような静かな音)


「いや」ノアは首を振る。

「ぼくは、喰わない。ぼくは……“ノア”だから」

(セレンが、くれた。休める“間”の名前)


――ノア。よい響き。休む“間”。

――では、間の外で働け。おまえは“喰い”の喉。悲哀の密度を増幅して、口を開かせる。

――この国の涙を、王の涙を、丸ごと飲み込むために。


床の目地に、墨を一滴落としたみたいな影が滲む。

それは這うのではなく、ノアの足の形に“合わせて”止まり、足裏の輪郭をなぞった。器の底を測るように。

「やめて」

ぴり、と冷えが脛を上がる。

毛布を跳ねて立ち上がろうとして、膝が笑った。力が抜ける。鈴の紐だけが、指の骨に硬く残る。


――呼ぶな。風の巫女も、調律の巫女も。

――“芽”はいらない。鳴らずに済む方が、楽だ。


“種鈴”の光が、ふっと内側に巻かれて薄くなる。

ノアは両手で胸の鈴を抱え、紐を引く。鳴らすつもりはない。ただ、触れていたい。

(鳴らさない鈴。音の芽。……セレンが置いてくれた“最初の一音”)

喉の奥で、言葉にならない息が上ずる。


――おまえの最初の涙は、王のために落ちるだろう。

――王は悲哀の核。国の心臓。喰えば、楽になる。

――楽にして、やれ。


「いや」息が乱れる。「ぼくの最初の涙は、セレンのために――」

(約束した。ぼくが泣きたいとき、鳴らす。セレンは側にいるって)

「だから、ぼくは――」


――泣かなくていい。泣き方が、分からないのだろう?

――ならば、喰え。悲哀を、王を。

――“静けさ”に戻すのだ、器。


足首に冷たい糸がかかり、引かれた。

部屋が傾く。いや、床の目地が“口”になってひらき、そこへノアだけが滑っていく。

天幕の布は揺れない。水皿の輪は静かだ。なのに世界の一部分だけが音を失って、彼女を奪う。


「……セレン」小さい声が漏れる。届かない。

鳴らないはずの“芽”が、ぎゅっと暗くなった。胸の鈴が、やさしい重さから、鉄みたいな重さに変わる。

指から、するりと落ちる。


――ノア。名はここまでだ。

――“器”に戻れ。


ノアは、かぶりを振る。毛布が足に絡んで、影の冷えと喧嘩する。

(ぼくは、器じゃない……器だったかもしれないけど、それでも――“ノア”だ)


喉に声を集める。泣き方は分からない。けれど、叫び方なら、たぶん――。


「――いやだ!」

音が出た。泣き声ではない。きしむ叫び。

影が、いったんだけ躊躇った。

次の拍で、その躊躇いさえ飲み込んで、床の口がノアの膝を呑む。


視界の端で、“種鈴”の糸が黒く細く、逆さにしなる。

胸の奥へ、冷たい穴が穿たれる。そこに、知らない風景が映る。

黒い渦。歯のない唇。縫い目のない口。昨日、外庭の真ん中で見た巨大な“喰い”と、まったく同じ構造が――ノアの中から、外へ生えた。


(いやだ。いやだいやだ。セレン、ルーファ、アッシュ――)


声は、やさしくなった。

――やさしい世界に、戻そう。

――泣きたい者も、泣けない者も、等しく静かに。

――そのために、おまえはつくられた。


ノアは最後の足掻きで、掌を天幕へ伸ばす。糸が揺れる。“芽”が、ほんの一瞬だけ、白く光った。

(鳴らす――!)

でも、鳴らない。鳴らないのに、世界のどこかが“大きく鳴った”。


喉の底で、何かが翻る。

鈴の空洞が、喰いの喉に接続される感覚。

ノアの“静けさ”が、黒い渦へ注がれて、吸引が膨らむ。

増幅。

外庭で王の涙が作った“基準音”の座標が、闇の中で灯り、そこへ線が――繋がる。


(やめて)

(ぼくは、ノア。ぼくは――)


闇が、目と口を共有した。

ノアは自分の中で、倒れこむみたいに沈んでいく。

身体は寝台の上にあるのに、身体のほうが“外”になって、彼女の“中”が国土に伸びる。

悲哀の密度が、冷たい快楽みたいに喉を満たす。

吐きそうだ。

でも、吐かない。吐けない。喰うように呼吸してしまう。


「――――ああっ!」


叫びが、部屋を破った。

天幕の布がふわりと持ち上がり、種鈴の光がぱちっと弾けて消える。

床の目地が口をすべらせ、黒い渦の“縁”が、ノアの足もとから外庭へ、塔の根元へ、王の涙の座標へと走った。



同時刻。

外庭の片隅。

《ノルディア》の核面で、波形が跳ね上がる。


「観測異常――沈静域から“喰い”の逆流。増幅ベクトル=内部由来。」アッシュの声が硬く速い。


ルーファが振り向きざまに風を立てる。

「いま、宮が泣いた――!」


イリスは顔を上げ、ルミナリアを胸に引きつける。紫銀の瞳が夜の水脈を掴む。

「界面、裂けた。位置は――沈静域!」


ミラの分体が震える。

「王涙が、逆流……?」


すべての足が、次の一歩のために同時に沈む。

鈴のない音が国の芯を鳴らし、沈静域へ向かって、風と理と王の涙が――一斉に振り向いた。



セレンはその瞬間、記録卓で筆を止めた。

腰の計測珠が、輪をひとつ欠かせてから、強い脈で戻す。〈沈静域/内層擦過〉――帳面の端に自動刻印が走る。

廊の灯が、息を呑むみたいに一段だけ明るくなった。彼女は顔を上げ、護衛へ指で“静音搬送”の合図を切る。


「沈静域、第一封鎖。風路、細流開通。――拍は保って、鳴きを上げないで」


声は低い。けれど、足はすでに走っている。

角をひとつ曲がるごとに、水脈が微かに欠けては戻り、床の目地に墨のような“影”の痕が残る。

(名は、刃にならない。――でも)

扉前に着く。鍵鈴が、呼ばれていないのに一度だけ震えた。


拍匙は“刃にしない救い”。音を立てずに拍だけ置ける――恐慌の流れを一拍ぶん、遅らせる。

セレンは二拍の合図を指で打つ。〈息/息〉

中から返る光はない。

(ノア。――待ってて。合図は覚えてる)

唇だけで名を形作り、声にはしない。名を、救いのためだけに使うために。


「開錠。静かに」

扉番が頷き、錠機が音を殺してほどける。

冷たい気配が足もとを撫でた。水皿の輪が一つだけ欠け、すぐ戻る。

セレンは息を整え、最短で部屋へ滑り込む準備をしながら、廊に残した護衛へ手短に告げた。


「合図したら――風を通して。“泣かせず、息させる”ほうへ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