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来訪者の礼

朝は、泣く国の拍を一つだけ明るくした。


涙晶宮ルメン・アークの外庭。輪のように並ぶ塔の基底から、最初の“雫の音階”が立ち上がる。鐘ではない、滴の合唱。白い霧が低く流れ、石畳の水脈が拍を刻んだ。


ルーファは深く息を吸い、胸元の小袋から“ノアの鈴”を取り出した。薄く研ぎ直された涙晶の縁は、夜の間に風で磨かれ、欠けは滑らかに丸められている。


「――返すね。」


客翼の縁で待っていたセレンが受け取る。指の腹で縁を撫で、光の戻りを確かめ、静かに頷いた。


「ありがとう、風の巫女。あの子の“最初の一音”に。」


「鳴らすのはあの子。私は、風路を整えただけ。」


ふたりの間に、朝の拍が一つ、静かに落ちた。



外庭中央、浮橋の上にミラの分体が立つ。水の薄膜が裾を濡らし、周囲の露は女王の呼吸に合わせて微細に脈打つ。円環の外周には調律民、内周には残情民、最奥に涙議会レメンティア・コンクラーヴの席。セレンは塔鳴同調エコーリンクの刻表を掌に、各塔の合図士へ目配せを送る。


「――礼を開く。」


ミラの声が、水面の上でいちだんと澄んだ。


「悲哀は涙で迎え、涙で問う。条件は既に告げた通り。調律の巫女は“界面のみ”。風の巫女は“触れるだけ”。無の器は“無干渉観測”。そして、刃は抜かない。波は薄く、順送りで。」


イリスはルミナリアを横に伏せ、深く一礼する。ルーファは掌を開き、風の拍だけを用意する。アッシュは左前腕の《ノルディア》をゼロ位相に落とし、視線を一度だけ空へ投げた。


「はじめるわ。」


イリスの言葉に重なるように、セレンが小さく合図を切る。塔Aの根元が低く鳴り、半拍遅れて塔B、さらに半拍で塔C……音は輪の内側を回りながら、薄い膜のように国土へ広がっていく。


界面調律――命令層の細い“糸目”だけをほどく、刃なき調律。イリスの指先から透明な波が起こり、膝をついた調律民の肩から“命令”をそっと剝いでいく。ルーファの風は拍を刻むだけ、誰も急かさない。ただ、“泣ける”方へ風路を差し示す。


アッシュの声が低く、早く。


「観測:強制成分=微減。自発成分=微増。国の体温=安全域内。――順送り、良好。」


外庭の一角で、面の下から一筋の涙が零れた。誰にも命じられていない涙。塔が低音で応える。別の場所でも、一人、また一人。膝はつかず、手を胸に当て、静かに泣く。泣かされる涙から、泣ける涙へ。ささやかな、けれど確かな転位。


ミラの目が細く和らぐ。


「……泣ける音。」


セレンは刻表を一つ進め、次の塔群へ遅延をかける。エコーリンクの輪は、滞りなく回り始めた。



沈静域。薄い布の天幕の下、ノアの枕元で“種鈴たねすず”が一度だけ微かな光を返す。戻ってきた本物の鈴は、天幕の柱にそっと結わえられていた。セレンが朝一番に置いていったのだ。ノアはまだ眠っている――けれど、呼吸は昨夜より深い。


(いまは、息をして)


天幕の外、廊の灯が一段明るくなる。監護の者が足を止め、“芽”の明滅を一度だけ確かめて去った。



第2パルス。外庭の最奥、塔の一つが半拍ぶんだけ遅れ、すぐに追いつく。ルーファが風で拍線を補正する。イリスは界面を厚くしない――約束の“羽一枚”のまま、ほどく。


アッシュが短く告げる。


「外縁、赤相関のノイズ――微弱。怒律圏由来の可能性、低~中。」


セレンが顔を上げる。外壁の外、遠見塔の先端に赤い旗が一瞬だけ揺れて消えた。挑発か、観測か。議席の一部がわずかにざわめくが、すぐに水の拍に飲み込まれる。


「続ける。」ミラの声は揺れない。「礼は、国の呼吸。」


順送りは再び滑らかに動き出した。宮の呼吸は安全域。調律民の中で“膝をつかない涙”が、ほんのわずかに増える。石の上に落ちた雫が、命令ではない音で鳴った。


(――届く。刃を抜かずに)


