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調律の代償

灰の街に、静寂が戻っていた。

共鳴律が恐れを均してから、まだほんの僅かな時間しか経っていない。

それでも――風は、まるで長い眠りに落ちたかのように、息をしていなかった。


空は音を忘れ、世界そのものが沈黙に包まれている。

祈祷塔は崩れ、鐘は割れ、降り積もる灰が雪のように街を覆っていた。

そしてそこに取り残されたのは、“恐れのない人々”。


彼らは生きていた。

だがその瞳に、色はなかった。

恐怖は消え、涙も笑みもない。

ただ呼吸だけが、かろうじて“生命”を示していた。


ルーファは崩れた石段に腰を下ろし、腕の中の少女を見つめていた。

ミレナ。

その顔には穏やかな安らぎがあった。

怯えも痛みも消えたが――その奥に、かすかな“揺らぎ”が残っていた。

それはもう“恐怖”ではなく、ただ小さな風の鼓動だった。


「……ねぇ、ミレナ。今、何が見えるの?」

少女はゆっくりと瞬きをした。

その瞳は、まるで曇り空のように淡かった。

「……風が、静か。怖くないの。」

その声には起伏がなかった。

けれど、確かに生きていた。


ルーファの胸が締めつけられる。

「……それが、生きるってことなの……?」

風は答えなかった。

ただ、少女の髪を撫でるように通り抜けた。


少し離れた場所で、イリスが立っていた。

ルミナリアの光は、ほとんど消えている。

髪に灰が積もり、白銀の瞳が薄く光を映していた。


「……結果は安定。恐怖波、完全沈静化。」

アッシュの報告が静寂を破る。

イリスは小さく頷いた。

「そう。封印は保たれた。」

その声は、理としての確認に過ぎなかった。

けれどその胸の奥で、微かに痛みが走った。

風が静まったというのに、世界のどこかで泣き声が響いている気がした。


ルーファが立ち上がる。

「イリス……あの“風の試練”を覚えてる?」

イリスの瞳が、かすかに動いた。


ルーファは続けた。

「あのとき、風は貴女を試してた。

“心を閉ざした調律者”か、それとも――もう一度、風と話せる人なのか。

私は、風が貴女の中に“色”を見たって感じたの。」


その言葉が胸を突いた。

イリスは答えようとしたが、喉の奥に小さな熱がせり上がり、言葉にできなかった。

風は確かにあの日、彼女に問いを投げかけていた。

だがその声を聴く勇気を、彼女はまだ持てなかった。


イリスはルミナリアを見つめ、微かに息を吐く。

「……それでも、私は“均す”しかできない。

感情を抱けば、また世界は軋む。

だから私は、風を沈めた。」


ルーファが首を振る。

「違うわ。風は“沈められた”んじゃないの。

 貴女に触れて、歌を思い出そうとしてた。

 でも――その声を、また閉じちゃったの。」


イリスの表情が一瞬だけ揺らぐ。

白銀の瞳が、淡く紫を帯びた。

その光の中で、ルーファは確かに“揺らぎ”を見た。


「……私は、風の声を聴いた。

“恐れ”を均す時も、“悲しみ”を断つ時も。

けれど――風は、いつも私を責めなかった。」

イリスの声はかすかに震えていた。

「それでも、風は私を赦してくれたの。」


ルーファはその言葉を静かに受け止めた。

「赦されたんじゃない。

風は、貴女にまだ“耳を貸して、生きてほしい”だけ。」


イリスの肩がわずかに震える。

そのとき、遠い記憶の中で――風が“笑った”あの日の音が、確かに蘇った。

あの丘の上で、ルーファが言った言葉。

『風が笑った。やっぱり、貴女たちは違う。』

沈めたはずの心が、微かにその響きに応じて震えた。


二人の視線が交錯する。

白銀と翠。

理と感情。

そしてその間に、灰の風がそっと吹いた。


「……もしも風が、また歌いたいと願ったら?」

ルーファの問いに、イリスはわずかに目を伏せる。

沈黙の中で、彼女の髪が揺れ、瞳が再び光を帯びた。

紫銀の奥に、ほんの一瞬――淡い翠が灯った。


風が、かすかに歌った。

それは“赦し”ではなく、“願い”の音。

けれどその端で、ほんのかすかに――風が、笑った気がした。


……だがその笑みは、どこか震えていた。

沈黙を破ったのは、アッシュの声だった。

「異常反応、感知。恐怖波、再上昇。発生源――街中央、祈祷塔跡。」


イリスが顔を上げた。

「……封印が、逆流している?」


灰の風が再び吹いた。

その風は――確かに、生きていた。


祈祷塔の根元で、黒い亀裂が走る。

地が鳴り、影が滲む。

そこから、何かがゆっくりと“こちらを見ていた”。


ルーファが息を呑む。

「……風が、怯えてる。」


イリスは杖を構えた。

その瞳にはもう迷いはなかった。

風が、息を止めた。

世界そのものが“何か”の名を聞くことを恐れたように――空が沈黙する。

灰が舞い、光が収束していく。音が遠のき、白から蒼白を経て、薄翠の息を帯びる。


イリスの唇が静かに動いた。

その声は祈りでも呪いでもなく、“理そのものの宣告”だった。


「――《ナール》。」


その名が発せられた瞬間、

大地が震え、街の残骸に埋もれていた“影”がわずかに脈打った。

恐れが形を探し、風が震えながら呼吸を取り戻す。


彼女の髪が揺れ、瞳の奥で紫銀の光が一瞬、淡く揺らめいた。

「……風が、応えた。」


その囁きに呼応するように、

遠い空の底で“何か”が目を開ける。


――世界の鼓動が再び、恐れを刻み始め

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