鈴の底で
沈静域・夜半。
灯はひと目盛りだけ増やされ、天幕の“種鈴”が、糸の先でうすく息をしている。
ノアは、眠っていない。
毛布の角を直角に折って、胸に“本物の鈴”を当て、ひとつ呼吸を数えるたび、紐を一回だけ撫でる。〈いま〉を保存する練習。
やさしい味の“ひみつ”は、舌の奥でまだ温かい。ルーファの笑顔、アッシュの「保存」の声、セレンの「それでいいわ」という頷き。全部、ここに貼りつけておく。
……それでも、足もとは冷たい。
床の水脈の目地で、輪がひとつだけ欠け、すぐ戻る。
(また、来た)
朝から時々、ひやりが通る。氷じゃない。泣き香みたいな、色のない冷え。
「……セレン」――呼びたくなる名前をノアは喉で止める。合図はまだ早い。鳴らさない約束をした。
彼女は、息。――ひとつ、吸って、吐く。
“種鈴”がかすかに応える。光の脈だけ、音は持たない。
そのとき、冷えが言葉になった。
――器。
耳ではない。毛布の内側、胸の鈴の金属よりさらに内側。骨と水の間。
声は、落ちてくる。
――器。悲哀を喰うために、つくられた器。
――名は優しい。けれど、名は殻だ。おまえの底に残されている目的は、ひとつ。
胸の鈴が一度だけ重くなった。紐を握る指が濡れる。汗か、涙か、分からない。
(王さまの涙は、基準の音……ミラの声、きれいだった。喉がふるえるような静かな音)
「いや」ノアは首を振る。
「ぼくは、喰わない。ぼくは……“ノア”だから」
(セレンが、くれた。休める“間”の名前)
――ノア。よい響き。休む“間”。
――では、間の外で働け。おまえは“喰い”の喉。悲哀の密度を増幅して、口を開かせる。
――この国の涙を、王の涙を、丸ごと飲み込むために。
床の目地に、墨を一滴落としたみたいな影が滲む。
それは這うのではなく、ノアの足の形に“合わせて”止まり、足裏の輪郭をなぞった。器の底を測るように。
「やめて」
ぴり、と冷えが脛を上がる。
毛布を跳ねて立ち上がろうとして、膝が笑った。力が抜ける。鈴の紐だけが、指の骨に硬く残る。
――呼ぶな。風の巫女も、調律の巫女も。
――“芽”はいらない。鳴らずに済む方が、楽だ。
“種鈴”の光が、ふっと内側に巻かれて薄くなる。
ノアは両手で胸の鈴を抱え、紐を引く。鳴らすつもりはない。ただ、触れていたい。
(鳴らさない鈴。音の芽。……セレンが置いてくれた“最初の一音”)
喉の奥で、言葉にならない息が上ずる。
――おまえの最初の涙は、王のために落ちるだろう。
――王は悲哀の核。国の心臓。喰えば、楽になる。
――楽にして、やれ。
「いや」息が乱れる。「ぼくの最初の涙は、セレンのために――」
(約束した。ぼくが泣きたいとき、鳴らす。セレンは側にいるって)
「だから、ぼくは――」
――泣かなくていい。泣き方が、分からないのだろう?
――ならば、喰え。悲哀を、王を。
――“静けさ”に戻すのだ、器。
足首に冷たい糸がかかり、引かれた。
部屋が傾く。いや、床の目地が“口”になってひらき、そこへノアだけが滑っていく。
天幕の布は揺れない。水皿の輪は静かだ。なのに世界の一部分だけが音を失って、彼女を奪う。
「……セレン」小さい声が漏れる。届かない。
鳴らないはずの“芽”が、ぎゅっと暗くなった。胸の鈴が、やさしい重さから、鉄みたいな重さに変わる。
指から、するりと落ちる。
――ノア。名はここまでだ。
――“器”に戻れ。
ノアは、かぶりを振る。毛布が足に絡んで、影の冷えと喧嘩する。
(ぼくは、器じゃない……器だったかもしれないけど、それでも――“ノア”だ)
喉に声を集める。泣き方は分からない。けれど、叫び方なら、たぶん――。
「――いやだ!」
音が出た。泣き声ではない。きしむ叫び。
影が、いったんだけ躊躇った。
次の拍で、その躊躇いさえ飲み込んで、床の口がノアの膝を呑む。
視界の端で、“種鈴”の糸が黒く細く、逆さにしなる。
胸の奥へ、冷たい穴が穿たれる。そこに、知らない風景が映る。
黒い渦。歯のない唇。縫い目のない口。昨日、外庭の真ん中で見た巨大な“喰い”と、まったく同じ構造が――ノアの中から、外へ生えた。
(いやだ。いやだいやだ。セレン、ルーファ、アッシュ――)
声は、やさしくなった。
――やさしい世界に、戻そう。
――泣きたい者も、泣けない者も、等しく静かに。
――そのために、おまえはつくられた。
ノアは最後の足掻きで、掌を天幕へ伸ばす。糸が揺れる。“芽”が、ほんの一瞬だけ、白く光った。
(鳴らす――!)
