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幕間 アッシュの買い出し任務

朝。外庭の端に設けられた臨時の“拍所”は、湯気と甘い匂いでかすかに満ちていた。

セレンが帳面を手に、三人へ向き直る。


「本日の買い出し任務、担当は――アッシュ。」


アッシュは一歩前へ。「受領。任務名:“市中生活資材・甘味補給パックA”」


ルーファが肩を小突く。「もう少し可愛い名前にしよ? “おつかいA”とか」


「更新案:“可愛いおつかいA”。」アッシュは胸前の《ノルディア》に小さくラベルを表示させた。「保存」


イリスは咳払いひとつ。「可愛いのは名前だけでいいわ。お財布は可愛くないから節度を。刃もお財布も抜かないこと」


「了解。刃=未展開。財布=セレン管理下。」


「それ、いちばん安心する」セレンが小袋を手渡す。「購入目録は――湯石五、薄蜜二壺、柔穀パン十、涙菓子“しずり”小箱を三。あと拍匙はくさじを子ども用に五本。値切りは、笑顔の範囲で」


ルーファがひそひそ声。「イリスの笑顔、まだ希少種だからね。今日は私が担当する」


「私は笑っているつもりだけど」


「むっ、内側でね」ルーファが親指で胸をとんとん。「外にも少し分けて?」


イリスはほんの少しだけ口角を上げた。セレンが「あ、出た」と小声で記録する。

アッシュはきょとんとしたあと、短く宣言した。


「観測:可愛い=救済の兆候。――本任務に適用。」


「よし、出発!」ルーファがアッシュの手を引く。


「いってらっしゃい。人混みは風でほぐして、値段は空気で上げないで」セレン。

「了解」イリスは杖を軽く掲げる。「無事に戻って、甘いもので士気を上げましょう」



市中。昼前の市場は、壊れた礼の翌日とは思えないくらい、弱いけれど確かな往来が戻っていた。水皿の煌めき、湯気、布屋の呼び声。

アッシュは足を止めるたびに《ノルディア》へ何かを記す。


「観測:匂い――薄蜜、焼穀、藻粉。音――笑い、小声、拍。感情密度――安全域」


「語彙が全部“観測”から始まるの可愛い」ルーファが笑う。「まず湯石から。重いのは最初にね」


湯石屋の初老が目を細める。「ほう、風の巫女さま。お隣は……噂の無の子かい」


「無の“器”」とアッシュ。「名称はアッシュ。今日は“可愛いおつかいA”で来訪」


「へぇ、可愛いおつかい、ね」店主は肩を揺らして笑い、桶を指す。「温度は三段。長持ちの黒、早湧きの白、間の灰。どれにする?」


「使用目的=拍所の足元保温、夜半まで。最適:黒三、灰二」


「計算が早い」ルーファが指を二本立てる。「で、お値段は可愛い感じで?」


店主は少しだけ考えて、「……今日だけ“笑顔割り”で一つまけようか」


アッシュは一秒黙り、「交渉確認:割引条件=笑顔の呈示。」

彼はぎこちなく口角を上げ、ぴょこんと会釈。「笑顔、提出」


店主は吹き出す。「いいとも。二つ、まけた」


「有効。笑顔=割引効果。」アッシュは即メモ。「保存:戦術“笑顔”。」


次は薄蜜屋。

店先の少女が壺を磨きながら、小声でルーファへ。「昨日、怖かったの。今日、風の匂いが甘いね」


「うん。甘いものを買いに来たからね」ルーファは片目をつむる。「薄蜜、二壺。ひとつは“子の舌用”に薄めで」


少女が笑う。「はい、薄波うすなみ仕立て。……その子、無口だけど優しい目だ」


アッシュは一瞬まばたきし、「評価:嬉しい」

「言えた!」ルーファが拍手を小さく二回。「アッシュ、それ大事」


柔穀パンの屋台は小さな行列。

「列の理=先着順」アッシュは並びながら、前の子どもが手持ちの拍匙を落とすのを見て、拾ってそっと返す。「落下。返却」


「ありがと」子どもは拍匙を受け取り、パン二つを抱えて振り向く。「ねえ、無の人。パン、すき?」


アッシュは少し考える。「定義:好き=保存したい状態に付随。栄養と香り=保存希望。よって、好き」


「むずかしいけど、たぶん“すき”だ」子は笑って走り去る。

ルーファが肘でつつく。「今の、百点」


涙菓子“しずり”の店では、飴色の滴が糸を引いている。

女将がにこり。「三箱だね。ひと箱は“強がり味”、ひと箱は“なきむし味”、もうひと箱は“ひみつ味”」


「味に感情が混ざってる」ルーファが楽しげに選ぶ。「“ひみつ味”って?」


「食べる人が決める味さ。誰にも命じられない味」


アッシュは指を箱に当て、「選択:ひみつ味=ノアへ」

女将が小声で「いい心だね」と言い、やわらかい紙で包んだ。


最後に、拍匙。

木工の少年が机に小匙をずらりと並べる。「柄に刻む言葉、選べるよ。“泣いていい”とか、“息をして”とか。拍匙はね、柄を指でトンって弾くと胸がそれを真似して呼吸がそろうんだ。怖いときは二回〈息/息〉、泣きたいときは三回〈息/止/息〉。音は小さいほど効くのが作法だよ」


