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調律の巫女イリス

― 世界が再び息をする、その最初の音 ―


灰よ、いまも世界を包め。

風は息を忘れ、

音は名を失い、

祈りは土に沈む。


それでも――りつは残る。

無の底、微光びこうひとつ。

鼓動ではなく、

言葉でもなく、

ただ「りたい」と震える、光のしずく。


白銀の髪、灰を裂き、

無色の瞳、世界を映す。

ひとつは理を抱き、

ひとつは無を宿す。


ふたつのおと、交わるとき――

沈黙は旋律に変わる。

灰の海に、最初の音が降り、

世界が息を取り戻す。


聴け。

これはまだ、名を持たぬ歌。

だが確かに、風が呼び、

灰が応え、

光が――調しらべを結ぶ。


灰より生まれ、

無より響く。

その名は、

黎明れいめい――

すべての音は、ここから始まる

灰が、降っていた。

風は吹かず、音もなく、ただ空だけが沈黙のまま凍りついている。

その沈黙は、世界が死を受け入れた“安らぎ”ではなく、

まだ何かを見つめている――そんな“息づく終焉”の気配だった。


灰の粒はゆっくりと空を漂い、地に触れ、また舞い上がる。

ひとつひとつが色の記憶を宿していた。

かつて“紅”と呼ばれた激情の残滓。

かつて“蒼”と呼ばれた悲哀の名残。

かつて“翠”と呼ばれた希望の幻影。

それらは燃え尽き、冷え固まり、

もはやどの色にも還れないまま、ただ“灰”として世界を覆っていた。


人の影は見えなかった。

鳥も獣も声を失い、

川は流れながらも歌わず、風は方向を忘れた。

街の石畳にはひびが走り、

かつて灯を掲げた家々は、黒い骨のように立ち尽くしている。

世界は、感情を喪ったあとの静寂に沈んでいた。


それでも――どこかで、かすかな“律”が息づいていた。

灰の底で微かに光る、名もなき呼吸。

その鼓動に呼応するように、一本の塔が立っていた。

《調律の塔》。

かつて八つの国をつなぎ、

世界の感情を統べるために築かれた“秩序の象徴”。

その白亜の外壁は亀裂に覆われ、

表層を走る符文が淡く明滅していた。

まるで死を拒むように、まだ心臓が鼓動しているようだった。


その塔の足元――

灰の眠る大地の上に、ひとりの少女が立っていた。


その手には、ひと筋の光。

《ルミナリア》。

かつて少女と共に創られた、調律の杖。

世界を均すための理の杖であり、同時に、彼女自身を縛る枷。

触れるたび、冷たい光が掌を刺す。

それでも手放せないのは、そこに“誰かの祈り”が残っているから。


白銀の髪が、光のない空の下で微かに揺れる。

風もないのに、髪はふわりと浮かび、

灰をはらうように柔らかな光を返す。

その光は、かつてこの世界が持っていた“色彩”の最後の残滓のようだった。


彼女の名は――イリス。

“色彩の調律者”にして、“断彩の魔女”。

灰色の世界を“均す”者にして、かつて感情を封じた巫女。

理性だけを生きる存在。


だがその理性の奥には、

誰の記憶でもない“痛み”が潜んでいた。

世界を救うたび、何かを失ってきた記憶。

それを“誤差”として切り捨てるたびに、

胸の奥のどこかが、微かに軋んでいた。


彼女の肌は雪のように白く、

冷たい陶器のような静けさをまとっている。

その静謐は美しさと同時に、

人としての温度を奪い去っていた。

瞳は紫の深淵。

光の角度によっては、金にも蒼にも変わる。

その一瞬の変化こそが、

彼女の中にまだ“人間”が息づいている証だった。


しかし、イリス自身はそれを望まない。

感情は、世界を壊す“炎”。

それを封じるために生まれた自分が、

その炎を宿しているなど――許されぬ矛盾だった。


塔の前に立つと、灰が舞い上がり、彼女を迎えるように円を描いた。

その軌跡に、消えかけた光が淡く残った。

その感触に、イリスは一瞬だけ目を伏せた。

