表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/50

静けさに名を

――同夜、来訪者の礼の前夜。沈静域は、客翼と同じ薄い拍で呼吸していた。


扉が、呼吸を一枚はさむほどの幅で開いた。

湿り気を帯びた空気が頬を撫で、鍵鈴の余韻が細く切れる。


セレン・アルメリアは身を横にしてすり抜け、内側から錠を戻した。

沈静域の灯は低い。水皿に落ちる滴が、ひと呼吸ごとに輪を描く。

壁の布は厚く、音はここでやわらいで死ぬ――泣けない子が眠るために整えられた部屋。


寝台の上で、淡蒼の髪の少女がこちらを見た。

彼女の名――ノア。覚えたての音が、胸の内で柔らかく鳴る。


「……こわく、ないの?」


第一声は囁き。声帯に触れていないみたいに薄い。

セレンは首を横に振り、靴音を消して近づく。


「怖くないわ。」

椅子を引かず、寝台の脇に膝をつく。

冷えた指先を片手で温めてから、触れない距離に掌を置いた。


「さっき、扉の向こうで起きているのがわかった。呼吸が整っていたから。」

ノアは瞬きをひとつ、そして浅い息。

「ぼく、隠れてた。……怒られないように。」


「隠れるのが上手ね。」

セレンは小さく笑む。

「でも、隠れなくていい場所をひとつずつ増やしていこう。ここは、その最初。」


彼女は腰の小筐から計測珠を取り出し、寝台の脚元へ置く。

淡い光の輪が床の水脈に沿って広がり、静けさ半径を縫い留める。数拍、安定。

(やはり、私には影響が薄い。元調律民の“均し”が、彼女の静けさを通しやすくしている)


ノアは珠の光を覗き込み、眉を少しだけ寄せた。

「それ、ぼくを測るの?」


「“あなたの周りの静けさ”をね。」

セレンは穏やかに答える。

「あなたが悪いのではなく、ここが落ち着いているかどうかを確かめる道具。」


ノアは喉の奥で小さく音を作り、ためらいがちに言葉を継いだ。

「……ぼく、泣けない。泣きたいかどうかも、よくわからない。

 でも、泣いてる人のそばにいると、涙が止まる。音も、止まる。

 だから、みんな……ぼくを、いやがる。」


計測珠の輪郭が一瞬だけ薄れ、また戻る。

(吸い取ってはいない――“無へ返す”静けさ。縁のない沈黙が、涙の継ぎ目に触れる)

