幕間 アッシュの買い出し任務
朝。外庭の端に設けられた臨時の“拍所”は、湯気と甘い匂いでかすかに満ちていた。
セレンが帳面を手に、三人へ向き直る。
「本日の買い出し任務、担当は――アッシュ。」
アッシュは一歩前へ。「受領。任務名:“市中生活資材・甘味補給パックA”」
ルーファが肩を小突く。「もう少し可愛い名前にしよ? “おつかいA”とか」
「更新案:“可愛いおつかいA”。」アッシュは胸前の《ノルディア》に小さくラベルを表示させた。「保存」
イリスは咳払いひとつ。「可愛いのは名前だけでいいわ。お財布は可愛くないから節度を。刃もお財布も抜かないこと」
「了解。刃=未展開。財布=セレン管理下。」
「それ、いちばん安心する」セレンが小袋を手渡す。「購入目録は――湯石五、薄蜜二壺、柔穀パン十、涙菓子“しずり”小箱を三。あと拍匙を子ども用に五本。値切りは、笑顔の範囲で」
ルーファがひそひそ声。「イリスの笑顔、まだ希少種だからね。今日は私が担当する」
「私は笑っているつもりだけど」
「むっ、内側でね」ルーファが親指で胸をとんとん。「外にも少し分けて?」
イリスはほんの少しだけ口角を上げた。セレンが「あ、出た」と小声で記録する。
アッシュはきょとんとしたあと、短く宣言した。
「観測:可愛い=救済の兆候。――本任務に適用。」
「よし、出発!」ルーファがアッシュの手を引く。
「いってらっしゃい。人混みは風でほぐして、値段は空気で上げないで」セレン。
「了解」イリスは杖を軽く掲げる。「無事に戻って、甘いもので士気を上げましょう」
*
市中。昼前の市場は、壊れた礼の翌日とは思えないくらい、弱いけれど確かな往来が戻っていた。水皿の煌めき、湯気、布屋の呼び声。
アッシュは足を止めるたびに《ノルディア》へ何かを記す。
「観測:匂い――薄蜜、焼穀、藻粉。音――笑い、小声、拍。感情密度――安全域」
「語彙が全部“観測”から始まるの可愛い」ルーファが笑う。「まず湯石から。重いのは最初にね」
湯石屋の初老が目を細める。「ほう、風の巫女さま。お隣は……噂の無の子かい」
「無の“器”」とアッシュ。「名称はアッシュ。今日は“可愛いおつかいA”で来訪」
「へぇ、可愛いおつかい、ね」店主は肩を揺らして笑い、桶を指す。「温度は三段。長持ちの黒、早湧きの白、間の灰。どれにする?」
「使用目的=拍所の足元保温、夜半まで。最適:黒三、灰二」
「計算が早い」ルーファが指を二本立てる。「で、お値段は可愛い感じで?」
店主は少しだけ考えて、「……今日だけ“笑顔割り”で一つまけようか」
アッシュは一秒黙り、「交渉確認:割引条件=笑顔の呈示。」
彼はぎこちなく口角を上げ、ぴょこんと会釈。「笑顔、提出」
店主は吹き出す。「いいとも。二つ、まけた」
「有効。笑顔=割引効果。」アッシュは即メモ。「保存:戦術“笑顔”。」
次は薄蜜屋。
店先の少女が壺を磨きながら、小声でルーファへ。「昨日、怖かったの。今日、風の匂いが甘いね」
「うん。甘いものを買いに来たからね」ルーファは片目をつむる。「薄蜜、二壺。ひとつは“子の舌用”に薄めで」
少女が笑う。「はい、薄波仕立て。……その子、無口だけど優しい目だ」
アッシュは一瞬まばたきし、「評価:嬉しい」
「言えた!」ルーファが拍手を小さく二回。「アッシュ、それ大事」
柔穀パンの屋台は小さな行列。
「列の理=先着順」アッシュは並びながら、前の子どもが手持ちの拍匙を落とすのを見て、拾ってそっと返す。「落下。返却」
「ありがと」子どもは拍匙を受け取り、パン二つを抱えて振り向く。「ねえ、無の人。パン、すき?」
アッシュは少し考える。「定義:好き=保存したい状態に付随。栄養と香り=保存希望。よって、好き」
「むずかしいけど、たぶん“すき”だ」子は笑って走り去る。
ルーファが肘でつつく。「今の、百点」
涙菓子“しずり”の店では、飴色の滴が糸を引いている。
女将がにこり。「三箱だね。ひと箱は“強がり味”、ひと箱は“なきむし味”、もうひと箱は“ひみつ味”」
「味に感情が混ざってる」ルーファが楽しげに選ぶ。「“ひみつ味”って?」
「食べる人が決める味さ。誰にも命じられない味」
アッシュは指を箱に当て、「選択:ひみつ味=ノアへ」
女将が小声で「いい心だね」と言い、やわらかい紙で包んだ。
最後に、拍匙。
木工の少年が机に小匙をずらりと並べる。「柄に刻む言葉、選べるよ。“泣いていい”とか、“息をして”とか。拍匙はね、柄を指でトンって弾くと胸がそれを真似して呼吸がそろうんだ。怖いときは二回〈息/息〉、泣きたいときは三回〈息/止/息〉。音は小さいほど効くのが作法だよ」
アッシュは迷わず五本の柄に選んだ。「二本:“息をして”。一本:“拍をひとつ”。一本:“ここで泣ける”。一本は――」
「“可愛いは救済の兆候”」ルーファが割り込む。
「刻印許可」少年は笑って彫り始める。「へんなの、でも好き」
荷は重くなったが、風がそっと助けてくれる。
アッシュは歩きながらぽつり。「可愛い=救済の兆候。裏付けデータ……増加中」