イリスが息を深くし、界面の張りを微調整した、そのときだ。


地の下から、“空洞の音”が鳴った。


塔の網の真下――涙の瞳孔の中心。低い、低い、しかし押し流すような“喉鳴り”。水脈の拍が一瞬、行き場を失い、石畳の薄皮がひたりと吸いこまれる。


アッシュの視野が微動する。《ノルディア》の核面に黒い波形が走った。


「異常――。基底層で“喰い”波形。規模、特大。接近速度=高。」


ミラが顔を上げる。浮橋の下の水が、内側から泡立つ。塔鳴の低音が一段、濁った。セレンの指が刻表の上で止まり、目が開く。


「……下だ。」


次の瞬間、外庭の中心が“抜けた”。


水が落ちるのではない。音が落ちた。輪の中心の黒が、音も光も“意味”もまとめて掴んで引き下ろす。石が歪み、涙晶が裂け、霧が穴の縁で裏返った。


それは、口だった。


巨大な“感情喰らい”。城都の古い記録にある名を誰も言わない。言葉の前で、喉が凍る。黒い縁は歯列ではない。縫い目のない唇。内側は、色のない渦。


ミラは息を呑んだ。

「……ありえない。ここは涙晶宮ルメン・アーク。全層結界の“内側”に、感情喰らいが現れるはずがない……。」

王の指が、無意識に水盤の縁を探る。結界の脈は乱れていない――それでも“内側”が蝕まれている。

視線が一瞬だけ、外縁席の淡蒼へ流れ、揺れた。

「……ノア?」

疑いではない。原因を求める王の反射であり、同時に“守るべき名”の確認だった。


最初の悲鳴を、風が呑み込んだ。次の心拍を、水が呑み込んだ。人の声が起こる前に、塔鳴が割れる。


「全塔、停止――」セレンの声が遅れ、合図旗が上がる。「観衆、内周へ退避、外周は――」


地が低く唸る。黒い喉の縁が、涙の匂いだけを選んで吸う。“泣ける涙”も“泣かされる涙”も区別がない。ただ、感情の熱に反応して、すべてを無へ返そうとする。


(――まずい)

