涙の女王
― 世界が涙を知る、その最初の祈り ―
蒼き空よ、いまも沈め。
涙は記憶を映し、
声は祈りに還り、
風は静かに、その跡を撫でる。
悲しみは滅びではない。
それは、消えたものを抱きしめる力。
失われた日々の温度が、
いまもこの世界の底で揺らめいている。
――それでも。
涙が流れ続ける限り、
世界は過去に囚われる。
祈りは鎖となり、
記憶は風を縛る。
だから理は、涙を均す。
誰かの痛みを、誰かの赦しで覆うために。
泣くことを忘れた世界に、
もう一度“沈黙”を与えるために。
聴け。
これは、泣くことを許された最後の歌。
哀しみは流れ、やがて調べに変わる。
赦しの灰のあとに、悲哀の雨が降る。
その名は、
レクイエム。
いま、涙が世界を調える。
風が止み、涙が吹いた。
灰の空が終わりを告げてから、どれほどの時が経ったのだろう。
風は沈黙を手放し、代わりに“嘆き”を覚えた。
その嘆きがかたちを持つとき、
人は涙を流し――それが、この国の礎となった。
ここは悲哀律国エレリア。
悲しみを糧に生き、涙をもって祈る国。
石造りの街路には、水晶のような“涙”が細い川となって流れ、
それを集める塔が幾千と並び立つ。
夜になると、塔の内部に蓄えられた涙晶〈るいしょう〉が淡く輝き、
その光が空へと昇り、悲哀の雲を静かに染めていく。
塔の最上層――涙晶宮〈ルメン・アーク〉。
エレリア中の涙が最後にたどり着く、高さの頂〈いただき〉。
そこに座すのは、かつて八王のひとり、悲哀を統べる者――ミラ・アルメリア。
王は今日も泣いている。
白い衣が涙で重く沈み、指先から光る雫がぽつり、ぽつりと零れ落ちる。
その涙は、ただの感情の残りではない。
国家を満たす悲哀律の根源――世界を均すための“悲しみの循環装置”だった。
彼女の瞳は、かつての澄んだ蒼を失い、今は深い瑠璃に沈んでいる。
泣くたびに世界が安定し、笑うたびに世界が軋む。
それが、この国の仕組み。
下層の街では、均された民――調律民が整列していた。
彼らは感情の揺らぎを奪われた、静かな人々。
日々の呼吸は乱れず、泣きも笑いもしないよう“調律”された民だ。
けれど、上層に住む残情民は、その静けさを罪と呼ぶ。
「揺らがない心は、世界を支えない」と信じ、
彼らの胸に、意図的に悲しみを生み続けている。
涙を流せない者は、無涙民〈むるいびと〉と呼ばれる。
揺らぎを抑え込まれた胸のまま、ただ均された呼吸だけを繰り返す人々。
その中から、ときおり――
名と感情そのものを失ってしまう者がいる。
彼らは、喪失人と呼ばれた。
涙を流すこともできず、ただ泣くための器として並べられる者たち。
その姿を、残情民たちは“慈しみの象徴”と称え、
自らの涙の尊さを量るための鏡のように眺めていた。
それが――エレリアの平穏の代償。
ミラ・アルメリアは、その光景を静かに見下ろしていた。
頬を伝う雫を拭いもせず、ただ受け入れる。
その涙は哀れみではない。
世界への祈りであり――同時に、この国を握る“支配”の証でもあった。
「世界が私を悲しませる。
だからこそ、私は世界より深く泣く。」
誰に向けたわけでもない、低い声。
けれど、塔全体がその言葉に呼応するように微かに震える。
涙晶が脈動し、街中を走る水脈が、同じ高さで共鳴した。
子が泣き、母が嗚咽し、街全体が“ひとつの泣き声”となる。
そのすべてを、王は静かに受け止め、ゆっくりと瞼を閉じた。
「泣くことを恐れなければ、世界は潤う。
悲しみは赦し。
涙は、世界がまだ生きているという証なのだから。」
彼女の声が響いた瞬間、
塔の天井から無数の光の雫が降り注いだ。
それは雨ではない――“涙の還流”。
空へと還り、また地へ落ち、悲哀が循環を続ける。
その光景は美しく、そして、どこまでも冷たかった。
ミラは、ほんのわずかに微笑んだ。
「さあ――今日も、世界に涙を捧げましょう。」
合図とともに、涙晶が澄んだ音を立てて砕け、白光が広がる。
その瞬間、エレリア中の鐘が一斉に鳴り響いた。
それは“祈り”ではなく――“供給”の合図。
人々は泣き、塔は輝き、
国全体がひとつの悲哀の調律器として動き始める。
その最上に立つ女王の瞳には、
悲しみも誇りも映らない。
ただ、“美しき悲哀”の光だけが、静かに揺れていた。