アッシュは迷わず五本の柄に選んだ。「二本:“息をして”。一本:“拍をひとつ”。一本:“ここで泣ける”。一本は――」


「“可愛いは救済の兆候”」ルーファが割り込む。

「刻印許可」少年は笑って彫り始める。「へんなの、でも好き」


荷は重くなったが、風がそっと助けてくれる。

アッシュは歩きながらぽつり。「可愛い=救済の兆候。裏付けデータ……増加中」


「ふふ、信頼度アップだね」


「さっき、パンの子が笑った。店主が割り引いた。女将が“いい心”と言った。――救済の兆候」


ルーファは横顔を見て、わざとらしく咳払い。「ねえ、アッシュ。私も――」


「ルーファ=可愛い」

「即答!? 記録して!」

《ノルディア》が淡い文字で〈保存〉を灯した。



帰着。拍所の卓に湯石が据えられ、薄蜜の栓が抜かれ、柔穀パンが湯気を吐く。

セレンが検品し、満足げに頷く。「完璧。予算も“可愛い”」


「財布、無事」アッシュ。

「うん。私の心も無事」セレンが笑う。


イリスは“しずり”の一箱を開け、拍匙を一つずつ配った。「“息をして”“拍をひとつ”……いい刻印ね」


セレンは拍匙を手にした者の手をそっと包む。「これは合図じゃなく“足場”。自分で吐いて、自分で吸うための小さなみちよ」


ルーファがひみつ味に目を丸くする。「これ、ノアに持っていこう。――起きてたら少しだけ」


「配送任務:ノア」アッシュは自ら手を挙げる。

イリスが少しだけ考え、「二人で行って。ルーファは風路の点検も」


「了解」「了解!」



沈静域。天幕の灯は昨日より明るい。ノアは半身を起こし、膝に毛布を掛けていた。

彼女は考えるたび、鈴の紐を一回だけ指で撫でる癖がある――“一息=ひと撫で”の、目に見えない数え歌。


ルーファが鈴の音を鳴らさない距離で手を振る。「入っていい?」


ノアは小さくうなずく。「……うん」

ノアは膝の毛布の端を指先で直角に折り、ぺこりと小さく会釈した。

「……練習、してるの。あいさつ」

「上手だよ」とルーファ。「音の“芽”みたいに、やわらかい」

ノアは天幕の“種鈴”を一度だけ見上げ、「……芽、すき」


アッシュは箱を掲げる。「配送物:“ひみつ味”。選択権=あなた」


ノアは首をかしげ、「ひみつ?」


ルーファが蓋を開け、小さな滴菓子を一粒、拍匙に載せる。「味はね、あなたが決めるの。命令じゃない味」


ノアは躊躇い、拍匙を受け取り、唇に触れた。

しばらく黙って、ぽつり。「……やさしい、味」

「半分、セレンのぶん。……ぼく、わけるの好き」

ルーファが微笑む。「分けるの、いちばん甘い」

アッシュは即記録。「分配=甘さ増幅」

ノアはきょとん。「……増幅、すき」


アッシュは箱を閉じ、拍匙をもう一本置いた。柄には〈ここで泣ける〉

ノアが目を瞬く。「これ……誰の?」

「あなたの、か、誰かの。――選んでいい」

ノアは柄をそっと撫で、「保存」とだけ言った。

ノアは自分用の呼び名を決めるみたいに、柄の端を撫でて囁く。

「……『だいじ』」

ルーファが目配せで賛成した。「いい名前」

アッシュは小さく頷く。「別名:個人タグ」


ノアがアッシュを見上げる。「アッシュは、すき?」


アッシュは一瞬だけ止まって、それから言う。「保存したい」

ノアは考え、拍匙の背にそっと額を触れてから、「……ぼくも、保存」

「なにを?」

「いま」


ルーファは天幕の“種鈴”を見上げ、指で輪郭を確かめた。「風はね、明日もここを撫でてくる。鳴らさないで通るから安心して」


ノアは小さくうなずく。「……ありがとう」


出口へ向かう前、ノアがぎこちなく口角を一ミリ上げる。「……笑顔。れんしゅう」

ルーファが親指を立てる。「合格」

アッシュは《ノルディア》に〈笑顔割り:内部試験合格〉と表示し、「割引……適用なし」

ノアはふふっと、音のない笑いをひとしずくだけ漏らした。



夕方。拍所の片隅で、簡単な“お茶会”が始まった。

湯石の上、薄蜜を落とした草湯が湯気を立てる。柔穀パンに“しずり”を一滴。

セレンが湯呑みを配りながら、「では、本日の総括。アッシュの“可愛いの定義”は?」


アッシュは考え、少しだけ照れくさそうに(照れの定義を学習中)喉を鳴らした。

「更新:可愛い=救済の兆候、かつ“誰にも命じられない笑顔”。――値引き効果あり」


ルーファが危うく吹き出す。「最後の一行、現実的!」

イリスは湯呑みを両手で包み、「でも本質を外してないわ。命じられない笑顔は、世界が自分で立つ音」


セレンが帳面にさらりと記す。〈可愛い:救済の兆候/命じられない笑顔〉

「記録、完了。明日も続きがあるなら、私は“可愛いおつかいB”を組むわ」


「任務受領予定」アッシュが即答する。

「人気任務だね」ルーファがニヤリ。「次は屋台の焼き団子も」


「追加要件:焼き団子。」アッシュは《ノルディア》に保存。「甘味優先度=高」


「そこは私が決めるわ」イリスが微笑する。

「はい、巫女優先度=常に高」アッシュ。

ルーファが肩を震わせて笑った。「それも保存しといて」


湯気の向こうで、塔の影が長く伸びる。

壊れた礼の余韻は確かにあって、でも、卓を囲む呼吸は揃っていく。


《ルミナリア》の環が触れ合い、すぐ静まる。

アッシュが首だけ傾げる。「観測:巫女の心拍、微上昇」


イリスは答えず、曖昧に微笑む。

(均す役目と、残したい音。どちらも私。だから少しだけ痛い)


――日常は大事に手入れすれば、次の戦いまで持ち堪える。

そして“可愛い”は、今日も少しだけ世界を救った。

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