風のない世界で、それは唯一、まだ“触れる”ことのできる温度だった。


塔の扉に手を触れる。

音はしない。

ただ、空気がわずかに震え、塔全体が低く唸る。

壁に刻まれた符文が一斉に光を放ち、

その光が彼女の肌を撫でていく。


「……まだ、生きているのね。」


呟きは祈りでもあり、呪いでもあった。

イリスは扉を押し開ける。

塔の内部には風も音もなく、

ただ時間だけが凝固していた。


壁一面に走る古代の符文。

それらは呼吸のように明滅し、

まるで塔そのものが何かを思い出そうとしているようだった。

イリスは螺旋階段を登り始める。

一歩進むたび、灰の粒が舞い上がり、

それが光に触れては一瞬だけ色を取り戻す。


――青。

――紅。

――翠。


世界がかつて持っていた色が、

ほんの一瞬、灰の中で息を吹き返す。

だが、すぐに消える。

その繰り返しが、彼女の胸に痛みを刻む。


(痛みは、まだ世界が息づいている証。)


塔の階段を上りきると、

そこに広がっていたのは、

静寂という名の聖域だった。


天井は見えず、

壁は光の波に溶け、

中央には巨大な結晶が浮かんでいる。

《感情のコア》。

世界の感情を封じた八つの光の核。


かつてこの光は、世界中に色をもたらしていた。

だが、いまは白く濁り、

内部で何かが軋んでいる。


イリスは結晶の前に膝をついた。

指先で空気をなぞると、

魔法陣が音もなく広がり、床一面を覆う。

光の波紋が広がり、塔の中の空気が震えた。


「……また、歪みが生じている。」


声は澄んでいたが、わずかに震えていた。

理性の奥で押し殺した“悲しみ”が、

微かな揺らぎとして滲み出ている。


結晶の奥では、八つの影が蠢いていた。

怒り、悲哀、恐怖、歓喜、希望、信頼、嫉妬、嫌悪。

封印された《八王》の残滓。

彼らは再び、世界へ戻ろうとしていた。


「封印が……緩んでいるのね。」


イリスは目を閉じる。

意識を深く沈め、世界の底を覗く。

そこは、光も音も届かぬ“虚無”。

感情が眠る海。

かつて世界が壊れた夜の記憶。


(あの夜、私は感情を封じた。

 けれど、それでも世界は泣いていた……)


冷たい痛みが胸を刺す。

それは記憶の痛み。

そして――人間の痛み。


瞳が一瞬、暗紫に染まる。

恐怖。

だが彼女はそれを押し殺す。

(恐れは不要。私は器。理性の巫女。)


結晶が強く脈動する。

塔の天井が軋み、光が乱れる。

封印が限界に近づいている。

世界が再び“色”を取り戻そうとしていた。


だが、それは救いではない。

過剰な感情は、世界をまた焼く。

だから、イリスは再び調律を行わねばならない。


「私は、理性の器。感情を鎮める者。」


その声は祈りのように広がり、

塔の壁を震わせた。

灰の粒が天へ舞い上がり、

その中でわずかに光が走る。


イリスの頬を、一筋のものが伝った。

それは涙。

彼女は気づかない。

ただ、指先に残る温度が、

失われた人間の感情を思い出させた。


その瞬間、塔の符文がわずかに明滅した。

まるで彼女の涙が、塔そのものに“記憶”を流し込んだようだった。


「……世界は、まだ終わっていない。」


その言葉とともに、

塔の光が一度だけ強く輝いた。

灰が風に溶け、

静寂の世界に、かすかな色が戻る。


だがそれも束の間、再び光は閉ざされた。

塔は息を潜め、世界は灰の眠りに沈む。


それでも――

彼女の胸の奥で、小さな鼓動が確かに鳴っていた。

それは、世界の残響か、あるいは、彼女自身の心の音だったのか。


それは、誰かの心臓の音に似ていた。

けれど彼女は、その名を知らない。

ただ、その“名もなき鼓動”こそが、

彼女がまだ“人間”である唯一の証だった。


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