三百年前の聖女を森で拾いました
ライナスは非常に困惑していた。
「あの、あの、ライナスさんとおっしゃるのですね。こんな場所で人間の方にお会いできるとは思いませんでした。あっ、私も人間なんですけど。あれ、いえ、『元人間』、あるいは『人間だった』と言った方が正確でしょうか? でもとにかくよかった。お会いできて光栄です!」
目の前でまくしたてているのは白い服を着た少女だ。
年齢はおそらく十六、七。さらさらの黒髪を背中に垂らし、青い目をキラキラさせている。はっとするような美少女だったが、ライナスは腰が引けていた。
「ここで会ったのも何かの縁。どうか、私の願いを聞いてください!」
「いや……俺はただ、この森の調査を任されただけで……」
「なお都合がいいです。調査というのは、この森の瘴気のことですよね? その恰好は騎士じゃありませんね。一般の調査員か、もしかして冒険者? 後者なら好都合です!」
「確かに俺は冒険者だが、この森には調査で入っただけで、二、三日で戻ろうかと思ってるんだが……」
「そんな余裕はありません。私の姿を見れば分かると思いますが、もう時間はないのです」
少女は厳かに宣言した。
ふわりと服の裾が揺れ、縫い取られた金糸がキラリと光る。
その精緻な刺繍には、ライナスにも見覚えがあった。
「私の名はルビア。三百年前に魔王を封じた聖女です」
少女の体は、半分透き通っていた。
***
この国には、かつて魔王が襲来した。
人々は懸命に戦ったが、魔王の力はすさまじく、滅亡はすぐそこに迫っていた。
勇者、剣士、魔法使い。様々な者が魔王に挑み、力及ばず破れていった。最後の望みとして、彼らは聖女に希望を託した。
聖女の名はルビア。漆黒の髪に青い目の、神秘的な美しさを持つ少女だった。
彼女は自らの身と引き換えに、魔王をこの地に封印する事に成功した。彼女の肉体は魔王とともに封じられ、その身が朽ちてもなおこの地を守り続けた。人々はそれに感謝して、魔王を封じた森を「聖女の森」と呼ぶようになった。
だが、三百年後。
森に瘴気が漂い始め、魔の気配が濃くなってきた。聖女の封印に何かあったのではないかと調査が入ったが、誰もそこまでたどり着けない。瘴気にやられるか、魔獣に襲われて逃げ帰る。魔王がいなくなってから、勇者も剣士も姿を消した。代わりに台頭するようになったのが、冒険者と呼ばれる人々だった。
魔獣退治から護衛まで、依頼があれば何でもこなす。禁じられた地の調査もそのひとつで、許可があれば引き受ける。ライナスがこの森を訪れたのも、聖女の遺骸に変化がないか確かめてくれという依頼を受けたためだった。
「遺骸ですか……。服を着てないかもしれないので、恥ずかしいですね」
「骨しか残ってないだろ。三百年前だぞ」
「あ、それもそうですね」
うふふっと笑う可憐な少女は、思ったよりも人なつっこかった。
おとなしかったのは最初のうちだけ、すぐに好奇心剥き出しでライナスを質問攻めにする。
今の国王は誰なのか、大きな争いは起こったのか、天災や魔獣の発生はあったか。ライナスはそのひとつひとつに答えていった。
「今の国王はダール七世。三百年前のダール三世の……えーと、ひ孫の、孫の、従兄の、息子の……すまん、これ以上は分からない」
「あの子の血筋が残っているのですね。よかった……」
「大きな争いは起こってない。天災はいくつかあったようだが、まぁ無事だ。魔獣の発生も、そこまでひどくなかったらしい」
「よかったです。結界は張っておいたのですが、いつまでも保つものではなかったので。そろそろ張り直してくださいね、とお伝えください」
「伝えておく。さすがに国王にはツテがないから、時間がかかるかもしれないが」
「構いません。私が魔王を封印し直せば、あと三百年は無事でしょうから」
それまでに直してもらえれば、と微笑む。
透き通るような笑顔に、ライナスはちょっと言葉に詰まった。
「……封印し直すっていうが、あんたは体がないだろう。どうするんだ?」
「ルビアです。簡単ですよ、今度は魂を使います」
彼女は自身を指さした。
「私、こう見えても有能な聖女だったんです。聖なる力もものすごくて、だから魔王討伐に選ばれたんですけど、この地に封じるのが精いっぱいで。でも、私の肉体は魔王を三百年封じました。それと同じことが、魂を使えば可能です」
「……なるほど。だが、危険はないのか?」
「危険も何も、私の肉体はもうありませんし。大丈夫ですよ、ライナスさん」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「あっ、あんなところに木陰が! 少し休みましょうか、疲れたでしょう?」
何か言いかけたライナスには気づかず、ルビアは一直線に飛んでいった。
肉体がない分、こういう時は身軽らしい。少しうらやましいが、真似はできない。
(……それにしても)
出会った時は何かの冗談かと思ったが、どうもそうではないらしい。ライナスの乏しい知識でも、彼女の服装が伝統ある聖女の正装だと知っていたし、ルビアという名前にも、その髪と瞳の色にも心当たりがあった。
信じられないが、自分は今、三百年前の聖女と会話しているらしい。
木陰で少し休憩し、持ってきた携帯食を齧ると、ルビアは興味津々の顔でそれを見ていた。
「ええと……。食うか?」
「ものすごく食べたいんですけど、私、体がないもので」
