夏と平日
「サボってみたい」
突然そう言った私の顔を、夏渚はぽかんと口を開けて見つめた。そして、すぐにくしゃっと笑った。
「行こう。じゃあ早速、明日」
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「もしもし。お世話になっております。
大舘莉子の父ですけれども、本日体調が悪いのでお休みします。
……
はい、よろしくお願いします。
失礼します。」
電話を切った夏渚は、一仕事終えたように満足気な顔をしている。
「バレてない?」
心配性な私は、恐る恐る夏渚に聞いた。
「大丈夫だよ。ほら、次、莉子の番。」
プルル、プルル、プルル……
呼出音が耳に入る度に、鼓動がどんどん早くなる。
プツッ
『もしもし。〇〇高校の△△です。』
えっと、なんて言えばいいんだけ。
ものすごく緊張して、言葉が思いつかない。なんとかさっきの夏渚を思い出し、夏渚の母になりきって言葉を並べた。
「……はい、よろしくお願いします。失礼します」
ほっと力が抜けて、腕も首もだらんとなった。
でも、顔上げたら夏渚はいつもの笑顔で笑っていて、あっさりと言った。
「よし、行こう」
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夏渚と毎朝待ち合わせをしているこの駅から、電車とバスで片道2時間と少し。交通費は往復で一月分のお小遣いくらい。私にとっては大冒険だ。
けれども、彼はいつも通り飄々としている。
その温度差がなんだか悔しくて、
「ちょっと緊張する」
と、小さな声で主張してみた。
すると彼は、
「緊張するね」
と、微笑みながら返してくれた。
夏渚は絶対緊張なんかしてないのに、いつも私の気持ちを汲み取って、変に格好つけたことを言わない。
そんなところが大人っぽくて好きだなって思う。
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「黄色い線の内側までお下がりください」
聞き慣れたアナウンスと共に、いつもの電車が到着した。同じ学校の人と顔を合わせないよう、普段は乗らない一番端の車両の、一番端の扉から乗り込んだ。
電車の中は、スマホを弄るサラリーマンや完璧なメイクを施した大学生のお姉さん、近くの高校の制服を着た人達なんかで、かなりぎゅうぎゅうになっている。
私は壁を背にし、彼は私の前に立つ。
背の高い彼の顎が、私の頭の上にあるのを感じた。
ちょっと背伸びをして頭をコツンと当てちゃおうか、なんていうくだらないイタズラを企んでいたら、次は高校の最寄り駅だった。
私は今日、扉が開いてもあの駅で降りない。
夏渚と一緒にサボるんだ。
最寄り駅に着いたことを告げるアナウンスが流れ、プシューと音を立てながら扉が開き、見慣れたホームが現れた。
そしてまたすぐに、プシューという間抜けな音と共に、呆気なく扉が閉まった。
夏渚の顔を見上げた。
彼はくしゃっと笑った。
私も笑った。
もう、緊張はしていなかった。
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サラリーマンも大学生も高校生もポツリポツリと降りていき、とうとう2人並んで座れるようになった。
「案外、こんなもんかって感じかも」
「ええ!ほんと?莉子はもっと罪悪感でいっぱいだと思ってた」
「夏渚はないの?罪悪感」
「んー、ないな」
それはそうだろう、と思った。
彼は、よく学校をサボる。
月に2回くらい。
月に2回は「よく」に入らないのかもしれないけど、サボったことがない私にとっては、十分「よく」の範疇だった。
終点の駅まで、いつものようにくだらない話をした。
途中、彼が手を握ってきたので、私も握り返した。
野球部の夏渚の手の平は、皮が厚くてすごく硬くなっている。初めて触れた時は驚いたけど、今はこの手が大好き。
しばらくして終点に着いた。
でも、手は繋いだまま電車を降りた。
改札を通る時に引き落とし金額を見て、随分と遠くへ来たことを実感した。
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「バス乗るの久しぶり」
「俺も。中学の頃プールに行った時以来かも」
あ、「俺」って言った。
彼は「俺」って言ったり「僕」って言ったりする。
2ヶ月前くらいに突然、
「これからは『僕』って言う。なんかそっちの方が大人っぽいから」
と、宣言した。
その理由が子供っぽいのでは?と思ったけれど、そこがかわいいなと思った。
