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恐怖の果て

風が街を抜けた瞬間、空気の律が一拍乱れた。

ヴァルドの目が揺れた。

「なっ……恐れを感じぬ、だと……?」

その声に、微かな“恐怖”が混じった。


アッシュは首をわずかに傾げた。

「恐怖――定義、反応値ゼロ。意味、再確認不能。」

その声は機械のようでいて、どこか静かな悲しみを孕んでいた。

ヴァルドはその瞬間、悟った。

自分が最も恐れているのは――“恐れを知らぬ者”だった。


「恐れを知らぬ者……それが、お前たちの“神”か。」

低く漏れた声が、いつの間にか笑いに変わる。

「ならば見せてやろう――恐れが神をも喰らう瞬間を。」


ヴァルドが手をかざし、黒い波動が地を這う。

「畏れよ、脈を打て/影の底で名を得よ。

 秩序の鎖を我が声に結び/すべての心に、哭きを植えよ――」

「恐律魔法・第三階位《侵蝕相:脈哭エルド》。」


恐怖の魔法がアッシュを包む――だが、波動は空気に吸われるように霧散した。

ノルディアの共鳴が光を返し、アッシュが無表情のまま短く報告する。

「感情干渉、無効化。恐怖波――中和。」

ヴァルドの喉が鳴る。

「恐れぬ者など存在しない……いや、貴様は“恐れを喰らう”側か。」

イリスの声が落ちる。

「アッシュ。制圧を。」


その瞬間、空気が弾けた。

アッシュの姿が霞み、白銀の閃光が走る。

ヴァルドの黒剣が地に落ちた。

アッシュの右腕がヴァルドの喉元を押さえ、動きを封じる。

その力は冷静で、正確だった。


「……人間離れした動きだな。貴様……何者だ。」

「無の器。恐怖反応、非搭載。」

淡々とした答えに、ヴァルドの仮面の下の顔が歪む。

ルミナリアの光がゆらめき、灰色の風が三人を取り囲む。


イリスは一歩前へ進み、静かに告げた。

「少女ひとりを恐れて剣を向けるなんて――やはり、あなたは臆病者ね。」

その声音には怒りも嘲りもなく、ただ事実を告げるような冷たさがあった。

ヴァルドの肩がわずかに震え、灰が彼の足元で崩れ落ちる。

ルミナリアの白光が再び瞬き、彼女の髪を淡く照らした。


ヴァルドの仮面の奥から、押し殺した声が漏れた。

「……貴様らのような異端が、恐れを侮辱する。」

その目は狂信ではなく、怯えそのものだった。


イリスは冷ややかに見下ろす。

「恐れを力に変えた瞬間、それは理ではなくなる。」

ヴァルドの肩が震えた。

「理など、恐れの影に過ぎん!

 恐怖こそが、すべてを動かす唯一の真理だ!」


黒い靄がヴァルドの身体から漏れ始める。

それは人の魔素ではなく――“感情そのものの腐蝕”。

アッシュが感知波を開き、無機質に報告した。

「恐怖波、急上昇。感情干渉値、限界突破。暴走の兆候。」


イリスの声が低く落ちた。

「制御できていない……恐れに喰われているのね。」

ルミナリアが微かに震える。

彼女の胸元が一瞬だけ硬くなる。理性がその場を支配しようと力を込めるたび、どこかで小さな反発が返ってきた――まるで、凍らせたはずの温度が押し戻すように。

正しさだけでは救えないという感覚が、唇の奥で重くなる。――また、自分の手で誰かを失うのではないかという恐れ。


「貴様らが……貴様らが世界を汚すからだッ!」

ヴァルドの絶叫とともに、黒い波が街に拡散した。

怯えた民の祈りが歪み、鐘が悲鳴のように鳴り響く。


その場にいた調律民たちの瞳が濁る。

黒い紋が皮膚に浮かび、全身が震え出した。

「恐怖の魔法が……拡散してる!」ルーファが叫ぶ。

「彼らを操って……イリスたちを……!」


ヴァルドの叫びが重なる。

「恐れを抱け! それが人間の証だ!