セレンは眉をわずかに寄せ、しかし声は揺らさない。


「ノア。」

名を呼ぶ。

「その名は、私がつけた。覚えている?」


「うん。」彼女は小さく頷く。「もらったとき、胸があたたかくなった。

 ……名前って、どうやって“生まれる”の?」


セレンは一度だけ目を瞬き、言葉の位置を慎重に探す。


「昔の私は、調律民だった。

 “揺らぎ”を奪われ、泣かないことが正しさだと教えられ、名も役目の記号みたいに薄かった。」

喉の裏で、古い冷えがきしむ。

「ある日、上層の塔が崩れて、灰と水が街を濁らせた。均された私の内側に細い“ひび”が入って、

 倒れた子の手が私の指を探した瞬間――胸が、勝手に鳴った。」

呼吸が一拍、深くなる。

「その時、水面を踏んで陛下が降りてこられた。王ミラ。

 私の面を片手で外して、額に触れず、ただ目を見て、『泣いていい』とだけ告げた。

 そして、静かな声で――『あなたは“セレン”』と名を与えてくれた。

 許しではなく、命令でもなく、“肯い”の音。

 その瞬間、喉が開いて、私は初めて“声のする涙”を流した。

 世界が私に、音の居場所を渡してくれたの。」


ノアはその話を、喉の奥で小さく呑み込むように聴く。

「……セレンは、泣けたんだ。」

「ええ。」

「ぼくは、泣けない。泣き方もわからない。

 “バケモノ”って言われた。ぼくのせいで、音が消えるから。」

彼女は胸元を小さく押さえる。指は細く、少し震えている。

「ぼく、ここにいていいの?」


セレンは掌をほんの指一節だけ近づけ、触れない距離で止める。

「ここにいていい。――あなたは“ノア”だから。」

「“ノア”だから?」

「この国の古い言葉で“休息の間”。波が荒いときにも、かすかな入江に音が休む場所がある。

 私は、あなた自身が“休める間”を持てるように、そう名づけた。

 誰かのための装置ではなく、あなたがあなたのままで息をできるように。」


ノアの瞳が、涙ではなく光の方の濡れを帯びる。

「……ぼくの、ために?」

「そう。あなたの、ために。」

セレンは息を落とし、言葉をさらに柔らかくする。

「この名は“命令”じゃない。“許し”。――息をしていい、という。」


沈黙が、ひとしずく分だけ温度を上げる。

ノアは計測珠の輪に指先を伸ばしかけ、寸前で止めた。

「触って、いい?」

「ええ。ただ、そっと。」


指が光環の縁に影を落とした瞬間、輪は一拍ぶん細り、それから元に戻る。

“喰われる”のではなく、“縫い目がほどける”ような微細な揺れ。

(古い記録にあった――“縁なき静けさ”。名も起源も定まらぬ影。……でも、今はただの少女だ)


