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恐律の王

風が死んだ。

灰の夜が静まり返り、世界の音が一瞬で途絶える。


崩れた祈祷塔の頂に、“それ”は立っていた。

形は人に似ている――だが、どこを見ても“顔”がない。

闇が輪郭を保ちながら、絶えず脈打っていた。


歩くたびに地が震え、灰が脈を打つ。

それは呼吸でも、鼓動でもない。

“世界そのものが怯える音”だった。


足元から影が這い出す。ヴァルド。

調律の光に焼かれ、もはや人ではなくなった男。


彼は崩れた石の上に膝をつき、血を吐きながら、

なおその存在に縋るように声を発した。


「……お目に……かかれて……光栄……に、ございます……」


掠れた声。もはや言葉ではない。

だが、“それ”は確かにその音を聞き取り、ゆっくりと足を止めた。


顔なき影が、ほんのわずかに首を傾ける。

表情がないはずなのに、その仕草だけで――圧倒的な冷酷さがあった。


『恐怖が見えぬ眼は、抉ればいい。』


ヴァルドの瞳から光が消える。

悲鳴も出せず、身体がわずかに痙攣する。


『恐怖の律が聞こえぬ耳は、剥がせばいい。』


風が止み、音が消える。

鐘も、灰も、息さえも――世界から切り離された。


『恐怖を叫ばぬ口は、潰せばいい。』


沈黙。

その一瞬のあと、ヴァルドの姿は塵となり、灰と共に風に還った。


“それ”は何も言わない。

ただ、灰の上に立ち、顔のない“虚”で空を見上げた。


風が震える。

祈りの塔の残骸が鳴る。

それは誰かの嘆きか、世界の律そのものか。


そして――“それ”がゆっくりと振り向く。


崩壊した街の向こう、灰の風を切り裂いた先にイリスの姿があった。

手にした白銀の杖が淡く光り、その輝きだけが――この夜に残された“理”だった。


アッシュは一歩、イリスの背後で静止する。

ノルディアの透光板が自動展開し、観測波を拡散する。


「恐怖波……異常反応。波形、感情域を超過。」


それは冷静な報告――だが、その声には僅かなノイズが混じっていた。

ルーファの風が震え、その揺らぎを感じ取る。


「……風が、泣いてる。」

それは彼女だけに聞こえる“内なる風”の声だった。


けれど――外界は沈黙していた。

恐怖の律が空を縫いとめ、風は世界から閉ざされている。

灰の静止の中で、二つの存在が対峙した。


イリスの唇が微かに動く。

「……ナール。」


その名が形を与える。

恐怖という抽象が、“輪郭”を得た。


黒い霧が凝縮し、やがてひとつの影となる。

そこに立つのは、端正な顔立ちの男。

長い漆黒の髪が風に揺れ、深淵のような瞳がゆっくりと開かれる。


その眼差しに“怒り”も“慈悲”もない。

あるのは、ただ恐怖という名の絶対的支配。


その顔はあまりに整いすぎていた。

微笑とも無表情とも判別できぬ不気味さがあった。


それは、名に呼び起こされた“恐律の王”――かつての八王一柱の姿だった。


「……久しいな、調律の巫女。

 恐れの名を呼ぶ声を、再び聞くことになろうとは。」


風が止み、灰が静止する。

その声は音ではなく、“恐怖そのものの形”だった。


しかし、その圧はかつてイリスが対峙した時のものとは違う。

重くはあるが、どこか欠けている。

八王としての核を失い、肉体も魂も完全ではない。

だが、封印の裂け目から零れ落ちた名の残響が、いま形を成している。


けれど、その欠けた部分がむしろ、恐怖だけを純粋に濃縮させていた。

それは“力”ではなく、“概念”としての恐れ。

不完全であるがゆえに、歪で、そして――ひどく美しかった。


イリスは静かに杖を握る。

「……分体、ね。本体はまだ“眠っている”。」


ルーファの風が、その言葉をなぞるように揺れた。

息を潜めていた風が、わずかに“再び息をした”。

それは恐れでも拒絶でもなく、記憶の呼吸だった。


ナールの視線がわずかに傾く。

「私の一部――それで十分だ。封印の隙間は、すでに息をしている。」


その顔が、かすかに歪む。

風の底で低く笑う声。


「……だが、貴様もまた、以前の“完全なる調律者”ではないようだな。

 あの夜、私を封じた時のような恐れが――もう感じられぬ。」


「あの夜、お前から放たれていた調律の波は、理と感情が完璧に均衡していた。