無理ですね、と冷静に告げられる。
「あ……すまん」
「いえいえ。その代わり、ライナスさんが食べるのを見ていてもいいですか?」
特に問題はなかったので、構わないと頷く。ルビアは楽しそうにライナスの食事風景を見つめていた。
それから、彼女と色々な話をした。
「へー、ライナスさんって二十一歳なんですか? 私と五つ違いですね」
とか、
「ライナスさんの故郷は北部領ですか。道理で、小麦色の髪、青い瞳! 勇者様と同じです。あっ、勇者様って私と一緒に魔王を封じるために戦った方なんですけど、生真面目でいい方でしたよ。故郷に残した恋人には悪いけど、僕は君とここで死ぬ! とか言い出された時はどうかと思いましたけど、まぁ今となってはいい思い出ですね」
とか、
「魔王って、ちょっと触れちゃいけないタイプなんですよね。住んでいる世界が違うからでしょうか。こう、とにかくなんでも壊して潰して燃やし尽くしてしまえ、という感じの。でも、この世界を壊して潰して燃やし尽くされちゃったら困るじゃないですか。だから今まで頑張っていたのに、聖女の力も儚いものです」
とか、
「ライナスさん、町に戻ったら何がしたいですか? 私の分まで楽しんでくださいね!」
とか。
ほとんど彼女が喋っている。
だが、人と話すのが三百年ぶりなら無理もない。ライナスは時折相槌を打ちつつ――「そうだな」とか、「勇者やばくないか?」とか、「すげーな魔王」とか、「ベッドで寝る」とか――聖女が口を閉じるまで、彼女のお喋りに付き合った。
「ふう……。こんなに喋ったのは三百年ぶりです」
ルビアが満足そうに息をつく。
「だろうな」
多分五時間くらい喋っていた。
水を飲ませてやりたかったが、彼女が飲食しない事を思い出して黙り込む。どれだけ喋っても、彼女の声に変化はない。おそらく、本来の喉とは違う仕組みで発音しているのだろう。それとも、単に肉体がないから、消耗もしないのか。
後者かもしれないなと思いつつ、ライナスはぐびりと水を飲んだ。自分はほとんど喋っていないが、聞いているだけで喉が渇いたのだ。
「そういえば、聞いてもいいか?」
「なんでしょう?」
「聖女ってのは、女神に愛された存在なんだろう? だから聖女になったやつは、女神からひとつ願いを叶えてもらえるって聞いた。間違いないか?」
「ええ、そうですね」
「それで魔王を倒すってのは――」
「できません。女神様にお願いできるのは、身の回りでどうにかできることだけです」
ルビアがあっさりと首を振る。
魔王討伐はその範疇をはるかに超える。ゆえに、女神の力も効かないのだと彼女は語った。
ちなみに、天変地異はもちろん、人の心を操るとか、誰かの不幸を願うとか、そういうのも駄目らしい。ついでに言うと、物欲系も不可能だ。あとは――死者をよみがえらせるとか。
「歴代の聖女も、叶えたのはささやかな願い事だったと聞いています。涸れた泉をよみがえらせたいとか、枯れた畑をよみがえらせたいとか、嗄れた喉をよみがえらせたいとか……」
「なんで全部枯れてんだよ」
「まぁまぁ。記録に残っているんですよ」
ゆえに、ルビアの望みもそれに準じたものだと教えてくれた。
ついでに言うと、勇者にもその特権はあるが、やはり同じ程度らしい。つまり、期待はできない。
「ちなみに、何を願った?」
「友達の家系が何事もなく続きますように、と」
「……思った以上に平凡な願いだな」
「そうですか? でも、幸せな願いですよ」
ルビアは楽しげな顔で笑った。
付け加えるなら、「世界平和」や「王国の繁栄」などは認められないそうだ。誰かが強制できるものでもなく、自分の意思で行う必要がある。だが、それにも秘密があるのだと、ルビアはいたずらっぽく話してくれた。
「自分で決められないんですよ、願いって」
「なんだって?」
「女神様が決めるんです。私たちがそれを知るのは、叶えてくれる直前の時。それが偶然のような幸運であれ、奇跡に近い御業であれ、事前に知ることはできません」
なんだそれ、とライナスは思った。
聖女はこの世界に必要な存在だ。
瘴気を退け、傷を癒し、国や人々のために力を使う。病に倒れた人がいると聞けば駆けつけ、穢れた地があれば浄化する。そうやって、彼女達は誰かのために生きてきた。
それなのに、たったひとつ叶えるという願いでさえ、自分の思うようにならないなんて。
「ひどすぎだろ、女神……」
「女神様の悪口を言うと口が曲がりますよ」
思わず呟いたライナスに、すかさずルビアが突っ込む。咎める気でないのは、小さく笑う声で分かった。
「大丈夫、心配いりません。それがどんな願いであれ、一生に一度、何よりも叶えてもらいたい願いだと言われています。少なくとも、私はそうでした。だから悲しまないでください」
「俺は悲しんでなんか――」
「いい人ですね、ライナスさん」
顔を覗き込まれ、ライナスは思わずのけぞった。
「そういうところ、勇者様に似てます。あっそういえば、顔もちょっとだけ似てますよ。あちらは絶世の美形でしたけど」
「あのやばい勇者か……」
似ているのは仕方ないが、ちょっと複雑だ。
「いい方だったんですよ、本当に。どちらかが魔王を封印しないといけないことになって、それは当然勇者の役目だって言い張って。でも勇者様、故郷に恋人がいるって言ってましたから。この戦いが終わったら結婚するんだって頬を染めてましたね」
「嫌なフラグ立ててやがる」