ノアは小声で続ける。

「ぼく、記憶がない。いつの間にか“いた”。

 気づいたら、泣いてる人のそばで音が消えて、怒られて、逃げた。

 “ぼくはなんのために生まれて、なんで存在するのか”って考えると、怖くなる。」

彼女は顔を上げ、ためらいがちに問う。

「セレンは、ぼくをこわくない?」


「怖くない。」

セレンはもう一度はっきりと答える。

「静けさは罪じゃない。静けさがあるから、音は立ち上がれる。」

彼女は短く息を整え、己の過去をひと糸だけほどく。

「私は、涙に救われた。泣いたことで、私の名は“記号”から“私”になった。

 だから、あなたがいつか“泣きたい”と思ったとき、私はそばにいる。

 泣けなくたっていい。泣きたいと願う、その揺れ自体が、あなたの“生”だから。」


ノアの肩のこわばりが、衣の上からでもわかるほど微かに下りた。

「……いつか、ほんとうに泣きたい時が来るの?」

「来るわ。」

「どうして、わかるの?」

「世界は、泣くほうへ傾くから。」

セレンは目を伏せ、言葉の温度を保つ。

「そして、あなたの中にも、まだ名のない“痛み”がある。

 その痛みが、誰かの手と手のあいだで形を持ったとき、涙になる。

 その時、あなたは“ぼく”のままで泣ける。」


ノアはしばらく考え、それから小さく笑う――笑い方を思い出す練習のように。

「……“ぼく”のままで。」

「ええ。あなたの一人称は、あなたのもの。変える必要はない。」


彼女は膝を抱え直し、隅の水皿へ視線を送った。

「ぼく、音が好き。音が鳴る前と鳴った後の“間”も好き。

 でも、ぼくがいると、その“間”だけがずっと続いて、みんな困る。」

「“間”が長すぎると、歌は迷うわね。」

セレンは微笑して頷く。

「だから、私が“拍”を刻む。あなたは“間”を守る。

 ――一緒にいれば、歌になる。」


ノアの喉がふるえ、やわらかな声が零れる。

「セレンは、ぼくのために泣ける?」

「泣ける。」

即答だった。言葉は水面へ落ち、輪を広げる。

「でも、泣くのは私の役目じゃない。泣きたい者が、泣ける場を守るのが私の役目。」

セレンは掌を胸に当てる。

「あなたが“泣きたい”と思ったその時、私は邪魔をしない。側で見届ける。

 それまでは――“息”を守る。」


ノアは「息」と唇で形作り、部屋の空気を一杯取り込む。

計測珠の輪が、呼吸に合わせて微かに膨らみ、沈む。


少しの沈黙。

外の廊に控える護衛の気配は遠く、ここには水の拍とふたりの呼吸だけ。


「ノア。」セレンがやわらかく呼ぶ。

「あなたのこと、また“ノア”って呼ばせて?」

「……うん。」

名は、鈴よりも薄く、しかし確かに部屋の中心に落ちた。

ノアはその音を胸に抱え、眠る前の子どものように目を細める。


「もうひとつ、聞いていい?」

「どうぞ。」

「ぼくは――つくられたの?」

唐突な刃の角度。セレンは一瞬だけ息を留め、すぐに肩をゆるめる。


「ノア。」

彼女は正面から視線を受ける。

「“生まれたか、つくられたか”を決めるのは、あなたじゃなくて、あなたと出会う世界のほうだと私は思う。

 世界があなたを“ここにいてほしい”と受け取ったら、それは“生まれた”に変わる。

 だから今は、答えを急がないでいい。――息をして、名を持って、私に呼ばせて。」


ノアは迷いの中で頷いた。

「……わかった。急がない。

 でも、ぼく、知りたい気持ちは“保存”しておく。」

「いいわね。保存、承認。」


ふっと、セレンの目尻がやわらぐ。

セレンは袖の内から薄い封を取り出し、中から小さな“種鈴たねすず”を摘み出した。

それは米粒ほどの涙晶の微片を雫形に研いだ“種鈴”――内部に鳴体はなく、細孔に通した極細の糸で吊すだけのしるし。振っても音は出ないが、風に触れるとごくかすかに光の脈だけ返す。


セレンは天幕の端に手を伸ばし、その“種鈴”をそっと結わえる。

「今は“音の芽”だけをここに置くね。あなたが眠るあいだ、これは鳴らない――ただ、最初の一音に向かって静かに息を溜めるしるし。」

セレンは微笑む。

「音の器そのものは今夜、風の巫女が預かって研ぎ直している。明朝には戻るわ。だからそれまで、この“芽”をあなたの頭上に置いておく。――起きたとき、あなたが“鳴らしたい”と思ったなら、ここから始めよう。」


ノアはその雫を見上げ、ひそやかに微笑んだ。

「それ、好き。」

「私も、好き。」


セレンは席を立つでも、深く座るでもなく、床に静かに腰を下ろした。

「今夜は、ここで本を少し読む。声は出さない。文字だけ、ページの中で鳴らす。

 あなたが眠れたら灯を落とす。眠れなくても、灯は弱くしたまま、朝までいる。」


ノアは迷いの名残りを胸のどこかにしまい、毛布を喉もとまで上げた。

「……セレン。」

「なに?」

「ぼく、ほんとうに泣きたい時が来たら、合図する。

 “息”が痛くなって、世界が狭くなって、胸がいっぱいになった時。

 その時、鈴を――鳴らしてもいい?」

セレンは即座に頷く。

「いい。明日戻る“本当の鈴”で、鳴らして。」

「約束。」

「約束。」


ノアは少し息を整え、同じ姿勢のまま、ごく小さく続けた。

「それから……ぼくの最初の涙は、セレンのために流したい。」

セレンは一瞬だけ瞬きをして、すぐ首を横に振らない。

「それはあなたの涙。私のためでも、あなた自身のためでも――好きに決めていいわ。

 どちらでも、私は側にいる。」

ノアは小さく息を吸い、「うん」とだけ答えた。

その「うん」は、眠りよりも静かで、約束よりも温かかった。


計測珠の輪が、約束の言葉にあわせて仄かに明滅する。

輪郭の一部がわずかに欠け、すぐ埋まった――縫い目のない静けさが、また一つ形を変える。


「おやすみ、ノア。」

「……おやすみ、セレン。」

最後の声は、ほとんど息。

彼女の呼吸は浅く、しかし均質。静けさ半径、安定。


セレンは帳面を開き、声にせずに数行だけ記す。

〈沈静域・夜半/“名”の定着反応あり/静けさ半径、内側からの自己調整を確認/泣息なし/“種鈴(音の芽)”設置〉

書き終え、指先でページを押さえたまま、ぼんやりと天幕の雫を見る。


(泣けなくてもいい。いまは、息をして――そしていつか、あなたが“泣きたい”と願う時、その一音をここで受け取る)


彼女は灯をひと目盛りだけ落とす。

滴は相変わらず同じ拍で水皿へ落ち、輪は静かに広がり続ける。

遠くの塔が、夜と朝の境目ではない刻をひとつだけ告げたような気がした。


――沈静域は、鳴らない雫をひとつ宿し、

ふたりの呼吸を布の裏表みたいに重ねながら、朝の手前で長い“間”を撫でていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