第8話
部活動に勤しむ生徒の活気ある声が反響する、校舎の合間。
先を行く三人の後を追い校舎の中へと入ると、人気の少ない第二校舎の階段を上がっていった。
明かりがついているのにどこか薄暗さを覚える涼しげな階段から、三階へ。普段であれば行くことのない第二校舎の奥へと続く廊下に、コツコツと上履きが打ち付けられる乾いた連続音が響く。
「なんだかんだ、ここには初めてきたかも」
そこは普段であればカーテンが閉められて中の様子を見ることのできない、使われなくなった美術室だった。元は白い塗装がされていたであろう横開きの扉は、所々に付着したセロハンテープの残骸によって黄ばみ、ガラスも同様に完全にきれいな状態ではなかった。
「実は今年から、この空き教室を私たちだけで使えることになったのです。今までは部室と呼べるようなものがなかったもので」
「あぁ、前は実行委員会が入り浸ってたんだっけ。まったく、ここの生徒会は少し横暴だよな。文化部の奴を無理やり実行委員会に所属させて、しまいにはそいつのいる部室ごと私有化するだなんてサ」
この高校の生徒会に特段強い権限がある訳ではないが、校内行事の取り仕切り全てに関与するため、実行委員会という大人数を抱えた組織を有している。実際のところ、実行委員会こそが生徒会の大部分であり、行事がある多忙なシーズンは空が暗くなっても教室に明かりがついていることが常らしい。
「そういや朝夜は実行委員会に入れって恐喝されなかったのか?結局、オレらは全員実行委員会に所属することになったんだけど」
勧誘のことを恐喝と、秀樹はそう言った。実際に恐喝されることはないが、相手は複数人かつ狡猾な手段で無所属の暇人を捕えようとするのだ。
「はぁ、俺なんて恐喝された方がまだマシと思えるようなことばっか。下校しようとしたら校門の前でサ、女子が複数人で待ち構えていたり、わざとらしく『あー、仕事が多くて大変だなぁ~』って言われたり。あの生徒会、俺が男だからって女子だけを送ってきやがるんだ」
「なーんだそれ。クッソ充実した日々を送ってんじゃねぇかよ」
「送ってなんかねーよ。魔の手を回避するために、いつも一番に下校してたんだから」
以前から誰かに現状を変えてほしいと薄っすら考えていたものの、結局自身が興味ない事に関与することはしたくなかったのだ。そのわがままさが自身を虚無へと導く原因になっていたことは、いつも俺のことを勧誘しようとしてきた奴が声をかけてこなくなった時に気付くことになった。
そんなことを考えていながら皆が扉を開けるのを待っていたが、誰一人として室内に入ろうとしなかった。
「……なぁ、なんで誰も中に入ろうとしないんだ?」
「へへ、おにーちゃん、先入っていいよ」
眩昼がそう言うと一同気味悪く含み笑いをしだし、扉の前から離れていった。
――なるほど。これから俺は、一体どのような歓迎をされるのだろうか。
一応扉の上の方を見てみるが、黒板消し等が挟まっていることはない。完全に扉は締まっているので当たり前なのだが。更に手すりに何かが付着していることも、ガラス越しに見える薄暗い室内で何かが動いている様子もない。
目に見えない何かがあると思えるからこそ、余計に扉を開けづらい。だが俺が行動しない限り、この先のイベントが進行しないのは確か。ゲームではよくあることだ。この先によくない展開が待ち受けているとわかっていても、進むしか道がない。
俺は決した意を溜め息にし、扉に手をかけた。
「はぁ。……失礼しまーす」
念のため左右を軽く確認し、室内へと一歩踏み込む。
画材の匂いだろうか。教室の中に入ると、あまり嗅ぐことのない独特な木の香りが鼻に突き抜けた。
