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泣けぬ子

――涙は下へ、祈りは上へ。


涙晶宮〈ルメン・アーク〉の脇腹に刻まれた螺旋回廊を、セレン・アルメリアは無言で降りていった。


壁の内側を走る細い水脈が、低い音で脈を打つ。

ひと雫落ちるたび、彼女の耳朶には微かな音階が触れた。


悲しみの純度、流量、共鳴幅――

そのすべてが、彼女にとっては“文字”のように読める情報である。


(音が浅い……下層へ行くほど、音程が揺れている)


回廊の底で扉が開き、ひやりとした風が頬を撫でた。


広がったのは、下層街〈ルメン・ロウ〉。

石の路地が涙の小川で縫い合わされ、各所に立つ小塔が雫を集めている。

白い布の庇が道を横切り、そこに吊られた鈴は鳴らない――

この国でそれを鳴らすのは、風ではなく、涙だからだ。


供給の刻を告げる鐘が、遠くで二度鳴った。


通りでは調律民たちが列を作り、面の奥でまばたきもせずに佇んでいる。

列の合間を、涙守〈ルメンガード〉の兵がゆっくりと進む。

銀の杖の先にある透明の突起が頬へ触れると、細い光が走り、雫が生まれた。


それは痛みではない。命令であり、儀礼であり、生活だった。


セレンは外套の内から、細い水晶の針を取り出した。

“涙晶針”。悲哀の密度を指す微小な計測器である。


人波の振動、路地の湿度、塔の共鳴――

針の先で合わさった値が、彼女の掌に冷ややかに伝わる。


(この区画だけ、落ちている。……沈静化の兆候)


“音”の浅い方角へ身を向ける。

路地の折れ、もう一段下る石段の陰。


そこで、鈴がひとつ――

風でも涙でもない理由で、わずかに触れ合った。


淡蒼の髪。


小さな背。

白でも灰でもない、薄い青を吸い込んだような髪色が、薄闇の中でもすぐに見分けられた。


少女はひざを抱え、

吊り紐の切れた小さな風鈴を両手で包み込んでいる。


顔立ちは痩せ、頬には薄い影。

瞳の色は淡く、光が映るとすぐに退いてしまう。


けれど――彼女の周囲だけ、妙に“静か”だった。


路地を満たしていた湿った音が、そこだけ丸く削り取られている。


セレンは半歩距離を取り、静かに跪いた。


「……あなたが、“泣けない子”」


少女は答えない。


ただ、彼女の周りで路面の水鏡が、わずかに波を引き、音が一段沈んだ。


涙が、近寄らない。


降りてくるはずの雫が、縁でほどけて、別の流れへ身を寄せていく。


セレンは涙晶針を開き、音を聞いた。


Δ悲哀密度、緩やかに下降。

沈静化は、拒絶ではなく拡散――

怒りや恐怖のような、尖った“拒みの波形”ではない。


(やはり、“空白”に近い。泣くことを拒むのではなく、泣き方を知らない)


「名は?」


少女の唇が、かすかに動いた。声は出ない。

喉の奥で言葉が迷い、そこから先へ出る道を見失っているようだった。


セレンは、それを急かさない。


声を待つことも、記録官の仕事のひとつだ。


「……わたしたちは、あなたを罰しには来ないの。

 ただ、涙の音を、確かめに来た」


沈黙。


少女は手の中の風鈴を持ち上げ、耳に当てて振る。

鳴らない。


それを二度、三度――

“鳴らない”ことを確かめるように繰り返し、

ゆっくりと首を傾げた。


「……音が、来ないの」


小さな囁き。


その一言が、セレンには十分だった。


(音を“待っている”。――完全な無関心ではない)


「泣きたいの?」とセレン。


少女は少し考え、眉尻を困ったように下げた。


「泣きたい、が……わからない。

 ここに来ると、もっとわからなくなる」


“ここ”――ルメン・ロウ。

悲しみが秩序であり、涙が生活である場所。


セレンは瞼を伏せ、短く息を整えた。


(悲しみの密度の中で、音が迷子になる。……それでも、この子は壊れていない)


