ヴォイドの夜
――世界が“色”を失った最初の夜――
かつて、世界は歌っていた。
風は喜びの音階を運び、雨は悲しみの調べを地へと返し、火は人の願いの焔で家々を照らした。
昼には市場の喧騒が笑いの色を撒き、夜には祈りが星を数えた。
人の心はそのまま力となり、花は胸の鼓動に合わせて開き、石は決意に応じて道となった。
色は理であり、感情は法であり、世界は八つの旋律に守られていた。
八つの国は八つの感情を讃え、それぞれの王が己が色を極めた。
希望を掲げる地では緑の燈が絶えず、信を結ぶ都では握られた手が契約より強かった。
歓喜の祭では空に金の雨が降り、悲哀の湖では紺の波が静かに語った。
怒りの砦は赤い鼓動で敵を退け、恐怖の谷は紫の霧で罪を戒め、転機の門は眩い閃きで運命を裂き、忌みの砂は白い風で毒を祓った。
誰もが信じていた──この“色の時代”は永遠だと。
だが、感情はあまりに強すぎた。
人は奪い、競い、飢え、満ち足りるために他の光を欲した。
怒りは正義の名を掲げ戦を呼び、恐怖は臆病を育てて武器を増やした。
不信は握った手の温度を疑わせ、嫌悪は境を高くし、悲哀は涙を誇りに変えて哀れみを拒んだ。
そして、驚きは次々と“転機”を連れ、世界の均衡を急かしていった。
八つの国は互いの色を奪い合い、世界はゆっくりと軋み出す。
幸福を求める手が幸福そのものを砕いていくことに、誰も気づけなかった。
兆しは些細だった。
笑い声の終わりに残る刺、祝祭の片隅で転ぶ影、誓いの言葉に混じる微かな不信。
だがそれらは積もりに積もり、やがて空に裂け目を穿った。
そして、その夜が訪れた。
その夜、風は祈りを忘れた。
海は怒りを鎮め、火は光を恐れ、空は沈黙の底で凍りついた。
星々はまぶたを閉じ、鳥は羽音を止め、街路の灯は灰の下に沈んだ。
音が消えたわけではない。
ただ、音が意味を失ったのだ。
灰が降る。
それは雪ではなく、かつて“赤”や“青”と呼ばれた感情の燃え滓だった。
掌に落ちた灰はかすかに熱を残してすぐ冷え、皮膚の記憶だけを残した。
笑いも涙も祈りも、遠い夢の端にほどけ、息づくものは色を捨てて鈍い白に褪せた。
――八つの光が堕ちた。
歓喜、悲哀、怒り、恐怖、忌み、信、希望、そして転機。
極限まで膨れあがった感情は形を持ち、災厄の《王》となった。
彼らは互いを憎み、喰らい合い、世界を裂き、国々の境を灰の溝に変えた。
光が強すぎたとき、必ず“影”が生まれる。
その影こそが《ヴォイド》。
激情の反動として働く、世界に備わった浄化のうねり。
意思はなく、ただ過剰を削ぐために、黒い潮として立ち上がる。
その潮のふちから、過剰な感情を喰らうもの──感情喰らいが、生まれ落ちた。
名を口にするだけで空気が震え、胸の灯が小さくなる。
黒は滅ぼすためではない。
ただ“過ぎた熱”を、冷ますためにそこにある。
灰の海を、ひとりの少女が歩いていた。
まだ「巫女」と呼ばれる前、祈りを捨てられなかったただの人間。
足跡を刻むたび灰はさざめき、すぐに風が消していく。
背後には焦げた旗、折れた剣、砕けた冠、そして誰かの笑顔の欠片。
少女はそれらを拾い上げ、胸に抱き、痛みとともに熱を感じた。
「……世界は、まだ終わっていない。」
その声は風に溶け、灰の波紋が広がる。
死んだはずの世界が、ほんの一瞬だけ息を吹き返した。
だが胸を満たしていたのは恐怖だった。
自分もまたいつか感情を失い、愛する人の名さえ忘れてしまうのではないかという恐れ。
少女はそれを押し殺すように空を仰ぐ。
裂け目が夜を焼き、空の奥で光が軋む。
世界が壊れていく音が、少女の心を裂いた。