でも、鳴らない。鳴らないのに、世界のどこかが“大きく鳴った”。
喉の底で、何かが翻る。
鈴の空洞が、喰いの喉に接続される感覚。
ノアの“静けさ”が、黒い渦へ注がれて、吸引が膨らむ。
増幅。
外庭で王の涙が作った“基準音”の座標が、闇の中で灯り、そこへ線が――繋がる。
(やめて)
(ぼくは、ノア。ぼくは――)
闇が、目と口を共有した。
ノアは自分の中で、倒れこむみたいに沈んでいく。
身体は寝台の上にあるのに、身体のほうが“外”になって、彼女の“中”が国土に伸びる。
悲哀の密度が、冷たい快楽みたいに喉を満たす。
吐きそうだ。
でも、吐かない。吐けない。喰うように呼吸してしまう。
「――――ああっ!」
叫びが、部屋を破った。
天幕の布がふわりと持ち上がり、種鈴の光がぱちっと弾けて消える。
床の目地が口をすべらせ、黒い渦の“縁”が、ノアの足もとから外庭へ、塔の根元へ、王の涙の座標へと走った。
*
同時刻。
外庭の片隅。
《ノルディア》の核面で、波形が跳ね上がる。
「観測異常――沈静域から“喰い”の逆流。増幅ベクトル=内部由来。」アッシュの声が硬く速い。
ルーファが振り向きざまに風を立てる。
「いま、宮が泣いた――!」
イリスは顔を上げ、杖を胸に引きつける。紫銀の瞳が夜の水脈を掴む。
「界面、裂けた。位置は――沈静域!」
ミラの分体が震える。
「王涙が、逆流……?」
すべての足が、次の一歩のために同時に沈む。
鈴のない音が国の芯を鳴らし、沈静域へ向かって、風と理と王の涙が――一斉に振り向いた。
*
セレンはその瞬間、記録卓で筆を止めた。
腰の計測珠が、輪をひとつ欠かせてから、強い脈で戻す。〈沈静域/内層擦過〉――帳面の端に自動刻印が走る。
廊の灯が、息を呑むみたいに一段だけ明るくなった。彼女は顔を上げ、護衛へ指で“静音搬送”の合図を切る。
「沈静域、第一封鎖。風路、細流開通。――拍は保って、鳴きを上げないで」
声は低い。けれど、足はすでに走っている。
角をひとつ曲がるごとに、水脈が微かに欠けては戻り、床の目地に墨のような“影”の痕が残る。
(名は、刃にならない。――でも)
扉前に着く。鍵鈴が、呼ばれていないのに一度だけ震えた。
拍匙は“刃にしない救い”。音を立てずに拍だけ置ける――恐慌の流れを一拍ぶん、遅らせる。
セレンは二拍の合図を指で打つ。〈息/息〉
中から返る光はない。
(ノア。――待ってて。合図は覚えてる)
唇だけで名を形作り、声にはしない。名を、救いのためだけに使うために。
「開錠。静かに」
扉番が頷き、錠機が音を殺してほどける。
冷たい気配が足もとを撫でた。水皿の輪が一つだけ欠け、すぐ戻る。
セレンは息を整え、最短で部屋へ滑り込む準備をしながら、廊に残した護衛へ手短に告げた。
「合図したら――風を通して。“泣かせず、息させる”ほうへ」




