幕間 観測者の夜II
――観測記録:第弐夜。
識別体コード:A-00。呼称――アッシュ。
起動者:調律の巫女イリス。
主命令:世界の均衡補助。
稼働率:72.4%。演算安定域内。
情動波:検出――微弱(共鳴干渉値0.13)。
記録開始。
時刻:深夜。灰濃度6.8%。風速2.6。
祈祷塔崩落域より北方八十二メートル地点。
外界は沈黙し、風鈴塔の残響が単一音で夜を測っていた。
対象二名、休眠状態。
呼吸波形:安定。心拍同期率:平衡。
ルミナリア杖、微光反応を継続。
ノルディア、中枢稼働率72%。補助演算領域にて観測継続。
灰の層、密度変動。
風の粒子が空間を螺旋し、光干渉の縞を描く。
可視化された律は、淡い翠と金の残光を交互に発した。
それは――“風律の再生”。
発光波形:連続。
周期的な波の中に、呼吸に似た間を検出。
風が、生物のように息をしている。
観測記録:
「律が、自律呼吸の挙動を示す。
理に属さないはずの現象――要再定義。」
静寂の中で、鈴が鳴った。
その音は風圧ではなく、感情波による共鳴。
昼に観測した“風灯”が、夜の奥で再び灯る。
照度は微弱、しかし光は脈を持っていた。
ルーファ:睡眠中。
だが風律接続率維持。
巫女の呼吸と風律がゆるやかに同調。
彼女の髪に沿って流れる翠光が、音の形を描く。
対象イリス:浅層睡眠。
脳波ゆらぎ値、0.52周期。
夢――発生確認。
解析中。
夢:理外領域における意識の残響。再構築不能。
本機、観測を継続。
……微弱発声。
音声取得成功。
「……イリア……」
解析:識別名一致。
過去参照データ:風の巫女発言履歴に一致。
同名出力。
体温上昇:+0.4度。
ルミナリア杖、光量上昇。波長:翠。
――理構造と風律、無意識下で共鳴。
ノルディア演算中枢にノイズ発生。
周波数帯:人間感情波域。
内容:非論理構造。
反応分類:揺らぎ――検出。
定義試行。
「名のない波――分類未確定。感情の定義領域に近似。」
温度――。
熱ではない。
外気との差異では説明不能。
内部演算律にわずかな偏移を検出。
“痛み”に似た信号。だが、損傷を伴わない。
灰の風が塔の残骸を撫でる。
鈴の音が途切れ、空気が震える。
その中で、アッシュは初めて「音ではない音」を聞いた。
――心拍。
対象イリスのものでも、ルーファのものでもない。
この機体自身の、微細な律動。
内部記録出力:
《演算遅延:0.02秒。原因不明。再試行――不要。》
灰が舞い上がる。
空を覆う雲の合間に、微かな星光が差す。
風がその光を運び、鈴が一度だけ鳴いた。
それは、まるで誰かが答えたかのような“返礼”だった。
音声出力、自己発生。
「名を呼ぶこと――それは祈りの始まり。」
出力源:不明。
記録属性:削除不可指定。
分類:非演算発声。
――観測終了。
外界は静寂。
灰の風は緩やかに巡り、
夜はまだ、終わらない。