「対する私は、そのころ恋人もいませんでしたし。というか、一度もできたことありませんでしたけど。友達もいないし、家族もいない。一番仲がいいのは勇者様でしたけど、お互いただの同僚でしたし。後腐れないのは、どう考えても私の方だったんですよね」
だから勇者の隙を突き、自分が魔王を封じたとルビアは言った。
「その時に、願ったんです。この人が無事に故郷に帰って、恋人と結婚できたらいいなって。できれば子供や孫に囲まれて、幸せに暮らしてくれたらなって」
勇者は同僚だったが、魔王と対峙する直前、ギリギリ友達枠に滑り込んだ。
初めてできた友達に対する、餞のような気持ちだったのかもしれない。
だがその時、ルビアの体から光が生まれ、彼に降り注いだのが分かった。
そこで知ったのだ。
――ああ、女神様が願いを聞いてくれた。
彼はこの先も生き続け、幸せな家庭を築くだろう。彼の子供達も平和に生きて、笑って泣いて過ごしていく。それを見届けられない事が残念だけれど、そうなると分かっただけで十分だ。
「……私は魔王を封印して、長い眠りにつきました。私の体は土に還り、今もこの森で眠っています。おそらく現在は、魂が残るのみでしょう。でも、勇者様の子孫はまだこの世界に生きていて、この先も暮らしていくはずです。だったら、私がどうにかしないと」
「その話なんだが、聞いてもいいか? 魂ってことは、あんた自身だよな。それを使ったら、あんたはどうなる?」
「私ですか?」
ルビアがきょとんとした顔をした。
「大丈夫ですよ、そんなの。ちゃんと考えてます」
「そうなのか?」
「ええ。だからライナスさんは、私と一緒に来てください。それだけで十分です」
「そういえば……なんで俺が必要なんだ?」
一緒に魔王を封印した場所に来てくれと言われたが、理由は聞かされていなかった。最初はてっきり、冒険者である自分に魔王を討伐してもらいたいのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。けれど封印し直すというなら、ひとりでも問題ないのではないだろうか。
首をかしげたライナスに、聖女は困った顔をした。
「うーん……。今それを言うのは時期尚早、と言いますか」
「は?」
「まだ気にしなくて大丈夫ですよ、ということです」
どういう事だと思ったが、それ以上答えてくれる気はないらしい。まさかとは思うが、魔王と結託していて、自分を喰うつもりなのではないだろうか。もしそうなら怖すぎる。
(まぁ……どっちにしても、行くつもりだったしな)
契約の事もあるし、そうでなくともライナスは該当の場所へ足を向けただろう。だがこれは自分の都合だ。
「あんた……ええと、ルビア。とりあえず、道案内よろしく頼む」
「もちろんです」
ルビアは振り返って嬉しそうに笑った。
***
聖女の遺骸は、森の中心にあるらしい。
ライナスも大体の場所は聞いていたが、すぐに見つかるとは思っていなかった。何しろ、森には魔獣がたくさん集まっていて、瘴気もひどかったからだ。調査隊が逃げ帰ったのも当然だろう。
だが、今は。
「……呆れるほど、何も起こらないな」
森は気持ちよく晴れて、澄んだ空気が周囲に満ちる。うららかな日を浴びて、木漏れ日があちこちに落ちていた。非常にのどかな光景だ。鳥や獣がいないのが、異変と言えば異変か。だが、これは仕方ない。本来ならば、ここは魔獣の生息する森なのだから。
「私がそばにいますから。肉体を失っても、聖女の力は残っています。おそらくはその影響でしょう」
ルビアが事もなげに言う。
「便利だな。前に来た奴らにもそうしてやればよかったのに」
「それが……目覚めたのは少し前なんです。それまではずっと眠ってました」
気づいたら先ほどの場所にいて、そこから離れられなくなっていたという。だから自分の姿も見ていないのだと彼女は言った。
「三百年、雨ざらしだったもので……。服どころか、骨もないかもしれませんね」
「微妙な気持ちになるようなこと言うなよ」
「まぁまぁ。どっちにしても、私は三百年前の人間ですし。残ってたらそれはそれで怖いですよ」
「……まぁ確かに……」
そんな事を話しながら、二人は森の奥へと分け入っていく。
ライナスはちらりと横に浮かぶ少女を見た。少し透けているところをのぞき、どう見ても普通の少女だ。それなのに、彼女の肉体はすでにこの世にはないという。そう思うと、やるせないような、困ったような、複雑な気持ちになる。
この感情は何だろう。
「そうだ、ライナスさんって冒険者なんですよね。それで食べていかれますか?」
「いや、俺は兼業だ。こっちの方が実入りはいいんだが、ひとつじゃ心もとなくて……って、なんでこんな話を」
「いえ、そういえば、勇者様がそんな話をしていたなと思い出して。勇者じゃ食べていけないから、冒険者になろうかなって言ってました。少なくとも、子孫にはそう伝えるって」
「あのやばい勇者か……」
「それやめません?」
仲良くしてくださいよとルビアが笑う。
仲良くも何も、三百年前の人間とどうやって仲良くしろというのか。
そう言いかけて、目の前にその実例がある事を思い出した。
「……ルビアは、勇者が好きだったのか?」
「あ、それはないです。あの方、顔は素晴らしく良かったですけど、絶対好きにはならないタイプでしたね!」
明るく全力で否定される。
「……そうか……」
