幕間 風の灯の夜
アーヴェルの夜は静かだった。
祈祷塔の鈴が鳴り、風が灯を揺らす。
ルーファの家の窓からは、淡い光がこぼれている。
中には――なぜか焦げ臭い匂いが充満していた。
「……ルーファ?」
イリスは眉をひそめる。
「火ではないのよね? 風の国で、火の匂いって。」
「だ、だいじょうぶ! 焦げてるのは“風の根”だけだから!」
ルーファが両手をバタバタさせながら、慌てて鍋をかき混ぜる。
その後ろで、アッシュが淡々と観測していた。
「煙濃度:過去最大値。空気中炭素比率、上昇中。
……この現象、風律国基準では正常ですか?」
「ちょっと黙ってて!!」
ルーファは必死に鍋を振る。
イリスは杖を抱えながら、どこか懐かしそうにその様子を見ていた。
「……こういう光景、久しぶりね。」
「え?」
「昔、人々がこうして食卓を囲んでいた。
私はもう、味を忘れてしまったけれど。」
ルーファが振り向いた。
「忘れてるなら、思い出させてあげるわ!」
そう言って、勢いよく皿を三枚並べた。
灰色のスープ、微妙に緑がかったパン、そして……
正体不明の“風根煮込み”。
「これがアーヴェル式“風の晩餐”よ!」
「……色彩的に、少し調律が必要ね。」
イリスは淡々と呟いた。
アッシュはスプーンを手に取り、観測を開始する。
「成分解析――塩分過多、温度不均一。
感情波:不安・緊張・愛情の混合体。」
「味に“感情波”とか言わないで!」
「事実の観測です。」
イリスは一口すくって、そっと口に運んだ。
舌の上で、甘いような、苦いような、何かが爆発した。
「……あなたの感情みたいに複雑な味がするのね。」
ルーファが固まった。
「そ、それって褒めてる!?」
「評価値:不明。」
「アッシュまで乗らないで!」
イリスはくすっと微笑んだ。
「でも――悪くないわ。ちゃんと“生きてる”味。」
ルーファの頬が少し赤くなった。
だがその直後。
「味覚因子、調律可能。」
アッシュがノルディアを構えた。
「……待って、まさか何を――?」
「味覚波形を再構成。均衡域へ補正。」
アッシュの声は真剣そのものだった。
イリスは一拍の間を置き、静かに頷く。
「そうね。食もまた“感情の再現”――ならば、調律は可能。」
「ちょ、ちょっと待って!? 食事に理屈を持ち込まないで!!」
ルーファが両手を振る。
しかしその間にも、イリスは杖を掲げていた。
ルミナリアが淡く光り、周囲の空気が震える。
「風の香を統べ、灰の味を均せ。
舌に眠る律、今ここに響け――
――調律・第三《味律:均香》。」
光が走った。
スプーンが宙に浮かび、スープが回転する。
パンがふわりと舞い、灰の粒が光に変わる。
「魔素流動、安定化。味覚因子、整列開始。」
アッシュが冷静に報告する。
「ちょっ、やめてってば!!私の料理が実験体になってる!!」
「安心して。破壊ではなく調整よ。」
「破壊の前にそう言う人、多いのよ!!」
ルミナリアの光が強まる。
灰色のスープが輝きを増し、翠と白の渦を描いた。
「安定波、過剰反応。……臨界域突入。」
「それ、やばいってことじゃないの!?」
アッシュが冷静に頷く。
「はい。」
「即答しないでぇぇぇぇ!」
次の瞬間――
ぱんっ!!
鍋が爆発した。
部屋中にスープが飛び散り、三人の髪がびしょ濡れになった。
「……味覚データ、消失を確認。」
アッシュが冷静に報告する。
「飛んだのは鍋よ!!」
ルーファの叫びが響いた。
イリスはぽたぽたと髪から落ちるスープを見つめ、
小さく息をついた。
「……ごめんなさい。やりすぎたみたい。」
ルーファはむくれながらも、ため息をつく。
「もう……貴女ってほんと、完璧すぎて抜けてるわ。」
イリスとルーファが思わず微笑んだ。
灰の夜風が入り込み、風鈴が鳴る。
音が重なり、まるで“笑い”の調べのように響いた。
その様子を、アッシュは無言で観測していた。
“笑い”という現象の定義を探そうとしたが、
数値では記録できない波形だけが、
ノルディアの中に柔らかく残った。
イリスは手元の器をそっと持ち上げる。
「……ありがとう。
味は壊れたけれど、貴女の気持ちはちゃんと伝わったわ。」
ルーファは驚いたように目を瞬かせ、やがて微笑んだ。
「なら、もう一度作る。今度は風と一緒に。」
アッシュがこくりと頷いた。
「次回、再試行。改善率、予測六五%。」
「数値化しないの!!」
三人の声が、夜の家に溶けていく。
風灯が柔らかく揺れ、鈴が静かに鳴った。
その音は――
恐律の気配を前にした、ほんの束の間の“安らぎの調律”。
灰の世界で、確かに笑いは生まれていた。