けれど、それでも少女は祈ることをやめなかった。
「感情が世界を壊すのなら……せめて私が、それを鎮めよう。」
その言葉は静かな絶望であり、最初の希望でもあった。
涙は出ない。
代わりに胸の奥で、燃え残った小さな焔が明滅した。
瓦礫の間に膝をつき、胸に手を当てる。
かすかな鼓動――まだ世界は生きている。
風の底には確かに声があった。
怒りの叫び、子の泣き声、そして……あの日の笑い声。
「あなたの声が、好きだった……」
少女はその名を呼ぼうとした。
けれど思い出せない。
だから代わりに、祈りを歌に変える。
声は細く、しかし途切れない。
――詠唱。世界を“均す”ために、言葉を捧げる儀。
灰が舞い上がり、光が粒子になって空へとほどけた。
大地が震え、無数の符文が空を覆う。
古代の調律語が風に響き、少女の身体を包み込む。
それは世界の記憶──創世の初日に刻まれた“赦し”の旋律。
「我は願う。喜びを悲しみに、悲しみを静寂に。静寂を、赦しに。」
灰が円を描き、巨大な魔法陣が地を照らす。
八王の残光と、ヴォイドの黒潮がぶつかり、空が割れた。
光が流星のように降り、影は海のように寄せ、少女の祈りを中心に時間が止まる。
少女ひとりの命が、すべての均衡を繋ぎとめていた。
「私は、感情を封じる器になる。これが、私の最後の歌。」
髪が光を失い、白銀に変わる。
瞳は八つの感情を一つずつ映し、最後に透明へと溶けた。
世界はその変化をただ見守るしかできない。
その瞬間、少女という人間は消え、“調律の巫女イリス”が誕生した。
封印は成功した。
だが完全ではない。
感情の奔流は鎮まったが、彼女の心の奥――なお消えきらない“揺らぎ”が、かすかな火種のように残った。
(伝承はそれを、ときに“愛”と呼ぶ。)
封印の波は大陸の縁まで走り、山脈の雪を鈍く光らせ、海の底で眠る古い歌を静かに閉じた。
色は薄紙のように剥がれ、壁画は灰の影だけを残し、書物の文字は頁から音もなく抜け落ちた。
森で獣は吠えることを忘れ、飼い主の名を呼べなくなった犬が空を見上げた。
川は褪せた絵の具を運ぶように流れ、渚で壊れた玩具が波に揺れた。
それでも、すべてが無へ沈んだわけではない。
灯はかすかに残り、人々の胸のどこかで、忘れられない痛みが小さな火種となって明滅していた。
灰に覆われた街角で、互いの手の温度を確かめ合う者がいた。
遠い村では、名も知らぬ子が眠りの中で笑い、母がその頬に指を当てた。
世界は壊れたが、壊れ切ることを拒むものがあった。
イリスは静かに息を吐き、己の中の揺らぎを鎖で縛るように結界を強めた。
だからこそ、彼女は禁忌の“ゼロ”を選んだ。
これから訪れる長い灰の季節を思い、彼女はひとつの誓いを胸に刻む。
いずれ封印が軋み、影が漏れ出すとき、世界を守るための“器”を用意しよう、と。
感情を受け止め、中和し、誰の心も傷つけないように働く無色の器を。
月は高く、夜は深い。
風はようやく祈りを思い出し、廃都の尖塔を巡ってかすかな旋律を運んだ。
その歌に名はない。
けれど、いつか遠い未来、誰かがそれを聴き取り、もう一度世界を歌わせるだろう。
その誰かは、まだ名も形も持たない。
だが、その目は透明で、世界の色を傷つけずに映すだろう。
イリスは知らない。
けれど、月だけは知っていた。
どこか遠くで、風が答えた。
──いつか、また会える。
イリスは振り向かない。
それが巫女として生きるということだった。
やがて風が止み、世界は静寂に包まれる。
──三百年前、この夜を、人々はのちに《ヴォイドの夜》と呼んだ。
世界が色を失い、巫女が誕生した、最初の夜である。




