礼の布告
――時間は少し遡る。
泣く宮の和音が、いったん沈んだ。
謁見の間の白霧は薄れ、蒼光はわずかに息を細くする。
扉が閉じ、来訪の三者の気配が遠のくと、天井の涙晶群は静かな脈だけを残した。
セレン・アルメリアが敷水の縁で膝を折る。
ミラの分体は水面に立ち、本体の声色を帯びて一拍の沈黙を置き、口を開いた。
「……受け入れたわ。界面をほどく“糸”を。きょうは“試し”。明日は“礼”の刻に、塔の鳴きを媒介して――薄く、広く――国全土へ通す。」
「はい。」セレンは頭を垂れる。「供給への負荷は微小、祈り成分はわずかに上昇。……数値も、音も、きれいでした。明日は儀礼として“塔鳴同調”を組み、段階波で全域へ拡張します。」
「きれい、ね。」ミラは目を細め、水盤へ指を落とす。輪が淡く広がる。
「けれど、きょうのそれは“礼儀”のうち。許したのは“羽一枚”。範囲と刻を越えないこと――それが約束。」
セレンは顔を上げる。淡紫の瞳は揺れない。
「承知しています。――“来訪者の礼”において、界面調律を“国の儀礼”として定義し、塔ごとに時刻を僅差でずらして波を送ります。刃は用いず、界面のみ。全域は“一度に”ではなく“順送り”で。」
ミラは視線を巡らせ、天井の吊り涙晶を眺める。
「悲哀は、国の体温。下げ過ぎれば凍る。上げ過ぎれば焼ける。……私が守るのは、そこ。」
「そのために、きょうは“檻”だけ外した。」
セレンが静かに継ぐ。
「泣かされる涙を一歩退かせ、泣ける涙の通り道を作った。――宮の呼吸が、一拍だけ楽になりました。明日はその“通り道”を、塔の網で国土に延ばします。」
ミラは小さく頷く。
「私も聴こえた。……孤独が、少し薄くなった音。」
ふたりの間を、水の薄い拍が行き来する。
「セレン。」ミラは声を低くする。
「議場を開いて。明日に向けた準備を。条件は私が示す。“礼”は涙で迎え、涙で問う。刃は抜かない。」
「畏まりました。」セレンは立ち上がる。
「併せて、ノアの保護規定を改めます。扉外での待機、静けさ半径の監視、夜間は沈静域にて休息を。」
「ノアは……泣けない。」
ミラは水盤へ視線を落とす。
「でも、息はしている。息をしている者を、私は罰しない。」
セレンの口元が、ごくわずかに緩む。
「ありがとうございます。」
ミラは顔を上げた。
「ただし、忘れないで。――もし“理”がこの国の心臓を止めようとするなら、私は悲哀の王として、理に抗う。」
「はい。」セレンはまっすぐに受け止める。
「それでも私は、悲しみを信じています。泣きたい者が泣く涙は、装置のための涙より強い。……かつて、私が救われたように。」
ミラの瞳がわずかに揺れる。
「あなたは、ときどき強いわ、セレン。」
「涙のおかげです。」セレンは穏やかに微笑む。
「そして、それは陛下の涙の、です。」
ミラは笑わない。ただ、その言葉を水底に沈めるように目を伏せた。
*
準備の話は、そのまま涙議会へと引き継がれた。
涙議会、臨時の集い。
円環の席には残情民の代表たちが並び、面の薄膜が呼吸に合わせてわずかに凹凸する。
床を走る水脈は、議員の心拍を拾って音階を揺らした。
蒼の照り返しの中、セレンが水盤の前に進む。
「――第一告。謁見の間にて、調律の巫女による“界面調律”を限定条件で試行。供給系は安定、自発成分は微増。宮の“呼吸”は安全域に留まっています。」
鈴のような微音が数条、空気に縫い込まれていく。
光がわずかに赤みを帯び、老議員が面の奥から声を落とした。
「……国力は、どうだ。祈りの総量は?」
「総量への影響は未反映。」セレンは即答する。
「小規模試行区画に限った傾向として、無理強いの涙が微減し、意志の涙の比率がわずかに上がっています。――明日、“来訪者の礼”に合わせ、塔鳴同調で段階的に全土へ波を連鎖させます。広域の供給系は流量維持、“通し方”のみ変更します。」
若い代表の席で蒼が長く鳴る。
「怒律国が外で軋みを強める最中、流量を絞るのは危うい。」
「絞ってはいません。」セレンは首を振る。
「塔ごとに半拍遅延の“順送り波”で界面のみをほどきます。各塔の負荷は羽一枚、観測はゼロ位相。国は鳴き続け、ただ“命令層”だけが薄く外れます。」