「ふふ、信頼度アップだね」
「さっき、パンの子が笑った。店主が割り引いた。女将が“いい心”と言った。――救済の兆候」
ルーファは横顔を見て、わざとらしく咳払い。「ねえ、アッシュ。私も――」
「ルーファ=可愛い」
「即答!? 記録して!」
《ノルディア》が淡い文字で〈保存〉を灯した。
*
帰着。拍所の卓に湯石が据えられ、薄蜜の栓が抜かれ、柔穀パンが湯気を吐く。
セレンが検品し、満足げに頷く。「完璧。予算も“可愛い”」
「財布、無事」アッシュ。
「うん。私の心も無事」セレンが笑う。
イリスは“しずり”の一箱を開け、拍匙を一つずつ配った。「“息をして”“拍をひとつ”……いい刻印ね」
セレンは拍匙を手にした者の手をそっと包む。「これは合図じゃなく“足場”。自分で吐いて、自分で吸うための小さな道よ」
ルーファがひみつ味に目を丸くする。「これ、ノアに持っていこう。――起きてたら少しだけ」
「配送任務:ノア」アッシュは自ら手を挙げる。
イリスが少しだけ考え、「二人で行って。ルーファは風路の点検も」
「了解」「了解!」
*
沈静域。天幕の灯は昨日より明るい。ノアは半身を起こし、膝に毛布を掛けていた。
彼女は考えるたび、鈴の紐を一回だけ指で撫でる癖がある――“一息=ひと撫で”の、目に見えない数え歌。
ルーファが鈴の音を鳴らさない距離で手を振る。「入っていい?」
ノアは小さくうなずく。「……うん」
ノアは膝の毛布の端を指先で直角に折り、ぺこりと小さく会釈した。
「……練習、してるの。あいさつ」
「上手だよ」とルーファ。「音の“芽”みたいに、やわらかい」
ノアは天幕の“種鈴”を一度だけ見上げ、「……芽、すき」
アッシュは箱を掲げる。「配送物:“ひみつ味”。選択権=あなた」
ノアは首をかしげ、「ひみつ?」
ルーファが蓋を開け、小さな滴菓子を一粒、拍匙に載せる。「味はね、あなたが決めるの。命令じゃない味」
ノアは躊躇い、拍匙を受け取り、唇に触れた。
しばらく黙って、ぽつり。「……やさしい、味」
「半分、セレンのぶん。……ぼく、わけるの好き」
ルーファが微笑む。「分けるの、いちばん甘い」
アッシュは即記録。「分配=甘さ増幅」
ノアはきょとん。「……増幅、すき」
アッシュは箱を閉じ、拍匙をもう一本置いた。柄には〈ここで泣ける〉
ノアが目を瞬く。「これ……誰の?」
「あなたの、か、誰かの。――選んでいい」
ノアは柄をそっと撫で、「保存」とだけ言った。
ノアは自分用の呼び名を決めるみたいに、柄の端を撫でて囁く。
「……『だいじ』」
ルーファが目配せで賛成した。「いい名前」
アッシュは小さく頷く。「別名:個人タグ」
ノアがアッシュを見上げる。「アッシュは、すき?」
アッシュは一瞬だけ止まって、それから言う。「保存したい」
ノアは考え、拍匙の背にそっと額を触れてから、「……ぼくも、保存」
「なにを?」
「いま」
ルーファは天幕の“種鈴”を見上げ、指で輪郭を確かめた。「風はね、明日もここを撫でてくる。鳴らさないで通るから安心して」
ノアは小さくうなずく。「……ありがとう」
出口へ向かう前、ノアがぎこちなく口角を一ミリ上げる。「……笑顔。れんしゅう」
ルーファが親指を立てる。「合格」
アッシュは《ノルディア》に〈笑顔割り:内部試験合格〉と表示し、「割引……適用なし」
ノアはふふっと、音のない笑いをひとしずくだけ漏らした。
*
夕方。拍所の片隅で、簡単な“お茶会”が始まった。
湯石の上、薄蜜を落とした草湯が湯気を立てる。柔穀パンに“しずり”を一滴。
セレンが湯呑みを配りながら、「では、本日の総括。アッシュの“可愛いの定義”は?」
アッシュは考え、少しだけ照れくさそうに(照れの定義を学習中)喉を鳴らした。
「更新:可愛い=救済の兆候、かつ“誰にも命じられない笑顔”。――値引き効果あり」
ルーファが危うく吹き出す。「最後の一行、現実的!」
イリスは湯呑みを両手で包み、「でも本質を外してないわ。命じられない笑顔は、世界が自分で立つ音」
セレンが帳面にさらりと記す。〈可愛い:救済の兆候/命じられない笑顔〉
「記録、完了。明日も続きがあるなら、私は“可愛いおつかいB”を組むわ」
「任務受領予定」アッシュが即答する。
「人気任務だね」ルーファがニヤリ。「次は屋台の焼き団子も」
「追加要件:焼き団子。」アッシュは《ノルディア》に保存。「甘味優先度=高」
「そこは私が決めるわ」イリスが微笑する。
「はい、巫女優先度=常に高」アッシュ。
ルーファが肩を震わせて笑った。「それも保存しといて」
湯気の向こうで、塔の影が長く伸びる。
壊れた礼の余韻は確かにあって、でも、卓を囲む呼吸は揃っていく。
《ルミナリア》の環が触れ合い、すぐ静まる。
アッシュが首だけ傾げる。「観測:巫女の心拍、微上昇」
イリスは答えず、曖昧に微笑む。
(均す役目と、残したい音。どちらも私。だから少しだけ痛い)
――日常は大事に手入れすれば、次の戦いまで持ち堪える。
そして“可愛い”は、今日も少しだけ世界を救った。




