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再会と乖離

――泣く宮で、時間は水に溶ける。


涙晶宮ルメン・アークの最奥、謁見の間。

天井を渡る巨大な涙晶群が、遠い雨の和音を保ち続けている。

音は呼吸のようだが、ここに肺はない。

脈打っているのは、下層最深《封涙殿》に眠る本体へと繋がる、ごく微弱な伝導だけだった。


先導するセレン・アルメリアが敷水の手前で膝を折る。

イリスは《ルミナリア》を胸に静寂の礼、ルーファは風の礼。

アッシュは《ノルディア》を胸の前で伏せ、表示を消灯して無音の礼を取った。


白霧が薄れ、蒼光が中央に凝る。

光の芯から、女王が“生成”される。


――ミラ。


血肉の王ではない。涙と光で編まれた“分体”。

指先の影は水面でわずかに遅れ、声は響きの尾を引く。

ここに在りながら、同時に封の底――本体と結ばれている。


「……ようこそ、悲哀の宮へ。随分と久しぶりね……調律の巫女。」


呼びかけは名より先に“役目”を指した。

イリスは半歩進み、紫銀の瞳で像の密度を量る。


(形は完全。けれど、呼吸がない――涙機構で維持される“王の影”。)


ミラのまなざしが、白銀の髪をゆっくりたどる。

光の皮膜の奥で、封じられた夜の記憶が一瞬だけ滲んだ。


(三百年前、世界が断たれた夜。あの静けさ、あの“理”。)


「あなたは理で世界を整えた。……でも、理には涙がない。」


責めつける響きではない。封印越しに濾過された、硬質の真実だけが落ちる。

イリスは間を置かず、まっすぐ応じた。


「涙は優しさであり、同時に歪みでもある。」


水盤にふたつの輪が落ち、触れそうで触れずに広がる。

輪郭が重なりかけた刹那、分体のわずかな位相ズレが、周縁をかすかに乱した。


「三百年前のあなたは“完全なゼロ”だった。」

ミラの声は静かだ。

「私の記憶が正しければ、そこに揺らぎはなかった。今のあなたには――痛みがある。」


胸の奥で、かすかな軋み。

イリスはほんの一瞬、視線を落とす。


(八王の感情に触れた夜。人間だった頃の自分が、完全なゼロの中に割り込んできた。)


「私は変わったわ。でも、役目は変わっていない。」

イリスは顔を上げる。

「“過剰”を均す。それだけ。」


ミラの睫がわずかに揺れた。


「恐律の地でナールを封じ、次はここを――悲哀を――調律しに来たの?」


イリスは即答しない。

紫銀の瞳に、天井の蒼と涙晶の光が二重に映る。


「悲哀そのものを“殺しに来たかどうか”は、まだ決めていないわ。」

声は淡々としているが、その底にかすかな痛みが混じる。

「ただ一つ、過剰な悲哀が世界を壊すなら、そのときは刃を振るう。

 ……いまこの瞬間、私が確かめたいのは“悲しみの使い方”だけ。」


ミラは掌を水へ下ろす。

盤に像が灯る――抱きしめる背、倒れた街、取りこぼした手。

それはエレリアの歴史であり、ミラが抱いてきた“世界の痛み”の断片だった。


「悲しみは人を繋ぐ。泣くことで、孤独は形を持つ。私はそれを国にした。」

ミラの声は、わずかに低くなる。

「本体は封じられ、底で泣き続けている。だから、この国は“私の涙”で回る。」


胸の奥で、さらに一段、軋みが深くなる。


「世界が私を悲しませる。

 だからこそ、私は世界より深く泣く。

 本当は、誰の涙も“装置の一滴”になどしたくない。

 けれど――止まりかけた世界の前で、私は一度、王として決めた。

 『泣かされる世界』と『止まる世界』の二つしかない夜なら、

 私は前者を選び、その責を引き受ける側に立つ、と。」


言葉とともに、水盤の映像がゆっくり切り替わる。

涙機構が組み上がっていく夜、均された街、塔へ吸い上げられる涙。


「涙を機構に変えるとは、その覚悟を噛み砕いて呑み込むこと。

 綺麗事だけでは、悲哀の王は務まらない。」


ミラはイリスを正面から見据えた。


「調律の巫女。

 あなたが刃で“過剰”を削ぐのなら、私は涙で“この国の重さ”を抱え続ける。

 どちらも世界を守る手段よ。私は、王としてこちらを選んだ。」


イリスは短く息を吸い、吐く。

紫銀の奥で、淡い蒼が一瞬だけ灯り、すぐ沈んだ。


「……世界を守るために、誰かの涙を“仕組み”に組み込んだ。」

イリスは静かに言う。

「その選択を、私が軽く否定することはできない。でも、」


言葉を切り、続ける。


「いま、この国では“選べない涙”が増えすぎている。

 “悲しみの檻”を、調律の巫女として見逃すわけにはいかない。」


ルーファの胸に軋みが走る。


(どちらも、正しい。どちらも、痛い。)