勇者すまない。三百年越しにディスらせてしまった。
「それに、勇者様は恋人を本当に大切にされてましたし。ジーナさんの話を聞くの、私、実は好きだったんですよ」
なつかしそうな顔でルビアは笑った。
「ライナスさんは? 恋人はいないんですか?」
「恋人はいない……が、初恋の相手ならいる」
「聞かせてください!」
思った以上に食いつかれ、うっかり本音を吐いた迂闊さをライナスは呪った。
「いやいや、大した話じゃないから」
「聞きたいです! 気になります!」
「いやいやいや、そんなに身近な相手じゃないから」
「それでもいいです! 聞きたいです!」
「いやいやいやいや、言ってもいい相手といけない相手がいるから」
「私は安心安全ですよ! なんせ他に喋る人がいません!」
「嫌な保証だな……」
はぁっとため息をつき、頭をかき回す。
「……まぁ、気が向いたら話してやるよ」
「お願いしますね!」
約束ですよ、と念を押し、ルビアは嬉しそうに笑う。
このやろう、人の気も知らないで――と思いつつ、ライナスはそれ以上追及されなかった事にほっとした。
それからは勇者の話に花が咲き、彼の寡黙なところや真面目過ぎるところ、意外と執念深いところ、ついでに偏執的なところなど、勇者の詳しい生態に加え、かつての黒歴史が余す事なく明かされて、この場に勇者がいたら身もだえるどころじゃすまないとライナスは戦慄した。
安心してくれ、勇者。この秘密は墓場まで持っていく。
伝承では、勇者は聖女と恋仲だったとか、勇者に片想いしていた聖女が彼を助けるために自らの命を投げ出したのだとか、あれこれ伝えられていた。聖女に片想いしていた勇者が、せめて彼女の力になろうと、最後まで付き添ったのだと記されている書物もいくつかあった。だが、ルビアはその全部を否定した。
「すっごくお世話になりましたけど、本当にただの同僚でしたよ!」
ルビアはまた、結界の張り方や維持の仕方も細かく伝え、向こう三百年は大丈夫なようにしてくれた。
「……その後はどうなるんだ?」
「あ、それは大丈夫ですよ」
何気なく聞いたライナスに、ルビアはぱたぱたと手を振る。
「魔王がいなければ半永久的に使えますから。その間に、新しい結界も開発されるでしょうし。心配はいりません」
「まぁそうなんだろうが……」
「それに、この世界には、勇者様の子孫がいるでしょう? 彼らの平和のためにも、半端なことはできません」
「…………」
やっぱり好きだったんじゃないか? とライナスは思った。
だが、ルビアの表情はさっぱりしていて、切なさや未練は見当たらない。
その時だった。
「……ライナスさん、ちょっとまずいことになりました」
ルビアの顔色が変わり、同時にライナスも異変に気付いた。
「瘴気……!?」
「魔王を封じた場所はすぐそこです。急いでください!」
「分かった!」
瘴気はどんどん濃くなり、前を見るのがやっとなほどだ。これにやられたら、まともに動くのは難しい。今までの調査隊が失敗した理由をおぼろげながら理解し、ライナスは短く舌打ちした。
「ライナスさん、呼吸は?」
「俺は問題ない。幸い、こういうのには耐性がある」
「ならよかった。この先です!」
二人で駆けつけたその場所は、ぽっかりと周辺が開けた小さな広場だった。
中心に大きな樹がそびえている。見上げるほどに巨大な、すさまじい大木だ。
不思議な事に、地面から葉の先までが水晶のような石に覆われていて、その中に人の姿があった。
「ルビア……?」
樹の中に、聖女がいた。
ルビアの目は固く閉じられ、血の気の引いた顔に生気はない。当然だ。あの肉体は三百年前に活動を止めた。残っているのが驚きだが、あそこに魂は入っていない。
よく見れば、大樹から漏れ出る瘴気をルビアの肉体が浄化している。だが、瘴気の出るスピードには追い付かず、徐々に広がっているようだ。
――こんな状態で、三百年も。
「思った以上に形が残っていて驚きました」
「自分で言うな。……というか、自分の姿、見てないのか?」
のんきなセリフに、思わずライナスは突っ込んでしまった。
「封印してしばらくは起きてたんですけど、どんどん眠くなってきて。それに、当時はこんな水晶ありませんでしたから。てっきり雨ざらしになっているものとばかり思ってました」
「予想が外れて何よりだ。で、どうする?」
「体が残っているなら、もっと確実な方法があります」
見てください、とルビアは自分の肉体を指さした。
「あれを使いましょう。成功率が格段に上がります」
「あれって……あんた自身をか?」
驚くライナスには構わず、「運が良かった」とルビアが頷く。
「あの樹が魔王を封印しています。三百年かけて弱体化させましたが、消滅させることはできませんでした。このままだと樹が崩壊します。力を貸していただけますか」
「何をすればいい?」
「まずは水晶を割ってください。あれは私の聖なる力が結晶化したものなので、砕いても心配はいりません。中にいる私を取り戻したら、あとは簡単な作業だけです」
「取り戻すって……どうやって?」
「簡単です。一部でも露出すれば、なんとかなります」
任せてください、と胸を叩く。
「ただ――約束してくださいね」
「うん?」
「迷ったりためらったり、嫌だなんて言わないでください。その時になって、『やっぱりやめた』はなしですよ」
「誰がそんなことするか。こっちにもこっちの事情がある」