イリスは一歩前に出る。界面を厚く――いや、駄目だ、刃は抜けない。ここで“ゼロ”を立てれば、宮の心臓ごと凍らせる。


イリスが短く告げる。

「アッシュ、抑制介入――許可。出力は最小に抑えて」


アッシュが前へ出る。右腕の《ノルディア》がわずかに脈動し、装甲がほどけるように変形、無音の光刃を展開した。 

「観測域、収束。ゼロ位相、維持――介入最小。」

踏み込みは一歩。刃は一撃。呼吸は一拍。無駄のない運動が、奔る感情の波形を切り分けては“調律”で縫い直していく。 

黒い奔流が軌道を乱しても、彼の軌跡は崩れない。“観測者”のまま、必要最小の角度だけを与える戦い――ゼロ・モード(限定展開)の律動。 

感情喰らいの触手が振れ、空間の継ぎ目が悲鳴を上げる。アッシュは一拍遅らせて半身、光刃の平で“命令層”の結び目だけを断ち、実体を削がぬまま進行を止めた。

「抑制成立。次、右前方、二。」

最短の報告が落ち、場の呼吸にわずかな余白が戻る。


「保持。」イリスは自分に言い聞かせるように、低く。

「ルーファ!」


「拍を刻む!」

ルーファが風を広げる。恐慌の波を打ち消す拍線。逃げ惑う足音に、呼吸の位置を取り戻させる。彼女の風は“命令”ではない、“道”だ。


アッシュが数列を叩き込むように速く喋る。


「喰い波=感情密度勾配に沿って加速。対策提案:界面の“反涙域”形成――悲哀密度を一時、無方向希釈。ゼロ参照せず。――可能?」


「やる。」イリスの指先が震えを越えて安定する。

界面調律の膜が、喰いの縁に沿って“反涙”の薄膜を生成。吸引の勾配を、ほんのわずかに緩める。


ミラが浮橋から一歩、前へ。分体の喉が柔らかく震え、王の涙が一滴、落ちる。水盤はない。外庭の石だ。だが、滴は確かな“基準音”になった。

「泣ける者は、ここに。――泣かされる涙は、今は置いていきなさい。」


その声は命令ではない。許しの音階。呑まれかけた足が、半歩だけ戻る。


セレンが動く。議会の席から外周の合図士へ短命の指示を矢のように飛ばし、塔鳴の残余を“静音”に落とす。拍だけ残せ。鳴きを止めろ。波を閉じろ。――礼を終わらせるのではなく、解く。


(壊れるなら、私の手で壊す。無闇に壊れる前に)


外庭の中央、黒い喉が、息を吸った。


地が沈む。涙が浮く。イリスの界面が軋む。ルーファの拍線が折れかけ、アッシュの数列が瞬間、空白を挟む。


沈静域――


小さな指が、鈴の紐を掴んだ。


ノアは座っていた。眠っていたはずの眼が、起きている。胸の奥が痛く、世界が狭い。息が追いつかない。言葉が出ない。

(合図して、いい――?)

昨夜の約束が、掌に残っている。


彼女は“鳴らない”はずの種鈴に、喉の奥でひとつ息を通した。


チリ――とは鳴らない。代わりに、雫の中で光が細く折れた。微かな“静けさの環”が彼女の身体から広がり、部屋の壁、天幕、床の水皿、廊の灯……薄く、薄く、しかし確かに伝播していく。


外庭の縁に、その静けさが触れた瞬間――

喰らいの黒が、一拍だけ、遅れた。


アッシュの頭の中で、波形が一つ、図形になった。

「――ノア由来の静けさ、観測。無方向希釈、局所で増幅。」


「持つ。」イリスはひとことだけ。

界面を重ねる。“反涙”の膜とノアの“静けさ”が干渉し、喰いの縁がわずかに縮む。ルーファがそこへ拍線を差し込む。ミラはもう一滴、涙を落とす。基準音が位置を決める。セレンがその変数を拾い、場の導線を組み替える。


ほんの少しだけ、黒が退いた。


だが、巨大な口は、それでも止まらない。

吸いこまれかけた塔基の水晶が悲鳴の光を吐き、外周の一角で地面が裂ける。人々の叫びが、今度は風にも水にも呑まれず、空に立った。


「――後退!!」


セレンの合図旗が高く振り切れ、護衛線が開く。残情民が内へ、調律民が外へ。秩序は一瞬壊れ、次の瞬間、ルーファの拍が届いて再編される。


ミラはイリスを見た。イリスはミラを見た。

どちらも、刃を抜いていない。

どちらも、今も抜いていない。


「ここを、私が止める。」ミラが言う。

「縁を、私がほどく。」イリスが答える。


アッシュが最後の提案を吐き出す。


「縁=“悲哀密度”の急斜面。――風路で“拍足場”追加、王の基準音を支点、界面=補助膜。……三者合力で、三拍だけ“閉じ”を作れる。成功確率、低~中。」


「三拍で充分。」ルーファが笑って、風を立てる。「ね、イリス。」


「ええ。」イリスは杖を横に、低く構えた。

「ミラ。」


「聞こえている。」ミラは涙を一粒、指先に載せて持ち上げる。

それは世界のどの音よりも、静かだった。


三拍。


一拍目――風が拍線を置く。逃げる足の下に、踏める“間”ができる。

二拍目――王涙が基準音を示す。誰も命じないまま、胸の中の“泣きたい”と“泣かなくていい”の境が戻る。

三拍目――界面が縁を薄く閉じる。喰いのくちびるが一瞬だけ、すぼまる。


黒は完全には消えない。だが、落下の加速度が“零”を跨がず、ぎりぎりで止まった。


「いま――!!」


セレンの声と同時に、護衛線が裂け目を跨いで人々を引き抜く。ルーファの風が背を押し、イリスの膜が転ばぬように支え、アッシュの観測が穴の“食欲”を見張る。ミラは分体の輪郭を強め、喰いの縁に涙の印を残す――“次の拍”のための座標。