風はふたりの間を通り、同じ温度で彼女の頬を撫でて、左右に分かれていった。


平板な声が、その空気を横切る。


「観測。宮内の情動波は、深い蒼を基調。ごくわずかに――三百年前の封印の夜と似た揺れが混じり始めている。

 ――観測継続。」


アッシュは短く告げると、左前腕の観測腕甲ノルディアのインターフェイスに小さく「保留」を刻む。

光学板は伏せたまま。音はまだ無音――けれど、その沈黙の奥には、合図ひとつで戦闘位相へ跳ね上がる構えだけが、ぴんと張りつめていた。


ミラのまなざしが、《ノルディア》の伏せられた板と、アッシュの指先に宿るわずかな緊張をなぞる。


「……その構え方、“理”らしいわね、観測者。この国を量り、刃を立てる刻を待っている。」


ミラは、水面に落とした指先をわずかに沈める。

「でも、覚えておいて。ここで刃を抜くのなら、最初に抗うのは私よ。

 そのとき、悲哀は“観測される側”ではなく"刃を試す側"に立つ」


アッシュは応えない。

ただ、光学板のわずかな反射を静かに落とすだけだった。


そのとき、謁見の間を取り巻く外周の涙晶群の一角が、低く赤く唸った。

外界の怒りや恐怖の波が一瞬だけ跳ね上がり、その揺れが宮の心臓部にまで届いた合図だ。

水面に細かい波紋が立ちかけた瞬間、セレンが即座に指先で抑制符を走らせる。


暴走の芽だけを刈り取るように符が組み上がり、ひと筆ごとに赤がほどける。

音の高さが元の蒼へと戻っていった。


「外縁共鳴、閾値手前で鎮静しました。」


セレンの報告は簡潔だ。

エレリアという大きな涙装置が、王と巫女の対話に呼応して、一瞬だけ“揺れた”――その事実だけが、水面の底に薄く残る。


沈黙。

均す理と、抱く涙。どちらも世界を守るために在る。

だが、守り方は相容れない。空気が、刃の薄さで張りつめる。


ルーファは二人のあいだに、ほとんど感じ取れない一枚の風を滑らせた。

濡れた空気がわずかにほどけ、音の棘が丸くなる。


(このまま言葉をぶつけ合えば、泣く場そのものが割れる――)