「通し方。」老議員が繰り返す。「それで国が持つのか。」
セレンは短く息を整え、涙晶針を水盤へ落とす。
光の目盛りがふっと一段、柔らぐ。「持たせます。――泣かされる涙より、泣ける涙のほうが、長く燃える。」
対岸で低い囁き。
「……だが、理は刃だ。ゼロに触れれば、悲哀は凍る。」
「だからこそ、“礼”で定めます。」セレンは静かに頷く。
「条件なき介入は許さない。」
深い蒼の持続音が広がる。
水面に王の影がひらめく。ミラの分体が議場へ現れた。
「ここからは私が告げる。」
席の全員が頭を垂れ、鈴の余韻だけが残る。
「明日、“来訪者の礼”を開く。悲哀は涙で迎え、涙で問う。」
ミラの声は静かだが、水脈の奥まで届いた。
「調律の巫女は“界面のみ”。風の巫女は“触れるだけ”。無の器は“無干渉観測”。――刃は抜かない。
そして“国全土”へは、一度にではなく“塔の順送り”で界面の糸を通す。波は薄く、刻は短く、音は途切れさせない。」
蒼光が一段、深くなる。反対の席から、細い声。
「陛下。もし彼女ーー"断彩の魔女"が礼の場で“ゼロ”を立てようとしたら。」
「止めます。」ミラは迷わず答える。
「悲哀は、凍らせない。」
「……では、我らは何をもって明日を測ればよいのです。」
「音で測る。」ミラは小指を水へ触れ、一粒の涙を落とす。
輪が広がり、像が灯る。抱きしめる背、倒れた街、取りこぼした手。――そして、いましがたの宮の呼吸。
「泣きたい者が泣ける音が、ひとつでも増えたなら、悲哀は後退しない。……それが、私の答えです。」
面の奥で幾つかの肩がゆっくりと下りる。
議場は沈黙の礼をとり、鈴のごく小さな重なりが“承認”として空に滲んだ。
「セレン。準備を。儀礼の路を整え、塔の鳴を合わせて。全塔に時刻表を配し、鳴順路を刻んで。……ノアは沈静域で休ませて。」
「御意。」セレンは深く礼をとる。
「私が責を持って。」
分体の光が薄れる直前、ミラはふと付け足した。
「セレン。あなたは“信じる”と言ったわね。」
「はい。」
「私もよ。」ミラは目をわずかに和らげる。
「悲しみが、ただの檻で終わらないことを。」
蒼の影はほどけ、王は去る。
水盤には、薄い輪だけが残った。
*
議場が解かれ、通路の湿りが静まる頃。
セレンは少人数の護衛と共に、沈静域へ降りていく。
厚い扉の前で合図を送り、鍵鈴が短く揺れた。
「記録官セレン・アルメリア。保護継続。静けさ半径、定点観測を。」
扉は開かない。扉番が頷き、内側の灯が一段だけ明るくなる。
布の擦れる、ごく小さな音。――淡蒼の気配が扉の向こうへ寄った。
(起きている)
寝息ではない、浅く整った呼吸のリズムが扉越しに伝わる。
セレンは掌を扉に当て、声には出さず唇で形だけ結ぶ。
「こんばんは、ノア。」
護衛へ視線を送り、短く指示する。
「この位置で監視。静けさ半径、継続記録。」
「了解。」鍵鈴が応え、護衛が所定位置へ散る。
セレンは扉番へ小さく頷き、錠の解錠を合図した。錠機が静かに解かれる。
「内部、私ひとりで入るわ。――開けて。」
扉がわずかに口を開き、湿り気を含んだ空気が薄く流れ出す。
セレンは振り返って護衛の待機を確認し、ひと呼吸だけ置くと、身を横にしてすり抜けるように中へ入った。
*
謁見の間。灯は落とされ、天井の涙晶だけが遠雨の尾を保っている。
ミラの分体が再び立つと、水は音を整えた。
「……“理の梯子”。」
イリスの言葉を、ミラはひとりごとのように繰り返す。
「涙は、それに掴まってもいい。けれど、掴ませ過ぎれば、誰かが手を離す。」
分体の輪郭が、ごく微かに粒立って――すぐに落ち着く。
分体は水盤に映る自分の影を見下ろし、指で小さく輪を描いた。
三百年前の静寂が、薄い膜の向こうで揺れる。
“ゼロ”の夜。世界の音が、一度すべて止まった夜。
(私は、あの静けさを覚えている。……だから、怖い。だから、羨ましい。)
「明日は“礼”。刃は抜かない。涙で迎える。――そして、塔の順送りで、国すべてに“糸”を通す。」
遠い塔が、規定の刻をひとつ告げる。
それは日暮の終わりと、夜のはじまりの境目の音だった。
ミラは踵を返し、薄い光を残して消える。
謁見の間には、雨の尾と、水の拍と――小さな鈴の気配だけが残った。