路地の奥から、人影がひとつ、ふたつ。

残情民の女が面をかぶり、

侮蔑とも憐憫ともつかぬ視線を向けた。


「その子ですか。泣けぬ子。塔の列を乱します。涙室へ」

続く低い声。「乾きを撒く者は、祈りの妨げだ」


セレンは立ち上がり、銀の徽章を胸元に出した。


「記録官セレン・アルメリア。――本件の一次判断権は私にある」


面の下で、女の目がわずかに怯む。


セレンは穏やかに、しかし一切の隙なく続けた。


「彼女は“欠落”ではあるが、“拒絶”ではない。

 涙室に入れれば、悲哀は学べず、ただ壊れる。ここで保護する」


ざわめき。


涙守の兵が二人、路の口に姿を現した。

セレンは兵へ視線を送り、短く命じる。


「この子に触れないよう周囲を確保。列は反対路地へ迂回。塔の揚程は三%落として。

 ――彼女の半径十歩、“沈涙域”として記録」


「了解」


ふたたび、鈴は鳴らない。


少女が面越しの視線から庇われたのを確かめ、

セレンはもう一度だけ腰を落とした。


「名が無いのね」


少女はうなずく代わりに、風鈴を胸に当てた。

音のない鈴。

音のない胸。


セレンは小さく微笑んだ。


「なら、呼び名がいるわ。――ノア。今日から、あなたをそう呼ぶ。

 “音の来ない器”に、いつか音が満ちるように」


ノアは目を瞬いた。


名は、音より先に届く。


その瞬間、路面の水面がほんのわずかに震え、

沈静の輪郭が柔らいだ。


「ノア」


セレンは、あえてもう一度呼ぶ。


「ここは泣く国だけど、あなたが泣けなくてもいい。

 ただ、あなたの静けさが、どんな音へ変わるのか――見守らせて」


ノアは少しだけ迷ってから、持っていた風鈴を差し出した。


「なおして」


短い言葉。けれど、それははっきりと“願い”の形をしていた。


「直るかどうかは、風次第」


セレンは受け取り、ひびの線を指でなぞった。

素材は薄い涙晶。音孔がわずかに詰まり、糸が切れている。


(風――あの巫女なら、歌わせるかもしれない)