 今は違う。……理の奥に、微かに“痛み”が混ざっている。」


イリスの瞳が淡く揺れる。

紫銀の奥に、一瞬だけ暗紫が閃く。

それは動揺でも恐怖でもない。

痛みに似た――微かな情の波だった。

彼女はそれを認めたくないまま、杖を握り直した。


アッシュがルミナリアの背後から、静かに観測を続けていた。

「観測値更新――恐怖波、律外領域に到達。対象:人型、識別困難。」


彼の解析は冷静だが、演算の一部が乱れている。

理で構成された存在に、計算不能な“感情のノイズ”が走った。

それは恐怖ではなく――未知に対する“生”の反応だった。

彼の中で、計算では説明できない“心拍”のような律が生まれていた。

それが痛みなのか、熱なのか、彼自身にもわからなかった。


ナールの視線が、イリスの背後に立つアッシュを捉える。

「……ふむ。なるほど。

 これが今の“お前の希望”か。

 完全なゼロに最も近い器――それを使って、また同じ過ちを繰り返すつもりか。」


ナールは静かに歩み出る。

大地がその足音に呼応し、灰が浮く。

歩くのではない。世界そのものが、彼の存在を“受け入れている”。


「……だが、奇妙だ。恐れがない。完全な空虚――なのに、どこか“生”の匂いがする。

 無を宿す器……ふふ、矛盾こそが最も恐ろしい。」


ナールの声が灰を撫でた瞬間、風が震えた。

その震えは冷たさではなく、痛みに似た波――

“風律”が、何かを守ろうとするようにざわめいた。


ルーファはその波の中で息を詰める。

胸の奥に、アッシュの“無”が呼応するような微かな律動を感じた。

風と心が同じ速さで脈打ち、彼女の口が衝動のように動く。


「やめて……彼を“恐れ”で量るな!」

それは、彼を“理”でも“力”でもなく、“息づくもの”として見ていた少女の叫びだった。


その叫びは風と共に迸り、祈祷塔の残骸を鳴らした。

世界の灰層が一瞬だけ揺らぎ、見えぬ光の波が走る。

それは感情でも魔力でもない――風律そのものの“拒絶の律動”。


ナールは微笑すら浮かべず、その風を見つめた。

けれど、彼の周囲の闇が一瞬だけ歪み、輪郭が震える。

恐怖の律と風律の波が、初めて真正面から衝突した。


イリスの指先がわずかに動く。

ルミナリアの光が反応し、ナールの言葉を遮るように空気を震わせた。

「彼は――理の欠損を補うための“器”よ。」


「器、か。……ふふ、そう呼ぶには、あまりに人間臭い。」


ナールはゆっくりと顔を傾けた。

その動きは優雅で、同時に残酷だった。

あらゆる命の終わりを見届ける者の所作。


「その器は、完全ではない。

世界を“消す”ほどの理には届かぬ。

ゼロに近くとも、そこには――微かな“揺らぎ”が宿っている。

……つまり、お前の理もまた、澄み切ってはいない。」


声が低く沈む。

風がひとつ、重く脈を打つ。

その声音は、まるで世界そのものが語る“律”だった。


「私は世界が恐ろしい。

 だからこそ――私は世界より恐ろしい。」


その唇がわずかに歪む。

笑っているのか、苦しんでいるのか、判別すらできない。


「恐怖が見えぬ眼は、抉ればいい。

 恐怖の律が聞こえぬ耳は、剥がせばいい。

 恐怖を叫ばぬ口は、潰せばいい。

 そうして世界に“秩序”を与えた。

 ……それがお前の言う理と、どこが違う?」


沈黙。

イリスの杖が、かすかに震える。

風が止み、灰が浮遊する。


その灰が光を受け、ゆっくりと螺旋を描く。

まるで、二つの思想がそこで交わったかのように。


イリスの瞳が淡く暗紫に染まる。

「恐怖は秩序じゃない。ただ、心を縛る鎖よ。」


ナールは静かに答えた。

「鎖こそが、生を繋ぐものだ。恐れがある限り、命は“終わり”を自覚できる。それこそが、生の始まりだ。」


アッシュの視界が一瞬揺れる。

理の演算が乱れ、心拍に似た律動が発生する。


ルーファはその“揺らぎ”を見て、言葉を失った。

「……風が、貴方の中で息をしてる。」


イリスの瞳がさらに強く光を帯びる。

「それはただ縛るだけのもの。

 私は“繋ぐ”ための調律を選んだ――恐れを殺すためじゃない、生かすために均すのよ。」


風が軋み、灰が泣いた。

そして、沈黙の奥で――風が、微かに息を取り戻した。

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