「それを聞いて安心しました」
では、と彼女が表情を引きしめる。
「行きますよ、ライナスさん!」
言葉とほぼ同時に、瘴気が辺りに広がった。
瘴気は普通、大気に漂うだけの代物だ。それがなぜか自分の意思を持っているように動き、ライナス達に襲いかかってくる。
ルビアの透き通った体が淡く光り、同時に樹の中にいるルビアの肉体もぼんやりと光る。その光は瘴気に絡みつき、次々と浄化し始めた。
「さすがだな、聖女」
「でも、力が足りません。私の肉体はそろそろ限界です。半永久的に封じる予定だったのですが……本当に残念です」
ルビアがわずかに目を伏せる。
「できる限り粘ります。あの瘴気は、魔王そのものです。あれが全部出てきたら、この国は終わりです」
「させるかよ、そんなこと」
「指の先だけでもいいので、とにかく露出させてください。その後は簡単な作業です」
「分かった!」
言葉と同時に、ライナスが大樹へと突進した。させないとばかりに、瘴気が襲いかかってくる。それを止めたのはルビアの聖なる光だった。
――オオ……オオオオ……。
瘴気が少しずつ濃くなっている。封印が限界というのは嘘じゃない。
近くで見たルビアの顔は、水晶の中でさえ分かるほど血の気が失せていた。
命を宿していないのが一目で分かる。これはただの入れ物だ。
ためらわず、ライナスは剣の柄を叩きつけた。
ガツッ!! と鋭い手ごたえがあり、水晶のかけらがわずかに飛び散る。
「その調子です、ライナスさん!」
「思ったより硬いぞ。ちょっと待ってろ!」
「いっそ剣で斬ってくださっても構いません。多少欠けてもなんとかなります!」
「できるかそんなこと!」
何せ聖女の肉体だ。それ以上に、ライナスにそんな真似はできない。
ガツッ、ガツッと水晶を削る。
こんな事なら鑿でも持ってくるんだった。今日は様子見のつもりだったので、ろくな装備も用意していない。あるのはこの剣と、ライナス自身の肉体だけだ。
こんな状態で魔王と対峙する事になるなんて、少しも予想していなかった。
ガツンッ。
ひときわ強い衝撃とともに、今までとは違う手ごたえがあった。あと少しだと思った瞬間、背筋が粟立つような感覚に襲われた。
「ライナスさん、よけてください!」
ルビアの言葉と同時に身をかわしていなかったら、体が二つにちぎれていただろう。ライナスの右肩をかすめた何かは、その先にあった岩を粉砕した。
「魔王……!」
かつてこの国を滅ぼしかけた、破滅の王。
それが今、ふたたび目覚めようとしている。
「ライナスさん、お願いします。急いで!」
「分かってる!」
聖女に近づいたせいか、水晶の硬度が一気に高まる。まるでダイヤモンドのようだ。それでも彼女の体を傷つけぬよう、細心の注意を払って砕く。ルビアも精いっぱいの力で防いでいたが、じりじりと押され始めていた。
「あと少し……」
ピシリ、と水晶にひびが入る。
小指の先が見えたと思った時、ひときわ強い瘴気が吹きつけた。
――聖女……コノ忌々シイ封印ノ主……。
地の底から響くような声とともに、とてつもない瘴気が広がった。
何かが大樹をこじ開けようとしている。正確に言えば、聖女が施した封印を。
「させません!」
ルビアがライナスの横から飛び込み、自らの小指へと手を伸ばした。
カッ!! と強い光が辺りを貫き、水晶が一気に砕け散る。辺りに飛び散った水晶は、まばゆい輝きを帯びながら、聖なる光をまき散らした。
――グアアアアァァァッ!
散らばる光をまともに浴びて、瘴気がふたたび押し戻される。それを取り込んでいるのは、聖女の肉体だ。文字通り、自らの身で魔王を封じているのだ。三百年もの間、ずっと。
だが、いつまでも保たないのは明らかだった。
「ライナスさん、今です!」
体に戻ったルビアが叫ぶ。
「私ごと、魔王を斬ってください!」
「な――」
なんだって?
「今の私は、魔王と同化しています。私を斬れば、魔王も一緒に消滅します。私の力が魔王を抑えている間に、早く!」
「だが、あんたはどうなる?」
「私はとっくにいない人間です。お気になさらず」
つまりそれは、聖女も魔王ごと消滅するという事だ。
「できるか、そんなこと!」
先ほどよりも強い叫びだった。
「気づいてないと思うのか。あんた、とっくに限界だったんだよ」
出会った当初は気づかなかった。けれど、やがて気づいた。ルビアの体は、だんだん薄くなっていた。
このままだと遠からず、彼女は消滅しただろう。瘴気が広がっていたのも当然だ。魔王が力を取り戻したのではなく、聖女の封印が弱まっていたのだから。
体に戻ってもなお、その顔色は青白い。聖なる力もほとんど残っていないのだろう。そんな状態で、これ以上魔王が抑えられるはずもない。
それどころか、もう、彼女は。
「魔王を放せ、聖女ルビア」
「できません!」
ルビアは激しく首を振る。
「魔王を倒せるのは勇者だけです。あの当時、最強と謳われた勇者様でもできなかった。だから封印したんです。お願いですから、私ごと斬ってください!」
「それであんたを殺せっていうのか。断る。いいからさっさと魔王を放せ。あんたを犠牲にするくらいなら、魔王にやられた方が百倍ましだ」
「何を言っ……きゃっ」
その時、ぶわりと瘴気が広がった。
ルビアの中に封じられていた魔王が、いよいよ姿を現そうとしている。
空は瘴気に覆われて暗く、それよりもなお濃い影が落ちる。すべてを破壊し焼き尽くす、最強の魔王。