イリスは視線を落とし、掌に触れた《ルミナリア》の体温を確かめる。

白銀の睫の奥で、紫銀の瞳が一度だけ揺れた。


「ミラ。ここで刃を立てれば、分体も国も裂けるわ。」


言ってから、短い息を置く。


「……だから、提案がある。試させて。刃ではなく、糸で。」


イリスは《ルミナリア》をほんのわずかに持ち上げた。


「いま、この場で小さく試すわ。"界面調律"を。

 “泣く場”は裂かず、涙への命令だけをほどく。装置は止めない。」


水盤の面が、ごく浅く震えた。

ミラは視線を落とし、広がる輪の内側に沈む映像――抱きしめる背、取りこぼした手――をひとつずつ見送り、ゆっくり顔を上げる。


「糸で、何を解くの?」


声は硬くはない。けれど、変わらぬ警戒が縁に残っていた。


「“命令層”だけ。」イリスは即答する。

「祈りの層には触れない。場の膜は揺らさない。」


セレンが短く息を吸い、言葉に置き換える。

「つまり……この国の人たちに『無理やり泣け』と押しつけている層だけをほどく、ということですね。

祈りとしての涙や、誰かを想って流れる涙には触れない。……理論上、供給系への揺れは微小です。許容域内で収まる見込み。」


アッシュも淡く告げる。


「監視可能。ゼロ位相で観測を維持する。」


「風は乱さない。ただ、重なった糸目をそっとほぐすだけ。」

ルーファの呼気ほどの微かな流れが、湿りの膜を一枚だけ薄くした。


ミラはわずかに息を吸い、そのまま吐き出す。

分体の輪郭が微かに粒立ち、ふたたび落ち着く。


「……私の本体は、封の底で泣いている。ここは国の心臓。失敗すれば、心臓ごと止まるかもしれない。」


イリスは一歩も引かない。


「だから小さく。だから、いまここで。試すの。」


ほんの短い沈黙。

ミラの視線が扉の方へ流れ、淡蒼の気配を確かめる。


「ここであなたと刃を交えるのは私も本意ではない。……わかったわ。試しましょう。けれど条件を置く。無闇には揺らせない。」


彼女は指を一本ずつ折りながら、落ち着いた声で告げた。


「まず一つ、扉は開けない――扉外のノアの静けさをこの場に流し込まぬためだ。

 次に、風介在は羽一枚だけ。場を乱さぬ微風ひと筋に限る。

 そして、観測はゼロ位相。無の器は干渉せず“観る”のみ。

 最後に、試行は五分まで。本体と供給への負荷を見極める猶予とする。」


イリスは頷き、ルーファが息を整える。

アッシュは《ノルディア》の表示を消灯し、ゼロ位相を固定する。

天井から最小の雨が落ち、ルーファの羽一枚の風がそれをほどいた。


「では、調律を開始する。」


イリスは《ルミナリア》を胸前に掲げ、宮を揺らさぬほどの微かな調子で唇を開く。

静かに詠唱を紡ぎ始めた。


しきいに糸を、みことくしを。

 涙は留まり、命令のみほどけ。

 ゼロふちと、音の縁――

 理は触れども、場は裂かず。

 いま、静けさだけ動け。」


そして、杖を掲げる。


「――調律魔法第三階位《界面調律:閾糸〈リミナル・スレッド〉》。」


《ルミナリア》の先端が微光を結び、

理の閾糸が水面の張力をなぞって走る。

涙装置の「命令層」だけがき取られ、場の膜は揺らがない。

――界面調律が静かに始まった。


最初にほどけたのは音だ。

天井の遠雨は、尾を半拍だけ長く引き、余剰の圧を一匙こぼす。

硬い和音の角が丸まり、命じられた拍が、選ばれた呼吸へと置き換わっていく。


次に変わったのは水。

水脈の脈拍がわずかに落ち、滴下の間隔がひと息ぶんだけ間延びする。

縫い目のように重なっていた命令の糸目がほどけ、雫は落ちる理由を自分で選び直す。


続いて光。

吊られた涙晶の蒼が一段と薄く透け、縁に細い乳白が差し入る。

それは赦しの色ではない。ただ、泣息が通れる余白が生まれた徴だ。


そして謁見の場の者たち。

分体の王は輪郭の粒立ちをひとつ沈め、声の尾が半拍だけ短くなる。

セレンの肩の張りがわずかにほどけ、筆致の震えが止む。

ルーファの呼気は調律の律動に寄り添い、胸の硬さが一枚だけ薄くなる。

イリスの掌で《ルミナリア》の重みが静まり、指先に余計な力が入らない。

扉の向こうの淡蒼の気配――ノアの静けさには触れず、ただ空気の温度だけがひと息分やわらいだ。


場を乱さぬ風が、落ちかけの雫の外縁を指先で撫でるようにすり抜け、

重さだけで落ちる涙と、意思で落ちる涙の境目を静かに分けていく。


水が音を思い出す。

強制の涙は結び目を緩め、誰にも命じられていない小さな泣息が、

音階と音階の狭間――譜の余白へそっと忍び込んだ。


「更新。強制の涙が、さっきよりわずかに減少。

 祈りとしての成分が、ほんの少しだけ増加。供給負荷は許容範囲内。」


アッシュの平板な報告に、セレンの肩からわずかに力が抜ける。


水盤の光が一段、澄んだ。

鈍い和音のあいだに、細い“間”が生まれる。


セレンが短く見立てを言葉に落とした。


「命令の薄膜だけが外れています。供給は生きたままです。

 強制の比率が少し下がって、自発の泣息が“隙間”へ戻り始めました。」


ルーファがほっと息を落とす。


「……泣かされる涙が少し退いて、泣ける涙が前に出た。いまの風なら、歌になる。」


ミラは頬の雫を指で受け、静かに目を閉じた。


(……祈りが孤独でなくなる瞬間の色。)


静かに瞼を上げる。


「これが界面調律……理の梯子ね。涙は、それに掴まってもいい。」


「落ちないために。泣くために。」

イリスは応じた。


ミラは一歩、イリスに近づく。分体の輪郭が微かに粒立つ。


「イリス。あなたはやはり、三百年前の“ゼロ”とは違う。」


「私は――」


言葉が喉の奥でかすかに滲む。


「役目を続けているだけ。」


ルーファがその震えを見て、そっと風を一枚流した。


「迷っていい。風も、涙も。迷ってから澄むの。」


イリスが小さく息を整え、言葉を置く。


「争えば、誰も救えない。」


ミラも頷く。


「私も望まない。悲哀は争わない。」


和解ではない――しかし、刃は抜かれない。

アッシュは表示を消したまま、無音のまなざしで謁見の場を記録し続けている。


ミラが宣する。


「明日、“来訪者の礼”を開く。悲哀は涙で迎え、涙で問う。

 そこで、国とあなたの理を正式に交わしましょう。」


イリスは《ルミナリア》を胸に戻し、深く礼を取った。


「応じます。」


「セレン。」ミラは側へ目をやる。

「ノアをこのまま保護して。今日の揺れはここまで。」

「御意。」セレンは扉の方へ目配せし、涙守に下がりの合図を送った。


最後にアッシュが一度だけ振り向く。

《ノルディア》の核面に、測定不能の微弱揺らぎ――封印夜の波形が微分単位で重なっては消えた。

彼はそれを見届け、表示を再び消灯する。


三人は踵を返し、扉の方へ向かう。

閉ざされたままの大扉の向こう、淡蒼の気配がかすかに揺れた。

ルーファが掌の中で小さく風を転がす――ひびの入った風鈴は鳴らないまま、しかし“鳴る準備”だけは確かに整えていく。


――再会は、礼節のうちに。乖離は、沈黙のうちに。

分体の王は、わずかな光量を残して静かに揺れていた。

その揺れは、封の底に眠る“本体”へ届くごく細い線――泣く国の、呼吸だった。

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