試練の後に
灰の夜に、再び風が戻っていた。
まるで昼の調律の続きを奏でるように、
谷を包む空気は冷たく、それでいて柔らかかった。
風鈴塔が遠くで鳴り、風の呼吸がゆるやかに脈を刻んでいる。
イリスは丘の祈祷台の端に立ち、ルミナリアを握っていた。
杖の先が淡く光り、空気を撫でるように微震を放つ。
その光が灰を縫うように流れ、宙に浮かぶ風の粒子を照らした。
一つ、また一つ、光の筋が漂い、まるで夜空に還る風の魂のようだった。
アッシュが背後で観測を続けている。
「環境魔素、安定率九四%。感情波、鎮静。……風律、完全安定域へ移行。」
その報告に、イリスは小さく頷く。
「そう……。風が、ようやく安らげたのね。」
風が頬を撫でた。
その流れは静かで、どこか懐かしい。
イリスの髪が白銀に揺れ、夜の灯のように光を散らす。
風鈴塔の音が一瞬止んだ。
その刹那、別の声が風の奥から混ざる。
「――貴女たち、ここで夜を明かすつもり?」
振り返ると、翠の髪を揺らす少女――ルーファが立っていた。
昼の試練で見せた鋭さは消え、夜の風のような穏やかさに包まれている。
イリスは目を細めた。
「風の巫女は、眠らないのかしら。」
ルーファは微笑み、ゆっくりと首を振る。
「眠るより、話したい夜があるの。……来て、私の場所へ。」
*
谷の奥。
風が通り抜けるように作られた家がひとつあった。
壁は布でできており、ところどころに小さな鈴が吊るされている。
風が通るたびに、鈴は微かに鳴り、家全体が静かな旋律を奏でる。
ルーファが掌をかざすと、風が灯りを生み出した。
青白い光が宙に揺れ、空気を照らす。
それは火でも魔法でもなく――ただ“風”が記憶していた光。
「灰の中でも、風は灯るのよ。」
その声には、どこか祈りのような響きがあった。
イリスは光を見つめながら、穏やかに微笑む。
「……懐かしいわ。この光。」
アッシュは記録装置を起動し、淡々と分析を始める。
「風灯:魔素変換率八・一%。発光波形、感情因子共鳴型。」
ルーファがくすりと笑った。
「理屈で説明できるのね。でも、風は数字よりも“想い”で光るの。」
沈黙のあと、ルーファが小さく息を吸った。
「昼間のこと……謝りたいの。
風を、そして貴女を、試すような真似をして。」
イリスはその言葉を遮らず、静かに見つめた。
「風は試すもの。巫女としての本分でしょう。」
「でも――あの言葉、“断彩の魔女”なんて呼ぶべきじゃなかった。」
ルーファの声は震えていた。
イリスは目を伏せる。
「……その呼び名は、もう私の一部よ。
それを否定すれば、救った命さえ否定することになる。
それで救われたものも、確かにあった。」
ルーファはうつむき、絞り出すように言った。
「貴女を試したかったの。
本当に“ゼロの調律者”なのか、それとも……まだ人の心を持っているのか。」
イリスは小さく息を吐いた。
胸の奥に微かな痛みを感じながらも、その表情は静かだった。
「――答えは風が出したわ。」
理性の言葉の裏で、彼女の指がわずかに震えていた。
それを、誰も指摘はしなかった。
ルーファは灯りを見つめたまま、言葉を継ぐ。
「風が、貴女の名を囁いていた。“イリア”って。」
その名が夜の空気に溶けた瞬間、風が一度だけ止まった。
イリスは何も言わず、光を見つめ続けた。
やがて、わずかに唇を動かす。
「……風は、記録よりも正確だから。」
ルーファは静かに頷く。
「この地の古い詩に、貴女の声が残ってる。
あの封印の夜、風が貴女の歌を運んだって。」
イリスは眉を寄せた。
「それは封印の詠唱――私にとってはただの“終わり”の歌よ。」
「でも風にとっては“希望”だった。
貴女が世界を閉じたあの夜、風だけはまだ祈ってたの。
“いつか、また色が戻る”って。」
ルミナリアが淡く脈動する。
その光は白から少しだけ翠を帯びていた。
イリスはその色を見つめ、短く呟いた。
「……風は、優しすぎるのね。」
静かな時間が流れる。
風灯がひとつ、ふっと明滅した。
ルーファが立ち上がり、イリスを見つめる。
「私も行かせて。
風が言ってるの、“この旅の終わりに、歌が生まれる”って。」
イリスはその瞳を見返した。
「風が……未来を語るのね。」
ルーファは頷く。
「風は心の温度で世界を読むの。
貴女の風はまだ冷たいけど、その奥に色が見える。」
イリスは黙ってルミナリアを見た。
白銀の杖の表面に、翠の光が反射して揺れる。
理性が警鐘を鳴らしていた。
調律の均衡は、外的な“揺らぎ”を排してこそ保たれる。
感情はノイズ、優しさは歪み――それが彼女の信じる“正解”だった。
だが、その一方で胸の奥に生まれた微かな痛みが、
冷たい光の中で小さく脈を打っていた。
もしもこの少女の存在が、わずかでも自分の調律を乱すのなら――
それは恐れではなく、もしかしたら“色”なのかもしれない。
彼女の声は静かに落ちた。
「……冷たくなければ、保てないの。
それでも、あなたがそう言うなら――少しだけ、風を信じてみる。
……それが、私の知らなかった“温度”なら。」
アッシュが静かに報告する。
「進行経路、再構成可能。同行者追加、提案。」
イリスは目を閉じ、風の音を聞いた。
「――許可するわ。風もまた、律の一部。」
ルーファが小さく笑う。
「ありがとう。……風は、もう一度歌える。」
三人は外に出た。
谷に夜の風が吹き、灰の空に淡い星が滲む。
風鈴塔の鈴が鳴り、音が夜気に溶けていく。
ルミナリアが光を放ち、ノルディアが共鳴。
ルーファの風鈴がその音を重ねる。
イリスは静かに息をついた。
「……風が、ようやく夢を見始めたのね。」
ルーファが微笑み、家の方へ視線を戻す。
「この夜は、ここで休みましょう。風も、貴女たちも疲れている。」
アッシュがわずかに頷き、淡々と記録を取る。
「環境魔素、安定。外界干渉波――沈静。」
イリスは彼に目をやり、小さく微笑んだ。
「なら、少しだけ……風と共に眠りましょう。」
その声が、まるで祈りのように夜に溶けていった。
外の風は、まだ静かに歌っていた。
赦しと希望の旋律――
それが、夜を包み込む調べとなって響いていた。
第一章第2節【完】