この教室は、いつから使われていないのだろう。金属製の棚の所々は塗装が剥げて錆び付き、キャンバスを立てかけるのに用いる木製の三脚は絵の具が滲み、年季の入った丸椅子が教室の隅にいくつも重ねられている。中央には折り畳みが出来そうな長机がコの字に並べられ、その上にはコンセントから延ばされたいくつもの延長コードの先端が、所々から顔を出していた。
机の上には秀樹ら三人のものと思わしきスクールバッグが置かれている。
室内を全体的に見て物が多いが、小奇麗にされているあたりある程度掃除をしたことが窺える。普通の教室より少し小さな室内は廊下側が少しひんやりとしていたせいか、窓辺から日の光が差し込むことはないがどこか温かく感じた。
そのまま辺りを見回しながら、俺は机のそばに置かれた丸椅子の方へと向かった。
「……えーと、それで俺はどこに座ればいいん――」
「――ようこそ、漫研部室へ」
「っ、びっくりした……って、え、あれ?」
そのしゃがれたいい声は突然背後からしてきたものだから、つい驚いてしまった。後ろを振り向くと、そこには俺よりも背の高い大柄な男が足音を立てることなく壁のように立っていた。
「……アリス先生、いつの間にここに?」
「アリステア、だ。まぁそれはともかく、私は在実君から朝夜君の勧誘が無事成功したという知らせを受けてここに来たのだ」
廊下の方を見てみると、スマホを手にした在実がこちらに向かって手を振っていた。
「はぁ、なるほど。あぁそういえば、先生ってこの部活の顧問でしたよね」
「あぁ、そうだ。だが顧問らしいことはまるでしていない。所詮部の存続のために名前を登録しているに過ぎないのだよ」
なるほど、だから先生は初めから浪川たちが俺のことを勧誘することを知っていたのか。いや待て、そうなると昼休みの一件で先生が笑いを堪えるのに必死になっていたのは……、
「あの、ひょっとして先生。あの時笑いを堪えていたのって……」
「あぁ。事前に君のことを勧誘することは決まっていたが、どのような手段を用いるかは全て来藍君らに任せていたのでね。君の話を聞いた時に初めて、私は君をおびき出すための策を知ることとなったんだ。……ふっ、あまりこういうことを言うべきではないのだが、君が真剣そうにありもしない愛の告白について頭を悩ませていたものだから、つい面白おかしく思えてしまって」
「はぁ、そういうことだったんですね」
先生はあの一連の会話を思い出したのか、声音は大して変わることはなかったが目じりが少し細んでいた。
確かにそういったことなら笑っても仕方がない、とまでは言いたくないが、さぞかし俺の様子が滑稽に見えたのだろう。まったく、俺はこの訴えを込めた鋭い眼差しを誰に向ければいいんだ。とりあえず先生に向けてはいるが、まるで届いているようには見えなかった。
どうしようかと思っていると、やはり気になることが一つあった。
「えーと、それよりもなんだがサ、どうしてお前らはまだ中に入ろうとしないんだ?」
まるで俺をこの部屋に閉じ込めるように、先生や秀樹たちは扉の前で立ち塞いでいた。
この教室は一応外廊下があるが、平時は防犯のために校舎に続く扉に鍵がかけられているらしい。そしてこの教室は隣の部屋へと直接繋がる扉がないため、出入り口は正面の扉しかない。つまり、俺はここから出るためにはまず何かをしなくてはいけないのは確かだ。
それが何かを窺っていると、浪川が先生の後ろから俺の方に向かってきた。その手には入部届とは違ったA4サイズの紙があった。
「朝夜くん。朝夜くんにはこの部活動に入部するにあたって、もう一つ所属していただきたい組織があるんです」
「うっ、まさかその組織ってのは……」
「はい。お察しの通り、朝夜くんも実行委員会に所属してもらいます」
浪川は朗らかな笑みを浮かべていたが、それが故に底知れない圧をひしひしと感じてしまう。
