悲哀律国エレリア
風が止んだ。
その代わりに、涙が街を満たしていた。
空は淡く滲み、灰の地平は濡れた硝子のように鈍く光っている。
地面には無数の水脈が走り、足音を吸い込みながら静かに波紋を広げた。
その一つひとつが、まるで誰かの嗚咽を記録しているようだった。
灰の大地を越え、三つの影が歩く。
先頭に立つのは、白銀の髪の少女――イリス。
その隣で、風の巫女ルーファが灰の外套を整え、後方ではアッシュが淡々と地形を解析していた。
「……ここが、悲哀律国エレリア」
ルーファが息を吐く。
風は湿り、空には淡い青の膜が張りつめていた。
それは雲ではない。
人々の涙が蒸気となり、空を覆っている――“泣くことで空を支える国”。
空気は重く、呼吸をするたびに胸の奥が鈍く痛む。
遠くの鐘楼から微かな鈴の音が流れ、
その響きが、誰かのすすり泣きを薄く引き伸ばしたように、街全体に滲んでいた。
アッシュが歩を止め、指先に灰を掬う。
「成分分析……硝晶質。感情波を媒介する結晶構造。
この地そのものが、“悲哀の記録媒体”になっている」
「悲しみを、地に刻む……」
イリスの瞳がわずかに揺れる。
紫銀の奥に、淡い蒼がかすかに滲んだ。哀律の色。
「なら、ここでは涙が――祈りなのね」
彼らの前方には、巨大な涙晶塔がいくつも立ち並んでいた。
塔は霧に溶けるように白く、表面を流れる水が光を反射している。
塔の根元には涙の小川がいくつも交差し、
街全体がゆっくりと“流れる心臓”のように脈を打っていた。
街はその塔を中心に輪を描き、見下ろせば、巨大な“涙の瞳”のように配置されている。
塔の内部からは、低く引き絞られた“嗚咽の共鳴”が響いていた。
通りを行く人々は、誰もが目を伏せて歩いていた。
灰色の衣、白い面。
その表情は均され、感情を失ったように静かだ。
――調律民。
理の調律によって感情の揺らぎを奪われた人々。
その足音は重く、水の上を歩くたび、涙の音が小さく響く。
塔がそれに応えるように低く共鳴し、
まるで国全体がひとつの呼吸で繋がっているかのようだった。
だが、その中には、悲しみを誇る者たちもいた。
彼らは上層――残情民。
感情を“持ち続ける”ことを美徳とし、涙を流すことで自らの存在を確かめている。
上層と下層。感情と無感情。
悲哀による階層が、この国の秩序をかたちづくっていた。
ルーファが街の中心を見渡す。
「……風が泣いてる」
空の色がゆっくりと揺らぎ、風に混じって嗚咽のような音が流れた。
どこからともなく漂う匂い――湿った石と涙の塩の匂いが、胸を締めつける。
イリスは微かに頷く。
「この国では、風も悲しむのね」
アッシュが短く報告した。
「感情波、第三階層にて異常集中。
中心構造体――“涙晶宮〈ルメン・アーク〉”と思われる」
「悲哀律の源……」
イリスの声は静かだった。
だがその奥に、わずかに理の震えがあった。
ルーファが問う。
「……イリス。
あなたは、この国をどう調律するつもりなの?」
「まだ、答えはないわ」
イリスは灰の空を見上げた。
「けれど、“過剰な悲しみ”は、いずれ理を崩す。
それを均すことが、私の役目」
風が彼女の白髪を撫でた。
その一瞬、ルーファの胸に微かな痛みが走る。
風は彼女の頬を撫で、まるで涙の代わりにその痛みを運ぶようだった。
彼女は気づいていた。
泣くことが赦しではなく、命令に変わっていることを。
イリスの言葉が“正しさ”であるほどに、それが“孤独”の音を孕んでいることを。
彼女は、そっと唇を噛んだ。
灰の風が三人の間を抜けていく。
アッシュの《ノルディア》が微光を放ち、周囲の涙結晶を照射した。
結晶の粒が空気中を漂い、淡い虹彩を帯びて揺らめく。
光のひとつひとつが、誰かの涙の記憶のように明滅した。
塔の壁面に刻まれた“泣き顔”の文様が、光に照らされて震える。
それはまるで――この国そのものが泣いているかのようだった。
「……泣かせてるのね」
ルーファの呟きに、イリスは答えなかった。
彼女は静かに歩を進める。
「調律民の悲しみを、残情民が吸い上げている……」
アッシュの演算が淡々と響く。
「感情エネルギーを抽出・循環――国家規模の感情律装置」
「悲しみを動力にしているの?」
ルーファの声が微かに震えた。
「涙が枯れたら、この国は止まる……?」
イリスが答えた。
「いいえ。涙が枯れないように、“誰かが泣かされ続ける”のよ」
その言葉が落ちた瞬間、遠くの鐘が鳴った。
――悲哀供給の合図。
鐘の音は柔らかく、それでいて残酷だった。
空の膜が波紋のように揺れ、街中の塔が一斉に共鳴する。
その音に呼応するように、通りの人々がひとり、またひとりと膝をついた。
街の通りに整列する調律民が、一斉に膝をつき、目を閉じる。
涙を流す者、泣けずに沈黙する者。
その間を、白い衣の残情民がゆっくりと歩き、
銀の杖で彼らの頬をなぞっていく。
杖の先が触れるたび、涙が流れる。
それは痛みではなく――命令。
悲しむことが、この国での“生”だった。
涙は水晶となり、地へと吸い込まれていく。
大地の奥で光を放ちながら、再び空へと還る。
悲しみはこの国の呼吸であり、循環そのものだった。
ルーファが堪えきれず、声を漏らす。
「ひどい……こんなの、悲しみの檻じゃないか」
彼女の声は風のように震えていた。怒りではなく、痛みの響きだった。
イリスは目を伏せた。
「けれど、均された世界では――“感情”はいつだって檻になる」
その声は静かだったが、ほんのわずかに震えていた。
灰の風が通り抜ける。
街の遠く、涙晶宮の頂でひと筋の白光が走った。
イリスが顔を上げる。
それはまるで、誰かの泣き声に呼応するようだった。
「悲しみを赦す国。
けれど、赦されることを知らない人々の国」
その瞳に、一瞬だけ“痛み”が走る。
「アッシュ、記録を」
「了解。
観測開始――対象:悲哀律国エレリア。
情動波、第一層より解析開始」
アッシュの声が淡く響く。
《ノルディア》が起動し、世界の表層が記録されていく。
ルーファはその光を見つめながら、呟いた。
「……涙の下に、何があるんだろう」
イリスは答えず、ただ空を見上げた。
灰と涙が混ざる空に、ひとつの蒼い光が浮かんでいる。
――それが、悲哀の王ミラ・アルメリアの涙だった。