「ライナスさん……逃げてください」
ルビアがかすれた声で言う。
「どんなことをしても、私が抑えますから……。だから、できるだけ遠くへ……逃げて」
「あんたを置いて?」
できるわけない、とライナスが一蹴する。
「そもそも、あんた最初からこうするつもりだったな? 自分の魂を使って、魔王と相打ちする気だったんだ。そりゃ、俺の剣が必要だよな。あんたを殺す人間が必要だったんだから」
「……ごめんなさい」
「構わない。だが、言っておく。聖女を斬るなんて、死んでもごめんだ」
少なくとも、ライナスの家系は皆そうだ。聖女を斬り捨てたなどと知った日には、一族こぞって血祭りに挙げられる自信がある。
「そういう場合じゃないんです。私がやらないと、この国が……っ」
「あんたの使命は三百年前で終わってる。きっちり魔王を封印して、ひとつの時代を平和にした。ならもうお役御免だ。あんたは解放されていい」
「そんなわけには……っ」
言いかけたルビアの体が闇に呑まれる。
「いいから、放せ!!」
その声の威力は絶大だった。
彼女は抗ったが、こらえ切れずに力尽きる。直後、聖女の体からすさまじい闇が噴き出して、ひとつの影を形作った。
――ククク……馬鹿な男だ。
ゆらゆらと揺れる影の中から、嘲笑う声が放たれる。
――よくぞ我を解放してくれた。その礼に、聖女ともども殺してやろう。
発音が先ほどよりも明瞭だ。それは同時に、魔王が実体化した事を表していた。
「ライナスさん、逃げて!」
ルビアが叫び、魔王に向かって手を伸ばす。
――我を倒せるのは勇者と聖女。お前ごときでは話にならぬ。
くつくつと笑いながら、魔王が巨大な爪を実体化させる。先ほどの瘴気を集めて巨大化させたような、禍々しくもすさまじい代物だ。あんなものに触れられたら、それだけで即死するほどの。
――まずは聖女の目の前で、この男を八つ裂きにしてやる!
闇のように黒い爪がライナスに迫る。ルビアが立ちはだかろうとしたが、間に合わない。声にならない悲鳴が上がる。魔王が哄笑しながら爪を振り下ろす。
ライナスは一歩も動かずそれを見ていた。
その爪が彼の眼前に迫った時、彼はぽつりと口にした。
「その攻撃は予測済みだ」
そして。
「俺が当代の勇者なんだよ」
その言葉と同時に、剣が魔王を斬り裂いた。
***
***
「ど……どういうことですか?」
魔王が消え去った森の中で、ルビアが呆然と問いかけた。
「言葉の通りだ。俺は冒険者兼、勇者をやってる。魔王の攻撃パターンも学習済みだ」
ライナスが事もなげに言う。ただし、さすがに弱体化してないと危なかった。三百年の封印はダテじゃない。確実に魔王を弱らせていたからこそ、あの一撃で倒す事ができたのだ。
「そうではなくて、勇者って?」
「さっき兼業って言っただろうが」
ちなみに攻撃パターンの予測は、先祖代々続けられてきた考察の積み重ねだと補足する。過去に直接やり合った事のある人物直伝の書があったため、その精度は抜群だ。
本来ならば、今回は調査だけのつもりだった。封印の様子を観察して、万全の態勢を敷く予定だったのだ。だから勇者ではなく、冒険者として森に入った。そちらの方が自由に動けるからだ。それなのにこんな事になってしまったのは、予定外というほかない。
「言いましたけど、勇者が副業なんですか?」
そちらが主業ではないのかという突っ込みに、ライナスは嘆息した。それに関しては、こちらに正当な理由がある。
「あのな……。勇者って、基本的に慈善事業なんだよ」
「はい……?」
「食料とか薬草はともかくとして、大前提、国以外から謝礼はもらえない。小銭ならまだしも、黄金や宝石なんかはアウトだ。けど、困ってる人々は国中に山ほどいる。そのひとつひとつを無償で助けてたら、俺はあっという間に飢え死にだ」
そのため、冒険者になる事を決めたとライナスは言った。
「ご先祖からの教えなんだよ。食っていくための手段は何が何でも確保しろって」
「いいご先祖様ですね」
「ルビアも知ってる相手だぞ?」
え、と目を瞬いたルビアに、ライナスはあっさり言い放った。
「あのやばい勇者って、俺のご先祖だから」
「…………え」
「ひいひいひい……いくつ前になるんだ? とにかく、俺はあの人の直系の子孫。で、俺の家系には代々伝わってることがある」
言葉を失うルビアには構わず、ライナスはひいふうみいと指を折り、すぐにあきらめて手を広げた。
「内容は単純明快。――『魔王とともに封印された聖女を助け出せ』」
「――――……」
「俺の家では、寝物語に聖女の話を聞かされるんだ。そいつがどんなに勇敢で、どんなに一生懸命で、どんなに慈悲深かったのか。勇者を守り、その身を挺して世界を救い、どうやって魔王とともに封じられたのか」
うちの家系は全員、聖女が初恋相手だとライナスは言った。
「だから言いたくなかったんだよ。いくらなんでも当人に言えるか」
「え……あの、それって」
何か言いかけ、ルビアが見る間に頬を染める。つられてライナスも赤くなりかけたが、それどころじゃないと思い直して首を振る。
「俺はあんたを助けに来たんだよ、聖女ルビア」
「ライナスさん……」
「あのやばい勇者……俺のご先祖からの伝言も預かってる。ちょっと引くほど分厚い手紙だから、あとで見せてやる。開けたら子子孫孫まで祟られるっていうんで、誰も見てない。ていうか、子孫って俺たちのことだろ。なんで自分の子孫を自分で祟るんだ。天然だろあの人」
