ナールとの戦い③
金と翠の光が空に散ったあと、灰の大地は深い静寂に沈んでいた。
イリスとナーファの共鳴律の余波が消えゆく中、
黒の王――ナールは、片膝をついていた。
その身を覆う黒霧は千切れ、形を保てず脈打つ。
裂けた胸元からは“恐れの霧”が滲み、風に焦げるように散っていく。
だが、瞳だけはなお深淵の色を宿していた。
「……感情の律で、私を揺らがせるとはな。」
その声は低く掠れていた。
「だが、“理なき光”では恐れを滅ぼせぬ。お前たちは、恐れの定義を知らない。」
イリスは杖を構えたまま、無言でその言葉を受け止めた。
紫銀の瞳はわずかに揺れるが、もはや感情の色はない。
「……定義の外でさえ、恐れは存在する。
ならば――理の枠で“静める”まで。」
アッシュの視界が、淡い白光に満たされた。
ノルディアの中枢が反応し、空間演算式が自動展開する。
その光は音のない祈りのように静かに瞬き、世界の秩序をひとつずつ織り直していった。
彼の声は、静かでありながら、どこか“始まり”のような響きを帯びていた。
「――観測域、全系統展開。ゼロ・モード、起動。」
幾何光が灰の大地に刻まれ、空間の座標が再構築されていく。
時間が滲み、光が捻じれ、現実の膜が呼吸する。
それは理の律動そのもの――沈黙の中で息づく“調律の前奏”。
ナールが立ち上がる。
足元の影が広がり、空が歪んだ。
世界そのものが、彼の呼吸に合わせて軋む。
「恐律第五階位――《虚界》。」
その名を告げた瞬間、
祈祷塔の残骸が反転し、灰の大地が裏返る。
世界が“恐れ”の心象構造に変わる。
重力は崩壊し、上も下もなく、すべてが影の律に引きずり込まれた。
アッシュが一歩前へ出る。
「空間変異確認。理構造、崩壊率七十六パーセント。」
ノルディアが展開され、数千の光式が立ち上がる。
その一つひとつが空間を支える“理の杭”だった。
「……理で空を固定しようとするか。」
ナールが指先をひと振りすると、杭は黒に染まり、
恐怖の波動が理の構造を食い破っていく。
「理は恐れの前で沈む。秩序は脆弱だ。」
アッシュは応じない。
ノルディアの光が瞬き、白銀の陣形が反転する。
「理構造、再演算。――観測域、自己中心に固定。」
足元の灰が反転し、世界の上下が消える。
アッシュの身体は、世界の座標そのものと同期した。
観測と存在が重なり合う――“ゼロの演算領域”。
ナールの黒剣が唸る。
刃が虚空を裂き、“恐れ”の断層を生む。
その軌跡が触れた場所はすべて、音を失い、存在を忘れる。
しかしアッシュは、観測を断った。
「観測――遮断。」
世界が一瞬、無呼吸となる。
音も重力も、命の輪郭さえ凍結した。
彼の輪郭が崩れ、存在が“ゼロ”へ近づく。
視覚も質量も剣速も――すべての定義を放棄した“無の動き”。
ナールの刃は虚空を裂いたが、そこに“アッシュ”は存在していなかった。
次の瞬間、ノルディアの白光が背後から閃いた。
「……ゼロの観測、完了。干渉、再定義。」
白い刃が黒を断ち、時間が跳ね返るように空が震える。
ナールの腕が裂け、黒霧が飛散した。
だが、ナールは笑っていた。
「理で私を封じようとするか。愚かだ――“無”もまた恐れの影だ。」
その声が響くたびに、虚界が軋む。
空間の継ぎ目が悲鳴を上げ、灰の層が波紋のように反転した。
「――恐れは死なぬ。恐れこそが、理を創る!」
ナールの叫びとともに、影が爆ぜ、黒の奔流が押し寄せた。
世界の座標が歪み、時間が軋む。
虚空が燃え、街が再び“恐怖の律”に覆われる。
その瞬間――風が、再び歌った。
翠の光が灰を巻き上げ、風が世界を縫い合わせる。
ルーファの声が届く。
「イリス、今――」
イリスが頷く。
「理の均衡、保持。アッシュ、行って。」
アッシュがノルディアを掲げる。
「調律開始。観測域、全系統収束。――ゼロ・モード、最終展開。」
ナールが吠える。
「終わらぬ理こそ、恐れの源だ!」
その手が再び黒剣を呼び寄せた。
もはや刃ではなく、“恐れの凝縮”そのもの。
世界を斬るための剣――存在の境界を断つための最後の意志。
ナールが咆哮する。
「ならば――恐れごと、この世界を飲み込め!」
黒剣が振り下ろされ、空間が音もなく裂ける。
時間が滲み、光が崩れる。
だが、その中心に立つアッシュは、微動だにしなかった。
「存在式、再定義。恐れ――観測の内に還す。
観測結果、ゼロ。
恐怖は滅せず、静寂として世界の基調に融ける。」
ノルディアの白光が奔り、黒剣を包み込む。
光と闇が一瞬交錯し、世界が反転する。
黒は形を失い、ナールの腕から崩れ落ちていった。
ナールの叫びが、世界を貫いた。
「終われ――理の器ッ!!」
その声に呼応するように、虚界が震え、闇の層が波紋のように広がる。
だが、それを呑み込むように、アッシュの声が重なる。
「……終焉――否定。
これは、“静寂の再調律”。」
ノルディアが閃光を放ち、世界が白に満たされる。
音が消え、風が止まり、すべての“恐れ”が静寂へと溶けていく。
ナールの影が崩れ落ちる。
その唇が、最後に微笑んだ。
「ゼロの調律……その静寂が、やがてお前たちを喰らうだろう。」
光が世界を満たした。灰が燃え、風が還る。
恐れは静まり、ただ“呼吸”だけが残った。
アッシュの視界に、世界の数値が零へと収束していく。
ノルディアの中枢が静かに明滅し、すべての演算式が一つの結果を示した。
「――調律完了。対象、封印安定。恐怖波、静止。」
声は無機質でありながら、そこに微かな“安堵”の律が混じっていた。
理の器であるはずの彼が、わずかに息をついた。
それは、人ではなく“調律そのもの”が呼吸を覚えた瞬間だった。
イリスが膝をつき、ルミナリアを支える。
紫銀の光がかすかに脈動し、静寂の中で安堵の息を吐く。
ルーファが隣で空を仰ぎ、風の鼓動を聴いた。
「……風が、泣いてる。」
イリスは静かに目を閉じる。
「泣いていい。
風が生きている証だから。」
アッシュがノルディアを降ろす。
その白銀の核が、かすかに脈を打った。
それは感情ではなく――“理の震え”。
その奥で“何か”が――かすかに、息づいていた。
名もなく、まだ形もない“影の律”。
世界が均された後に生まれる、静かな歪み。
誰も気づかぬまま、それは世界の底で、確かに息づいていた。
――それは、まだ言葉を持たぬ“新たな律”の胎動。
けれどこの時、誰一人、その鼓動の意味を知らなかった。




