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恐律国ネフィル外縁

灰の風が街の外壁を削っていた。

その音はまるで、恐れそのものが呼吸をしているようだった。


三人は風の祈りの地を後にし、南方へ――恐律国ネフィルの外縁へと辿り着いた。

遠くに広がる街は、灰と黒に染まった石の迷宮。

その門には鎖の紋章が刻まれ、“恐れこそ秩序”の文字が風に削られて残っていた。


イリスはルミナリアを握り、足を止める。

「……恐怖の律。ここが、最も深く歪んでいる。」

アッシュが記録を開始する。

「感情波:恐怖優位。支配密度九八%。魔素汚染、進行。」


イリスは一歩を踏み出し、灰の門をくぐった。

その瞬間、空気の温度が変わる。


通りの両脇には、黒鉄の柱が等間隔に立っていた。

先端には眼の形をした符印――“見張りの恐怖”。

街を歩く誰もが、その目に見られるたび身を縮める。

それは物理的な監視ではなく、“恐れられている”という事実そのものだった。

灰の街全体が、見えぬ視線の中で息をひそめていた。


街は異様な静けさに包まれていた。

通りを行く者たちは皆、灰色の布で顔を覆い、目を伏せている。

家々は整然と並び、全て同じ色・同じ高さ――まるで“恐れに形を与えた都市”だった。


広場の中央では祈祷が行われていた。

黒衣の司祭が鐘を鳴らし、低く響く声で唱える。

『我ら、恐れを忘れず、秩序の中に在らん――』

人々は膝をつき、一糸乱れぬ動きで祈りを繰り返す。

その姿は、信仰というより“服従”の儀式だった。


ルーファが眉を寄せ、風を掬う。

「……この風、怯えてる。息をすることすら許されてない。」

イリスは目を細めた。

「調律民ね。恐律国は、彼らの弱まった感情に“恐怖”を植えつけて従わせている。」


「恐怖を……植える?」ルーファが振り返る。

「恐律の支配魔法。恐れを糧とする呪縛。

 恐れを抱けば抱くほど、術者の支配力が増す仕組み。」

イリスはわずかに目を伏せた。

かつて自らが封じた恐怖が、今こうして“形”を取り戻している。

理として正しいはずの調律が、感情をより強く呼び覚ます皮肉。

それでも彼女は――均さねばならない。

世界を保つために。己が“感情”を犠牲にしてでも。


イリスの声は淡々としているが、そこにわずかな嫌悪が滲んでいた。

「自らの臆病を、他者の檻に変える――まったく彼ららしい滑稽なやり方ね。」


ルーファは唇を噛む。

「恐れの全てを悪にしないで。

 でも……このやり方だけは、風も怒ってる。」

イリスは短く答える。

「恐怖は理に従わない。だから調律が必要なの。」


風が二人の間を抜け、灰を舞い上げた。

その瞬間、小さな影が通りの端を駆け抜けた。


灰色の祈祷布を抱えた少女が、怯えた目で周囲を見回しながら裏路地へと逃げ込む。

ルーファが追いかけ、膝をついて声をかけた。

「大丈夫。怖くないわ。」

少女は警戒した目で顔を上げる。

「……怖くないと、怒られるの。」

ルーファは少しだけ表情を和らげた。

「怒られる? 誰に?」

「“黒の人たち”。……祈りを間違えると、風が罰を受けるの。」

ルーファはその言葉に小さく息を呑んだ。

「風が……罰を? そんなの、間違ってる。」

少女は小さく首を振った。

「でも、皆そう言うの。」

ルーファはそっと手を伸ばし、少女の手を包んだ。

「ねぇ、名前を教えてくれる?」

少女は一瞬ためらい、囁くように答えた。

「……ミレナ。」

ルーファは微笑み、風のように柔らかく頷く。

「ミレナ。大丈夫。ここでは、風も貴女を見守ってる。」


イリスは静かに歩み寄り、杖を掲げた。

ルミナリアが光り、少女の周囲に淡い紋が浮かぶ。

「恐怖の波……人工的な注入反応。支配系魔法の残滓ね。」

アッシュが報告する。

「感情波、恐怖過剰型。制御不能域。」


ルーファはミレナを抱きしめる。

「恐れは、守るためにあるもの。

 こんな風に、鎖で縛るものじゃない。」

イリスは黙っていた。

だがその視線の奥で、確かに痛みの色が揺れた。


「……彼らは昔からそうだった。」

イリスが口を開く。

「八律国時代も、他の国々を“恐怖”で従わせようとした。

 本質は変わらない。臆病者が恐れを力に変える限り、同じことを繰り返すだけ。」


ミレナは小さく頷き、手にしていた祈祷布をイリスに差し出した。

それは恐れを刻む黒布ではなく、淡い灰に染まった布――“空白”の色。

イリスはしばし見つめ、それを受け取らずに風へ流した。

「……あなたの祈りは、まだ風の中にある。」


風へと還るその布を見送りながら、イリスの胸の奥に微かな熱が灯った。

それは理では説明できない――かつて“心”と呼ばれたものの残響だった。

ルーファはその仕草を見つめ、そっと息を呑んだ。

笑みは消え、ただ胸の奥で風の震えを感じ取っていた。


風が二人の間をすり抜け、灰を散らした。

遠くで鐘が鳴る。低く、重く、地を震わせる音。


通りの奥――黒い鎧をまとった者たちが、漆黒の馬に跨り進んでくる。

黒鉄の蹄が石畳を叩くたび、風が息を止めた。

彼らの胸には鎖と蛇の紋章――“恐律騎士団ドレッド・コーラス”。

恐れを秩序とする国の“声”にして、“影”。

その存在自体が、この街の沈黙を象徴していた。


「……恐律の騎士団。」イリスが呟いた。

アッシュが観測値を更新する。

「恐怖波、上昇。指揮官級反応、接近中。」


ルーファは無言でミレナを庇い、アッシュが前へ一歩出る。

風が止み、世界が息を潜めた――。


――恐れの街が、沈黙した。

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