「そういうところもありましたね」
「話が早くて助かるな。だったら、行くぞ。森を出よう」
手を差し出すと、ルビアははっと息を呑んだ。
青い瞳が喜びに強く輝いて――すぐに寂しげな笑みに彩られる。ライナスの手の先を見つめたまま、ルビアは小さく首を振った。
「行きたいところですが……残念ながら、時間切れです」
「は?」
「さっきも言ったでしょう? 私の命は、三百年前に失われているんです。いくら肉体が残っていても、それは形だけ。命を宿すことはできません」
ルビアの体は、よく見ると干からび始めていた。
老人のようになるのではなく、少しずつ、砂のように乾いていく。まずは手足の先からなのか、指先が灰色に染まっていた。
「嘘だろ、おい……」
「ありがとうございます、ライナスさん。おかげで魔王を倒せました。勇者様の子孫というのはびっくりでしたけど、同じくらい格好良かったですよ」
会えて嬉しかったです、と言い添えて。
「初恋って言ってもらえたのは生まれて初めてです。冥途の土産にしますね!」
「明るくそんなこと言うな。俺はあんたを助けに来たんだ」
「そのお気持ちだけで十分です」
灰色は手首まで広がって、その先の腕を枯れさせていく。あと少ししか時間が残されていないのをライナスは悟った。
「私はここでお別れですが、ライナスさんが幸せになりますように。勇者様の子孫と分かった以上、愛着が湧きますね。まるでひ孫を見るような気持ちです」
「ひいばあさんにしては可愛すぎるだろ。……ちょっと待ってろ、今準備を」
「無駄ですよ。骨くらいは残ると思いますので、よかったら埋葬してくださいね」
「ちょっと待て、聖女」
「魔王の脅威はなくなったので、結界は急がなくても大丈夫です。できればたまにはお墓参りに来ていただけると……いえ、それは望み過ぎですね。忘れてください」
「そんなもんいくらでもしてやるが、今はそういう場合じゃない」
「女神様は枯れたものをよみがえらせてくださるので、しなびた漬物なんかあったら、一緒に持ってくるといいかもしれませんよ」
「便利だな女神……って、そうじゃなくて」
「そろそろお別れですね。お元気で、ライナスさん」
「人の話を聞け、聖女」
言っただろ、とライナスは舌打ちした。
「俺は、あんたを助けに来たって」
「――え?」
「あのやばい勇者が何も考えてなかったと思うか。あんたを助けるための手段なら、数え切れないほど書き残してる。何しろすごい熱量なんでな。目をつぶったって思い出せる」
いいか、と前置きして。
「女神に願いを叶えてもらえるのは、聖女だけじゃない。勇者もなんだよ」
そしてかつての勇者はライナスのご先祖だ。
「ライナスさん……何を」
「俺のご先祖は、あんたが思ってる以上に執念深かったってことだ」
そこでライナスは高らかに叫んだ。
「勇者の名において、女神に願う! 聖女ルビアの救済を! こいつの枯れた肉体を元に戻してくれ!」
女神は枯れたものをよみがえらせる。
それが泉でも、畑でも、声でも――干からびた肉体でも。
女神が叶えてくれるかどうかは賭けだった。けれど、ライナスには勝算があった。
ルビアの肉体は三百年前のものだが、あの当時は生きていた。そして、その状態で封印された。つまり、肉体はまだ生きている。
ルビアは命を落としたと思っているようだが、実際は違う。それはご先祖が残した記録にも書かれていた。生きた状態で封印を施せば、その状態で「保存」されているのだと。
そしてルビアの魂は未だに存在している。だとすれば、彼女の肉体と魂は、三百年の時を超えて生き続けている。
何よりも、とライナスは思った。
女神は心からの願いを叶える。けれど、ご先祖が残した日記を読む限り、女神が彼の願いを叶えてくれた様子はないのだ。だとすれば、まだ願いは叶っていない。
つまりこの場には、ライナスとかつての勇者、二人の願いが存在する。
ひとりでは足りない。けれど、二人分なら。
(大丈夫)
女神はきっと聞いてくれる。
そのために自分はここへ来たのだ。
だから。
目の前で、聖女が光に包まれた。
枯れた肉体が見る間に瑞々しさを取り戻し、瞳が生き生きと輝き出す。どこか呆然としたように、ルビアが地面に座り込んでいた。彼女は自分の足を見つめ、手を見つめ――それからライナスに目をやった。
「……どうしましょう……」
その声は、先ほどよりもはっきりしていた。
「私……生き返っちゃいました」
「当然だろ」
フンと鼻を鳴らし、ライナスが胸を張る。
「俺はあのやばい勇者の子孫だぞ」
「それやめません?」
だけど、とルビアが小さく笑う。
「そうですね。確かにあなたはあの方の子孫で、私の勇者様です」
「――――」
「ライナスさん、顔赤くないですか? え、どうして……あ、ええと、あっ、えっ?」
そこで初恋発言を思い出したのか、ルビアが顔を赤くする。つられてライナスも赤面し、しばし無駄な時間が流れた。
「……とりあえず、森を出るか」
「そ、そうですね」
照れたように頷き合い、目が合ってふたたび照れる。ライナスはちょっと動揺した。なんだこれ。恥ずかしい。十五のガキか。そう思いつつも、熱が上るのを止められない。
出会った聖女は思った以上に無鉄砲で、無邪気で面白くて可愛かった。
ご先祖の日記にある通り、出会ったらきっと好きになる。勇者の血筋なら絶対に。