あぁ、これはいわゆる道連れというやつだ。浪川たちが実行委員会に所属している以上、俺だけ所属しないというのも変な話。そして多分、俺が所属に同意するまで秀樹たちは扉の前からどいてくれないだろう。秀樹らはこれまた不気味な含み笑いをしながら俺のことを見ているのだから、間違いないはずだ。
「はぁ……、わかったわかった。所属すればいいんだろ?」
俺は浪川から紙を受け取った。
「はい、ありがとうございます。それにしても、随分あっさりと承諾するのですね」
「だってお前ら、どうせ俺が同意するまでここから出すつもりがないんだろ?ほら、あいつら俺が所属するって言った瞬間に部室内に入ってきやがったからサ」
言葉の通り、立ち塞ぐ理由がなくなったのか秀樹たちはぞろぞろと部室内に入っていき、それぞれの丸椅子に座り始めた。今思えば神社の手前で在実が俺のことを連行すると言ったのは、俺をこの場に閉じ込めることを意味していたのだろう。
「ふふっ、朝夜くんは察しがいいのですね。では、合わせてこちらにも記名と印鑑をお願いします。ペンと印鑑は眩昼さんが持っていますので」
すると眩昼は自身のバッグからペンと印鑑そして朱肉を取り出して、「これ使ってね」と俺の方に突き出してきた。なんと準備のいいことだろう。今日の一連の出来事は事前に計画され尽くしていたことが嫌でもわかる。
浪川は一人奥の机の方に向かいながら「朝夜くんの席はそこです」と、入り口から一番近い席を指さした。俺はその指示に従い着席する。
教室の入り口を基準に、部長の浪川が一番奥。左側を奥から在実と秀樹が、そして右側の奥から眩昼と俺が座る形になっている。
ここでふと思ったことがある。漫画研究部という割には机の上に物がない。きちんと整理されているのではなく、ペンや紙といった絵を描くために必要な最低限のものすらない。疑問に思うことがありつつも、俺はとりあえず入部届と実行委員会所属申請の書面に記入を始めた。
するとここで、先生がいつの間に室内からいなくなっていることに気付いた。あれだけデカいのに、俺の意識の外に出た瞬間に消えてしまうのは何かの能力なのだろうか。
時々だが、図書室内でも同じような現象が起きる。先生は作業をしていない限りまるで気配を残さない。よくあることの一つに、先生が図書室内にいないと思い視線を逸らした瞬間、カウンター前の椅子に腰を掛けていることがある。前職はスパイか何かだったのだろうか?
「あっ、そろそろ先生がアレを持ってくる頃だねぇ」
「……え?」
すると在実は突然そのようなことを口にした。だが耳の感覚をいくら研ぎ澄まそうとも、足音一つ聞こえやしない。しかし俺以外の全員には先生の接近がわかるのか、軽く首を縦に振っていた。
「先生がって、在実には先生の足音が聞こえるのか?」
「ん?聞こえないよ。ただ、そろそろ来るんじゃないかなーって。あ、ほら。来たよ」
教室の扉の方を振り向く。すると在実の言葉の通り、開きっぱなしの扉の奥から黒い大きめのビジネスバッグを手にした先生が、一切の足音を立てずに現れた。
無音で現れる先生も不気味だが、それ以上に先生の存在を知覚できる在実たちも不気味だった。
先生は部員全員から向けられる視線を意に介すことなく、室内に入ると手にしたビジネスバッグを机の上に置いた。
「あの、随分と大きいですけど、これは何ですか?」
「あぁ、これはこの部で活動していくにあたって使用する道具一式だ。とりあえず朝夜君、君が開けてみたまえ」
中身が何なのか見当もつかないが、とりあえず先生に言われるまま俺はバッグを開いた。すると中には厚手の布のケースが二枚と、束ねられたコードがいくつか入っていた。
これは形状や大きさを見るに、おそらく片方は眩昼が高校入学時に買ったノートパソコンだろう。しかし、もう片方の一回り大きな方は一体何なのだろうか。
俺は二つのケースを開けて、中を確認した。