「アッシュ、ここよ――行きなさい!」

イリスが界面の膜に一瞬だけ“道”を開け、ミラが残した涙の印へ座標を指す。

アッシュは即応。ゼロ位相を崩さず左前腕ノルディアの“拳”を喰いの縁へ突き立てた。

音は生まれない。命令層の結び目がぱちりとほどけ、吸引ベクトルが外へ半歩滑る。

黒い縁が一拍すぼみ、巨大な喰らいが呻く。


外庭が息を吸い、吐いた。


巨大な口は、薄く閉じ、基底へ退いた。

水が遅れて落ち、石が悲鳴をやめ、霧が裏返りを戻す。


塔鳴は、ない。礼は、壊れた。音は、残骸になった。


沈黙の中で、最初の嗚咽が一つ、遅れて起きた。泣かせる涙ではない。誰かが、自分の意志で泣いた。別の場所で、もう一つ。どこかでは、泣けなかった誰かが、ただ息をしていた。


ミラは目を閉じ、長い息を吐いた。

イリスは杖を下ろし、肩の力を抜いた。

ルーファは額の汗を拭い、鈴の位置を確かめた。

アッシュは《ノルディア》に記した。〈喰い波=退潮/界面・風・王涙による一時抑制/ノア由来静けさ:干渉効果中〉


ミラは最後に外庭を見渡し、静かに告げる。


「――礼は、ここまで。」


誰も反対しなかった。誰も拍手をしなかった。ただ、呼吸があった。



沈静域。ノアは種鈴に指を添えたまま、天幕の布の向こうを見ていた。胸の痛みは、さっきより浅い。

(ぼく、呼んじゃった……? それとも、止められたの……?)

答えは、まだ、いらない。彼女は「息」と唇で結び、目を閉じる。


部屋の入口に、セレンが立っていた。

セレンはノアに近づき、天幕の柱に結った"本物の鈴"を解く。そして、

「ノア、ありがとう。」

そう言ってノアの手にそっと置く。

ノアはうなずき微笑む。


(ぼくの最初の涙は、セレンのために――)

声には出さない。彼女は鈴をしっかりと握り、胸の上に。今は、まだ鳴らない。


その時、床の水脈の目地に、墨を一滴たらしたみたいな“影”が薄く滲んだ。音はない。匂いもない。ただ、泣き香だけを嗅ぐみたいに、影は寝台の脚へ、そして彼女の足首へと冷たさを寄せる。

天幕に結わえた鈴の縁で、光が一度だけ内側へ巻き、すぐ戻った。水皿の輪が一拍だけ欠け、また埋まる。

ノアは気づかない。影は足裏のかたちで一瞬だけ止まり、まるで“器”の底を測るように輪郭をなぞると、次の拍で床の目地へ吸いこまれて消えた。



外庭の縁、崩れた石の影で、赤い小旗がもう一度だけ揺れて消えた。怒律国の誰かが、ここで起きた“壊れ方”を見ていた。


ミラは空を見上げ、イリスに目を戻す。

「……和解の兆し、かと思っていたのだけれど。」


「兆しは、兆しのまま壊れるから、兆しなの。」イリスは疲れた声で笑った。「でも、拾える欠片はある。」


「そうね。」ミラも笑わないまま、同意した。「拾いましょう。――泣きたい者が、泣ける欠片を。」


ルーファが二人の間に風を通す。

「拾うなら、拍に合わせて。今日、世界は大きく外したから。」


アッシュが記録を閉じ、短く言う。


「提案:本日の結果を“敗北”ではなく“検体”として保存。――次の拍へ。」


ミラはゆっくりと頷く。

「王として告げる――“礼”は壊れた。だが、“問”は残った。」


イリスはその言葉を受け取り、杖の先で地を一度、軽く叩いた。

「世界に感情は必要か。――まだ、答えは出せない。」


風が外庭をひと巡りし、崩れた石の間でひとつ鈴の影が揺れて止まる。


来訪者の礼は、壊れて終わった。

けれど、その壊れ方が、次の“拍”を決める。

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