彼女は外套の内側へと風鈴をしまい、立ち上がった。


そのとき、路地の向こうで一斉に面が巡った。


人々の視線の先――

下層街の広い通りを、三つの影が横切ったのだ。


白銀。

翠。

そして、白。


「……早いわね」


セレンは小さく呟き、傍らの兵へ手短に指示を飛ばした。


「迎えの準備を。最接近地点は涙塔第二環状の交差。

 “来訪の三者”を害するな。――涙で迎える」


兵が駆ける。


セレンはノアへ手を差し出した。


「一緒に来られる?」


ノアは躊躇い、そして指先を重ねた。

掌は冷たく、軽い。


ふたりが歩き出すと、沈んでいた路面の水が、静かに道を開けた。



第二環状の交差は、塔の影が重なり合う広場だ。


中央の浅い水盤には、供給を終えたばかりの涙が薄く張り、

空の蒼が揺らめいて映っている。


そこへ、三人が現れた。


白銀の髪――イリス。

紫銀の瞳は、悲哀の空を一度だけ測るように細められた。


隣を歩くルーファは、風を探している。

湿度の重みで風は鈍いが、彼女が呼べば、わずかな流れが髪を撫でる。


その背に続くアッシュは、無表情のまま水盤へ視線を落とした。

《ノルディア》の中枢が淡く明滅する。


収束する数式――悲哀の場は飽和に近い。

だが、局所の沈静が一箇所。


セレンは広場の片縁で進み出た。

涙守が左右へ分かれ、道をあける。


「――灰域よりの来訪者。

 調律の巫女イリス、風律の巫女ルーファ、そして“無の器”アッシュ。

 涙議会筆頭官、セレン・アルメリア。女王ミラの伝達を持つ者として、あなた方を涙晶宮へご案内します」


イリスは一歩進み、礼を返した。


「応諾します。――その前に、ひとつだけ確かめたいことがあるの」


セレンの瞳が緩やかに細まる。

「どうぞ」


「悲しみを動力にする政治を、あなたは“正しい祈り”と呼ぶの?」


イリスの声は静かで、温度がない。

けれど、言葉の輪郭は鋭い。


セレンは水盤へ視線を落とし、雫の輪をひとつ追った。


「呼び名の問題ではありません。ここでは“泣くこと”が秩序です。

 怒りが燃えれば国は焼け、恐れが溢れれば国は凍る。

 わたしたちは涙で温度を保つ――それが、この国の選択です」


ルーファが口を開いた。


「でも、泣かされる涙は、歌わない」


セレンは否定も肯定もしない眼差しで、ルーファを見る。


「導くのです。強いるのではなく。

 ……少なくとも、わたしはそう在りたい」


アッシュが短く告げる。


「観測。現在、この広場の情動波は低周波の揺れが基調。

 強制的に引き出された涙と、自発的に立ち上がる涙――およそ六対四で前者が優勢。

 “祈り”より“命令”が上回っている。」


水盤の縁が微かに震えた。


セレンは示された揺れの比率を飲み込むように瞬き、イリスへ視線を戻す。


「あなたは何を“均す”つもりですか、調律の巫女」


イリスは答えた。


「過剰。形を問わない。

 悲しみが祈りであり得るなら、祈りが歪んだときにだけ、理で整える。

 ――泣きたい者は泣き、泣けない者は、それでも息ができるように」


ノアがセレンの袖をきゅっと握った。

ルーファがほほ笑み、ノアへ視線を落とす。


「泣けないなら、そのままでいいの。

 ……でも、音は作れる。風は、音のはじめを運べるから」


セレンがイリスへ向き直る。


「美しい理です。けれど、均しすぎれば、この国の装置は止まる。

 止まれば人は飢え、争いが立つ。――いま外界は怒りで軋んでいます」


遠くの塔が低く鳴った。


イリスは一拍置き、薄く目を伏せる。


「止めるために来たのではないわ。

 ただ、“止まらずに泣ける”場所へ戻すために来た」


アッシュが水盤に歩み寄り、《ノルディア》をわずかに傾けた。


「小規模介入を提案。広場内限定で“風介在”を挿入。

 この区画だけ、涙に触れる風の通り道を開く。

 理論上、強制的な涙の流量をいくらか減衰させ、自発成分と“歌”の比率を上げられる。

 供給総量への影響は、誤差範囲内。」


セレンはすぐに計算し、頷く。

「――広場限定なら、政治的障害は生まれない。許可します」


ルーファはセレンから受け取った風鈴を掌にのせ、そっと目を閉じた。


「風は、歌を忘れない」


彼女が息を整えると、湿った空気の中に細い流れが生まれた。


それは突風ではなく、涙と肌のあいだをすべるような、ごく薄い気配だった。

雫の落ちる瞬間にだけ、ふっと横から指を差し入れるように――

“命じられた拍”と、“胸から上がってくる拍”を分けていく。


水盤の面が一枚、静かに裏返る。

同じように膝をついていた調律民の肩から、わずかに力が抜けた。

杖に触れられても、顔を歪めなくなった者がいる。

逆に、本当に悲しい者の頬では、雫が細く長く伸び、音に厚みが増した。


アッシュが即座に読み上げる。


「観測更新。……強制の揺れがわずかに減衰、自発の揺れが前面へ。

 “命令:祈り”の比は、さきほどより祈り側へ一段シフト。

 ノアを中心とした静穏域も、半歩ぶん拡張。供給系に異常なし。」


セレンの唇に、微かな安堵が射した。


「……数値が、きれい」


ノアは風鈴を見つめ、ぽつりと呟く。


「いま、すこし――音が、来た」


ルーファは目を開き、嬉しそうに笑った。


「ね。風は、はじめの一音を連れてくる」


イリスはセレンへ向き直る。


「案内をお願い。話は女王と交わすべきだわ。

 ――わたしたちは、あなたたちの涙を否定するために来たのではない。

 “嘘の涙”を、祈りへ戻すために来たの」


セレンは短く息を吐き、深く一礼した。


「承知しました。涙で迎え、言葉で交わしましょう。

 ただし、ひとつだけ――」


彼女はノアの手を握り直す。


「この子は、わたしが守ります。

 泣けても泣けなくても、ここで息ができるように」


イリスは頷いた。


「それが、いちばんの“均衡”よ」


塔の上で、細い雨が始まった。

泣くための雨ではない。


迎えるための、きわめて小さな還流。


その下を、五つの影が並んで歩く。

白銀、翠、白、淡蒼――そして、淡紫の影。


広場を抜ける最後の角で、セレンはふいに立ち止まった。

振り返る。


ノアの淡い瞳が、彼女の指先の風鈴を見ている。

セレンはそれを取り出し、ルーファへ差し出した。


「――風に、借りをひとつ。直せますか」


ルーファは微笑み、鈴を掌に受け取った。


「風は、歌を忘れない」


たしかに。


遠い塔の上で、ごく微かに鈴の音が重なった。


それは涙の音ではない。

世界が“まだ、鳴る”という、かすかな予告だった。


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