「えーと、こっちはノートPCで、こっちは……――えっ、まさか液タブ?」
「あぁ、そうだ」
液晶タブレット、通称『液タブ』。デジタルイラストを描くときに用いるデバイスだ。画面上に専用のペンを当てることで線を描き込めるモニターとも言えるだろう。
黒々としたデザインのフレームの中央には、傷一つない液晶画面が備え付けられている。サイドにはホイールやいくつものボタンがあり、持ち上げてみるとそこそこの重量があった。
詳しい値段はわからないが、三万円は超えるはずだ。そんなものを先生は持ってきたのだ。
「あの、この液タブって新品に見えるんですけど」
「当然新品だ。何故ならこの液タブは眩昼君が自らの実力で手にしたものなのだから」
「え、どういうことですか?」
訳が分からなかったので、眩昼の方を見てみる。すると何故か眩昼は誇らしさを存分に表情に浮かべて俺のことを見ていた。
「ふっふーん。おにーちゃん、実はあたしってすごいんだよ」
「えーと、はぁ。それで、具体的にどうすごいんだ?」
「コンペで受賞して、液タブもらったんだー」
「……マジで?」
コンペで受賞した、ということは何かしらの作品を制作して応募し、そして見事に評価されたということ。クリエイターとして活動していくにあたって必要な実績を積んだとも言い換えられるだろう。そんなことを、眩昼は俺の知らないところで成し遂げていたのだ。
「だからおにーちゃん、おさわりタイムはそこまでにして今すぐその手をどけて。これはあたしのなんだからサ、欲しかったら自分で買って」
「えっ、あぁ、どうぞ」
そのまま横へと受け渡し、眩昼は自身の手で掴み取った戦利品を満足そうに眺めていた。
「ドライバのインストールと初期設定は全て私の方で済ませてある。だから滞りなく使えるはずだ」
先生がそう言うと、眩昼は感謝の意を口にして早速ノートパソコンを起動した。そして慣れた手つきでノートパソコンと液タブのコードをつないでいく。機械に疎いはずの眩昼がこうもテキパキと作業していくものだから、俺の目にはいささか奇妙に映った。
すると秀樹や在実、そして浪川もバッグから何かを取り出し始めた。
眩昼のとは一回り小さく薄いケースとタブレット端末を三人はバッグから取り出し、ケースの中から薄い板状のデバイスを取り出した。
「お前らのそれって、板タブか?」
「そうです。液タブよりこちらの方が薄く軽くて持ち運びに便利なので、学校での作業はこちらを使っています」
と、浪川は答えた。
板タブも、デジタルイラストを制作するにあたって用いる入力デバイスの一つだ。だが液タブと違い、板タブには画面が搭載されていないため、接続する機器の画面を直接見て描いていく必要がある。三人の場合、接続したタブレット端末の画面を見て描くのだろう。
三人の様子を見ていると、これまた慣れた手つきでタブレット端末と板タブをコードで接続し、画面を見やすくするためにスタンドに立てかけていた。
なるほど、この部室には一切の紙やペンがなかった理由がわかった。浪川たちはアナログではなく、デジタルで創作活動をしていたのだ。それならば原稿の持ち運びや共有がしやすいだろう。
そんな中ただ一人、手持ち無沙汰で皆の様子を眺めることしかできない俺は、書面に印鑑を力強く押し当てた。
「――では、眩昼さん。問題なく作業が始められそうですか?」
浪川がそう尋ねると、眩昼は「問題なっしー」と調子よさげに言ってサムズアップをしてみせた。
その言葉を聞いた浪川は続けた。
「ふふっ、わかりました。それでは早速ですが、ネームの進捗状況の確認と、これからの作業の計画、そして六月に控える『翠黛祭』に向けた定例会議を始めたいと思います」
浪川が開始の合図をすると、眩昼と秀樹は気の抜けた声で返事をし、在実は小さく拍手をした。