野球部の友達といる時は「俺」って言うけど、私の前だと「僕」って言う。
時々「俺」って言っちゃってて、そこもなんだか愛おしい。
私は昔から俳優やアイドルの類に全く興味が無くて、男の人に対する「かっこいい」「かわいい」という感情がわからなかった。
好きなアイドルに夢中な母や姉を見て「かっこいいがわからない私は異常なのでは?」と不安になった小学5年生の私は、ある日テレビに映った適当な俳優を指さして「この人かっこいい」と母に言ってみた。
すると母は「え、全然かっこよくなくない?」と私の意見を一蹴した。
その瞬間「私は本当にわからないんだ」と感じた。
今思えば、好みの違いだから気にすることはないのだけれど、その頃の私は不安になった。
でも、今はわかる。
夏渚を見ていればはっきりとわかる。
部活を頑張ってるところや、大人っぽい一面に気が付いた時は「かっこいいな」って思うし、ちょっとバカな行動とか子供っぽい一面を見つけたら「かわいいな」って思う。
「楽しいね」
と、言ってみた。
「ほんと、楽しいね」
と、くしゃっと笑って返してくれた。
この笑顔も、かわいいな。
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バスの降車ボタンを押した頃には、2限の終わりくらいの時間になっていた。
時間割を軸に考えてしまう私は、まだどうしようもなく高校生なんだと感じる。
バスから降りて、ぐうっと思いっ切り伸びをした。深呼吸をすると、潮の香りが鼻を抜けていった。
海に面したバス停。
もう、それだけで絵になる。
夏渚の焼けた肌と真っ白な半袖のカッターシャツが、晴れた空と青い海によく似合っていた。
私もカーディガンを脱いで半袖になった。
スクバのチャックを開けると、ポーチとお財布、水筒とお弁当袋だけが入っている。サボるからにはと思って、教科書や筆箱は全部家に置いてきた。
いつもより軽いスクバに、畳んだカーディガンをそっと入れた。
「お待たせ」
「莉子の半袖新鮮、いいね」
彼はほとんど「かわいいね」とは言わない。
いつも「いいね」と言う。
でもそれは、「かわ」という言葉を付けるのが恥ずかしいから、ということを私は知っている。
彼の私を愛おしそうに見つめる瞳を見ればわかる。
目は口ほどに物を言うとはこのことなのだなとわかる。
でも、今日は意地悪したくなった。
電車でイタズラをし損ねたからかもしれない。
「かわいい?」
こんなことを聞くのは初めて。
言った途端に恥ずかしくなってきた。
「かわいいよ」
海を背景に、彼はくしゃっと笑う。
大好きだなって思う。
彼が私の手を取る。
海沿いをゆっくりと歩く。
海を眺めていたら「あ、そういえば、今日学校だった」と、急に思い出した。
でも私は今、初めて来たこの海辺の町で、彼と手を繋いで歩いている。
3限は、確か古典の授業だ。でも、その教室に私たちはいない。
そのことがおかしくて、でもたまらなくドキドキして、
「緊張するね」
と彼に言った。
彼は、
「僕は全然緊張してないよ」
と、くしゃっと笑って言った。
幸せだなって思った。
そして、少し歩いたせいか自分の空腹に気が付いた。
「夏渚、お腹空いた」
「僕も。あそこの砂浜でお弁当食べよっか」
学校をサボって、遠く離れた町で、好きな人と海を眺めながら食べる、お母さんが作ってくれたお弁当。
一体、どんな味がするんだろう。
きっと、忘れられない思い出の味になるんだろうな。
「夏渚」
「ん?どうした?」
「サボりって最高だね」
「うん、最高だね」
くしゃっと笑う夏渚の顔を見つめながら、私も笑った。
ところが、夏渚は少し真面目な顔になって、
「ずっと莉子に言いたかったんだけどさ」
と、急に改まった。
夏渚はなかなか次の言葉を口に出さなくて、その間が私を少し不安にさせた。
でも、そんな不安は必要なかった。
夏渚は照れくさそうにこう言った。
「俺、莉子のくしゃっと笑う笑顔が、かわいくて、大好きなんだ」
あ、また「俺」って言った。
でも、そのことは伝えない。
だってそれよりも、今、夏渚に伝えたいことがあるから。
「私も、夏渚のくしゃっと笑う笑顔が、大好きだよ」
恥ずかしくて、嬉しくて、愛おしくて。
今、私たちはきっと同じ顔をしている。
高い位置にある夏の太陽と、くしゃっと笑う夏渚の笑顔が、私の目にはたまらなく眩しかった。
私は、学校をサボって制服のまま海に行くという夢がありましたが、叶うことなく卒業してしまいました。
でも、叶わなかったこの夢を、莉子と夏渚が叶えてくれました。
物語っていいなって思いました。