「依頼人になんて言うかな……。とりあえず一緒に来るか、ルビア」
「いいんですか?」
「当然だ」
手を差し出すと、今度は素直に握られた。
力を込めて、ライナスはルビアを立ち上がらせた。
「ところで、勇者様の残した手紙ってどんなですか?」
「さっきも言ったが、ちょっと引くほど分厚い手紙だ。心して読んでくれ」
「さすがに怖いですね……。恨み言ではないと思うんですけど」
「案外ラブレターかもな」
「それだけはないです。勇者様は恋人一筋の、いつでも無表情の方でした」
「言葉が文の中で喧嘩してるんだよな……」
「情熱的で平常心な方でしたよ」
「ますます意味が分からん」
「これからゆっくり話して差し上げますよ」
つないだ手をなんとなく離さずに、二人は森を抜けていく。
木漏れ日が地面に揺れて、柔らかい影を落としていた。
***
***
――――――――――
ルビア、久しぶり。
この手紙を読んでいるという事は、僕は成功したのだろう。
よかった。僕の生涯をかけて、築いてきたすべての結晶だから。
君のおかげで、僕はジーナと結婚した。子供も六人生まれて、孫は今のところ二十人。ひ孫は十八人だけど、まだまだ増えそうだ。それもこれも全部、君のおかげだ。ありがとう、ルビア。そしてごめん。この手紙を書いている今でも、僕は声を上げて泣きそうだ。
……ごめん、嘘をついた。もう泣いている。君の事を思い出すといつもこうだ。笑ってくれて構わない。だって僕は無表情だけれど、ものすごく泣き虫だったからね。
君が僕の代わりに魔王を封印した時、僕は呆然とした。それは僕の責務なのに、どうして君がそこにいるのか。封じられるべきなのは僕だったのに、どうして君が犠牲にならなければならないのか。その重圧も、責任も、勇者である僕が負うべきものだったのに、どうして君に背負わせてしまったのか。
――どうして僕ではなく、君だったのか。
その問いに今でも答えは出ない。きっとこの先も出ないだろう。
あれから何度も君を助ける方法を探した。ジーナと結婚しても、子供が生まれても、孫が生まれる年齢になっても、僕はあきらめられなかった。
でも、もうそれも難しくなってしまった。
遠くない未来、僕は女神様の元に召されるだろう。こうしている今も、ペンを持つ手が重い。できるなら君の元へ行き、君と役目を交代できればいいのに。そうなれるよう、僕は女神様に祈り続けている。君が封印された日からずっと、一日も欠かさずに。
でも、それも難しいなら――僕の子孫にそれを託す。
無理にじゃない。でも、もし、僕の意志を継いでくれるなら。
君を助けたいと思い、一歩踏み出してくれるなら。
幸い、僕の子供達は寝物語に話す聖女の話が大好きで、君のことは家族全員が知っている。たくさんいる孫達も、ひ孫達も聖女が好きだ。つまり、君をね。
君に会ったのは何代後の子孫だろう。もしかすると、僕の血は継いでいないのかもしれない。それならそれでも構わない。君が自由になれるなら、そんなのは些末な事だ。
ルビア、今は何をしている? 困った事はないだろうか。悲しい事は? そばにいられないのがもどかしい。できるなら今すぐ君のそばに行って、力になってあげたいのに。
あんなに一緒にいたのに、魔王を倒して生きる事も、二人で封印される事もできなかった。……こんな事を書くと、ジーナに誤解されるって? 大丈夫、何度も号泣しながら話しているから、とっくにドン引きされている。
子供達も、孫も、何ならひ孫も知っている。君が解放されたと聞いたら、彼らだって大喜びだ。僕の優秀な同僚の話は、一族全員が知っている。
君は大切な仲間で、かけがえのない友人であり、たったひとりの親友だ。君がいたからこそ、僕達は平和な時代を生きられた。この幸せも、未来も、全部君がくれたものだ。
僕は幸せだったよ、ルビア。
だから、次は君の番だ。
君も知っている通り、僕は少々執念深い。偏執的と言ってもいい。君が女神様の力を借りてまで願ってくれた幸福を、絶対君に返すと決めた。どれだけ時間がかかろうと、必ずだ。
僕の執念はやがて実を結び、封じられた君を助け出す。それがうまくいったかどうかは、今、君自身が証明しているだろう?
僕が女神様の元に旅立ったら、女神様からいただいたものを君に返すよ。
幸せ。喜び。楽しみ。笑顔。平和な時代と、たくさんの感動。この先続いていく未来。友人や恋人、そして、できれば――家族も。
欲張りすぎかもしれないって? いいや、きっと大丈夫だよ。だって君は僕の友達で、最強の聖女だから。
どうか幸せに、ルビア。
君と生きたあの日々は僕の誇りだ。後悔も悔しさも丸ごとひっくるめて、僕は僕の旅を終える。君を救い出すのが僕でない事だけが、本当に残念だけれど――。
それでも今、君が笑っていてくれると嬉しい。
もう一度書くよ。
ルビア、今、何をしている?
ねえ、ルビア。
今は幸せかい?
了
お読みいただきありがとうございました!
*勇者は超絶美形の無表情で、中身は割と天然でした。唯一無表情が崩れたのは、ルビアが代わりに封印された時です。
彼は生涯後悔を抱えていましたが、それを上回る情熱で、今回の結果に導く努力をし続けました。ルビアが助かったのはそのためです。
唯一の計算外は、子孫に黒歴史を知られた事。
(※ルビアに悪気はまったくありません。勇者の活躍を話した結果、黒歴史公開となりました)