 恐れよ! 震えろ! そして――服従しろッ!」


群衆が操られた人形のように立ち上がり、

震える手で石や刃物を握りしめ、イリスたちへ向かっていく。

ミレナが怯えてルーファの背にしがみつく。

「怖い……やめて……!」

ルーファは必死に彼女を抱きしめた。

「見ちゃだめ……風を、聴いて……風はまだ泣いてない……!」


だが恐怖の連鎖は止まらなかった。

恐れの波が臨界を越えた瞬間――地が鳴り、闇が裂けた。


灰の地面から、無数の腕が這い出す。

呻き、嘲り、泣き叫ぶ声。

その姿は人の形を模しながらも、どの口も“恐れ”しか語らなかった。


感情喰らい――恐律に染まった影たちが、地の底から嗤い出す。

黒い影が、祈る者・叫ぶ者の区別なく襲いかかる。

騎士団の兵が喰われ、調律民が悲鳴を上げる。

恐怖は支配を越え、理を侵食していった。


ルーファが絶望を噛み殺すように叫ぶ。

「こんなの、もう……っ!」

その横で、イリスの髪が風に靡いた。

紫銀の瞳が、一瞬だけ翠に染まる。

風が彼女の頬を撫で、その揺らぎを映し取った。


「アッシュ。民を保護。ルーファ、風の結界を。」

「了解。対象区画、制圧開始。」

アッシュが前へ出て、ノルディアの光壁を展開する。

白い線が地を走り、暴走した民と恐律喰らいの間に障壁を張った。


イリスは深く息を吸った。

その瞳には、決意と――一瞬の痛みが交錯する。

「……この“恐れ”は、もう理では抑えられない。」


ルーファが叫ぶ。

「イリス、待って! 風が泣いてるの……!

 “ミレナの心は、まだこの風の中で息をしてる”って――!」

その声は、涙ではなく祈りのように震えていた。


イリスの瞳がほんの一瞬だけ、痛みを帯びる。

だがすぐに、理の光に戻る。

「感情喰らいに感情を奪われれば、“喪失人”となる。

 そうなればもう私の調律でも人間には戻れない。

 ……これが、今できる最善。」


ルーファはミレナを抱き寄せ、涙を堪えた。

「それでも!風が、こんな結末を望むわけない……!」

イリスは答えなかった。

その沈黙が、どんな言葉よりも痛かった。


アッシュが前方で障壁を展開しながら告げる。

「防御完了。対象数、百二十六。影個体、増加中。」

ルミナリアが共鳴する。


イリスの口が、静かに詠唱を紡ぎ始めた。

「灰よ、恐れを手放し、風よ、声を還せ。

 沈黙を抱き、鼓動を解き放て。

 理の外にあってなお、

 世界を揺らすものよ――

 我が声に、応えよ。」


そして、杖を掲げる。

「――調律魔法・第三階位《共鳴律:エリュシオン》。」


光が爆ぜた。

街全体が白光に包まれ、風が音を失った。

恐律喰らいの影が消え、暴走した民が崩れ落ちる。

祈りの鐘が割れ、灰の雲が空に散った。


音が消え、風の流れがひとつ途絶える。

それは、世界がほんの一瞬――呼吸を忘れた音だった。


ルーファの視界には、風が見えなかった。

空気はあるのに、世界が息をしていない。

それが“恐れの消えた街”の姿――風が死んだ場所だった。


ルーファは腕の中のミレナを見つめる。

少女の瞳は静かに揺れていた。

恐れは消えた。けれど――そこに、かすかな呼吸があった。

彼女は生きていた。ただ、もう何も“感じない”だけ。

「……ミレナ?」

返事はあった。けれど、その声には起伏がなかった。

「……だいじょうぶ。こわくないの。」

ルーファの胸に、風が痛みのように吹き抜けた。

頬を涙が伝い、風が静かにそれを拭った。

それでもルーファは、耳を澄ませた。

風が消えても――世界はまだ、呼吸を探している気がした。


イリスの髪が風に揺れる。

ルミナリアの光が収束し、街全体が静寂に包まれた。

灰の街は均された。

だが、そこにあったのは平穏ではなく、痛みを伴う静止だった。


音が消えた街に、かすかな耳鳴りのような残響が残った。

それは、調律の余波でも、風でもない。

まるで“何か”が目を覚ます前の、呼吸の音だった。


その静けさの中、イリスの瞳が再び紫銀へ戻る。

だが、その奥にわずかな翠が残ったまま消えない。

それはルーファの風が残した微光――

理の奥で、まだ人の心が息づいている証。


風の中で、誰かが嗤う声がした。

それは恐れそのものの声。


灰の空の奥で、何かが――新たな形を得ようとしていた。

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