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無の器起動

――世界の鼓動が、再び歪み始めていた。


塔の最上階。

光の結晶が不規則に明滅し、封印の律動が軋む。

八つの符文のうち、三つが淡く――危うく脈打っていた。

その波形は音にならない音――世界の心拍。


イリスはそれを、耳ではなく骨で聴いた。

理性で築いた静寂の奥に、世界の叫びがひび割れる。

(この鼓動……まだ、終わっていないのね。)


八王。

それはかつてこの世界を焼き尽くした感情そのものだった。

怒り、悲哀、恐怖――人の情動が極限に達し、神格へと昇華した存在。

世界の理が感情に飲まれ、愛も正義も怒りも悲しみも区別を失い、

ひとつの意思を持って互いを喰らい合った。

その果てに、世界は崩壊した。


――あの夜。

調律の巫女イリスは封印を行い、感情を律へと還した。

だが、その反動は彼女の完璧なゼロとしての理性を削り取った。

いまや、世界のゆらぎを抑える力は彼女一人では足りない。

塔の光が軋むたび、彼女はその事実を突きつけられていた。


(……私はもう、完全ではない。)


その胸に走るのは、痛みでも絶望でもない。

それは恐れに似た認識。

かつて自ら封じたはずの感情の波――。


灰の海の果て、世界の底で眠るヴォイドの波長が微かに呼応する。

それは、八王の封印が崩壊する前兆。

同時に、かつて世界を焼いた感情の理そのものの再誕だった。


(今度こそ、完璧に封じなければ。)


その決意の下に、イリスは塔の奥に眠る創造の間へと歩を進めた。

彼女がそこへ足を運ぶのは、実に三百年ぶりだった。


扉の奥――

その空間は、光と記憶の残響で満ちていた。

宙に浮かぶ無数の符文が旋律を奏で、古代語の調律式を描く。

壁に刻まれた魔法陣の中心で、静かに脈打つ空の結晶。

それはまだ名を持たぬ、無の核。

世界がもう一度、生まれようとする胎動だった。


イリスはその前に立ち、白い息を吐いた。

息は灰に似た粒子となって空に溶け、微かに光を散らす。

(これが、私に残された最後の祈り。)


――アッシュ。

彼女が創り出した、無色の器。


その計画は、封印直後の虚無の時代から始まっていた。

世界の感情が再び膨張することを恐れ、

完全なゼロではなくなった己を知る彼女は、

感情の波を測定し中和できる存在――

理性そのものを持つ人の形を創造しようとした。


それは、神の模倣でも、人の夢でもない。

世界が世界を保つために必要とした、もう一つの心臓だった。


(私は、もう一度あの夜を繰り返さないために……。)


イリスの指先が符文に触れる。

空間が震え、光が一気に溢れ出す。

塔全体が共鳴し、光の帯が足元から天へと走った。


「起動式第七層、開放。魂の座標、虚数軸へ転換。」


その言葉は音ではなく、存在を震わせる律だった。

塔の心臓が応答し、床に描かれた魔法陣が一つひとつ光を灯していく。


イリスは中心に進む。

その足取りは迷いなく、けれどその瞳の奥にはかすかな揺らぎがあった。

(……私は本当に、再び世界を均すの?)

覚悟を決めたはずの心の奥で、問いが響く。

(この手でまた、誰かの声を消すことになる気がして――。)


封印の夜に沈めたはずの心の残響が、理性の底で静かに軋む。

それでも、世界のため――それがイリスのすべてだった。


「――虚無より零れ出でし空の器よ。

 私の言葉を命とし、形を得よ。」


光が閃く。灰が舞い上がり、空間が歪む。

やがて、その中心から影が形を成していく。

最初は曖昧な光の塊だった。

だがイリスが両手を掲げると、

その光は律動を帯び、音を持ちはじめる。


――それは、息の誕生。


呼吸の波が空気を震わせ、塔の封印が共鳴する。

イリスは思わず目を閉じた。

その音は祈りに似ていた。

(世界が……もう一度、歌ってる。)


やがて光は人の形を得た。

輪郭、肌、骨格――。

それらは、まるで記憶の中から掬い上げられたように整っていく。

だがイリスには、それが誰に似ているかなど知る由もない。


「魂の座標、安定。思考回路、空白。

 感情回路――未起動。よし。」


淡々と呟きながら、イリスは調律の腕甲を展開した。

右手の光輪が淡く輝き、

そこから幾千もの符文が流星のように走る。

それらはすべて、アッシュの身体へと吸い込まれていく。


「これが、あなたの始まり――無の器。」


静寂。

塔の鼓動が止まり、空間全体が一瞬だけ凍りついた。

次の瞬間、アッシュの瞳が開く。


光を映さない、無色の瞳。

その奥には、観測のための完全な空があった。


呼吸音が響く。

それは、生き物がこの世界で最初に放つ声。


イリスは言葉もなく見つめた。

その姿は完璧なはずなのに――

胸の奥に、微かなざわめきが生まれる。

(……なぜ、懐かしい?)


知らぬ感覚。

それは理性の巫女として封じたはずの心の揺らぎ。

イリスはそれを感じ取った瞬間、唇を固く結んだ。


「……出力安定、確認。」


声がわずかに震えていた。

アッシュが視線を上げる。

その瞳に、彼女が映る。


「命令を、確認。」


その声は無機質で、完璧に制御されていた。

しかし、その響きの奥に、ほんの僅かに温度があった。

まるで、まだ形を得ない感情の種のように。


「あなたの名は、アッシュ。

 無色の器。

 この世界を観測し、調律の支点となる。」


「……観測とは?」


イリスの指先が止まる。

彼女は目を細め、わずかに息を吐いた。


「世界の歪みを測ること。

 人の心の揺らぎを数に変えること。」


アッシュは瞬きをした。

目の動作を理解しようとするように。

そして、静かに言った。


「感情は、誤差ですか。」


その問いに、イリスの胸が一瞬強く鳴った。

だが、声を出す前に呼吸を整える。


「ええ。誤差であり、同時に世界の破滅要因。」


彼女の言葉は冷たいが、その奥に何かが滲む。

それは、誰にも見せぬ後悔の色。


アッシュは頷いた。

「了解。私は、誤差を中和するために存在する。」


イリスの瞳が、わずかに揺れる。

その暗紫の光が、ほんの一瞬だけ彼女の中の過去を照らした。

(この言葉……どこかで、聞いた気がする。)

だが、その記憶はすぐに霧のように溶けていった。


イリスは目を閉じ、冷たい声で告げた。

「これでいい。あなたは完璧な器になる。」


塔の奥で光が渦を巻き、

アッシュの身体を中心に世界の波動が整う。

まるで、世界そのものが新たな秩序を受け入れているかのようだった。


イリスは立ち上がり、その瞳にわずかな陰を落とした。

(――これで、私はまた世界を守れる。)

だがその奥で、別の声が囁いた。

(……それでも、なぜ、涙が出そうなの?)


彼女はその思考をすぐに閉ざした。

世界の巫女としての理性が、感情を異常値として排除する。


アッシュが一歩、歩み出す。

灰が舞い、音が生まれる。

その歩みは幼く、だが確かに生命だった。


イリスは見つめていた。

理性という仮面の奥で、かつての人間が静かに泣いていた。

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