第5話
その言葉は古傷を抉るなどという言葉では到底表現できないほど、俺の精神を貫通して身体にまで損傷を与えてきた。途端に鼓動が脈打つように高鳴り、体の末端は痺れはじめ、視線を真っ直ぐ維持することができない。動かない俺の体は『動揺』という言葉を体現する装置のごとく動き始めた。
そう、俺は意識しないようにしていた過去を、剛速球のごとく浪川から真っ直ぐ叩きつけられたのだ。
「ふふっ、朝夜くんは内面がわかりやすく表に出るのですね」
「……うるせぇ。はぁ、どうして俺と接点がなかったお前が昔の俺の秘密を知っているんだと思ったが、部員にあいつらがいるなら知っていて当然か」
俺の数少ない友人である古谷秀樹には、俺と眩昼が双子の兄妹であるように、在実という双子の妹がいた。そして俺たち春夏秋冬兄妹と古谷兄妹は四人で結託して、中学生の時にとある一大プロジェクトを立ち上げて実行していた。
「はい。――正体不明の四人衆計画、通称『オペレーション・シークレットトップ4』。そして朝夜くんに与えられた称号は、正体不明の第一位。言葉の意味通り、実力と正体を隠しながら定期試験の成績トップを独占し続けることは容易なことではなかったはずです。ですが、朝夜くんら四人は最後まで見事にその王座と秘密を守り抜きました。いえ、それどころか朝夜くんに関しましては、群馬県のトップに君臨するほどの実力を身に着けていました」
と、よくもまぁスラスラと言えたもんだ。浪川は俺たちが中学生の頃にやっていたことを語り始めた。
――でも、やめてくれ浪川。それ以上過去の話をされると、恥ずかしくて顔から爆発する。
自身の過去の行いを他人から丁寧に解説されると、何とも言えないむず痒さに襲われてしまうものだからやめてほしい。
「ですが、今の朝夜くんには当時の面影もありません。それは一体何故なのでしょうか?」
「……」
身を少し傾け、下から突き刺すような視線を浪川は俺に向けてきた。本当に、今の俺にとってはこれ以上ないくらいに深々と突き刺さる言葉だ。そのせいで今この一瞬は浪川の整った顔しか見れずにいる。
「……何故なのかって、そりゃ俺が一番よくわかってるさ。今の俺には、勉強をする理由がないから。いや、生きていく信念とか、目的がないって言うべきか」
本殿へと向かう石段の手前、気付けば自然と俺の口は動いていた。
かつて『アンノウン・ファースト』として輝かしい成績を収めていた春夏秋冬朝夜は、高校入学と同時に嘘のように消えてしまった。それもそのはず、皆で立てていた計画の期間は中学生までの話だ。だから俺は高校生になった瞬間に、無気力に学校に通い続ける凡人になってしまったのだ。
「……なぁ、浪川。お前の疑問に答えるからさ、ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれないか?」
俺が遠くの空を眺めながらそう言うと、浪川は柔らかな声音を一切変えることなく「もちろんです」と一言返事をした。その言葉を皮切りに、俺は誰にも言うことのなかった心の内を溜め息と共にさらけ出す。
「はぁ……。俺はいろいろあって、高校生になってから一人でいるようになったんさ。別にあいつらと仲が悪くなったって訳じゃない。ただ、あいつらといると互いに余計な気遣いをしてしまうっていうか、まぁ、少しだけ俺の居心地が悪くなったんだ」
妹と友人二人を含めた、計三人。中学生の時までの俺はそいつら以外と共に行動することはほとんどなかった。だが決して、俺が人見知りだからそうしていた訳ではない。当時の俺と他の一般的な同級生の間に、精神的な差があったのだ。
同世代で面白いとされているものが、俺にとってはどうも面白いと共感できるものが少な過ぎた。その結果、俺は極めて狭いコミュニティの中に身を沈め、四人で立てた計画の完遂に向けて勉学に励んでいた。
「居心地が悪くなったのは、嫌なことをされたという訳ではないのですね?」
「あぁ、そうだ。むしろあいつらは気味が悪いくらいのお節介焼きさ。だから勝手に距離を置くようになった俺の方が悪い」
この際善悪もない気がするが、勝手に引け目を感じてしまっている自分にとってはこう言った方が適切な気がした。
浪川は「なるほど」と相槌を打つと、俺の方を見ているような気がした。
「朝夜くんは、優しいのですね」
「はは、どのことから俺を優しいと判断したのやら」
「――自分にも優しいが故に、手っ取り早く問題を切り離せる孤独を選んで、逃げてしまった」
「……」
「物語ではよくある状況です」
俺は何も言い返せず、浪川の顔を見ることができなかった。浪川の言葉が俺にとってどれだけ鋭利なものだったのかを示す事実として、これ以上のものはない。煽り文句を言われた訳ではないのに、はらわたが震えるような悔しさが体幹から込み上げていた。
「気分を害してしまったのなら、ごめんなさい。ただ、私から見た今の朝夜くんは先ほどの言葉通りなんです」
「いや、まぁ、わかってるさ。自分でもそのことくらい」
一度ちらりと横目で浪川を見るも、いたたまれなさから目を合わすことができない。俺という人間の弱さを知っている女子に合わす顔もないのだから。それでも、俺が話さないと先に進まないことは確かだ。
一間置いて、一度呼吸を整える。
「まぁ話を戻すと、俺はあいつらから距離を置いたのにもかかわらず、進学して早々に淡い期待をしてたんさ。誰かがまた俺を面白いことに巻き込んでくれないかって。でも結果は見ての通り、何もなかった。でも、それでも自分で何かを始めようと動くだけの余力はまだあった」
一人でできる趣味は何も絵を描くことだけではない。候補は他にもたくさんあった。
「そのことがきっかけで、朝夜くんは物書きを?」
「あぁ、そうさ。このまま何もせず高校を卒業するのだけはつまらないって思って、だから俺は絵描きだけじゃなく、新しく物書きを始めた。でも、さっきお前に言った通りだ。俺は文章を書くことだけならいくらでもできた。でも、自分が納得できるような何かが得られないまま」
登場するキャラクターのデザインや設定を考え、イラストや文章として形にしていく行為は時間を忘れるほど楽しいものだった。だが、物語を書いている途中のふとした瞬間に、調和を保っていた何かが崩れるような感覚に陥ってしまう。
気付けば自分でも段々と言葉に熱が帯び始めているとわかるくらい、思考と声音が同調していく。
「初めは中学生の時みたいに、何かを始めれば再び生きる活力を得ることができるんだと、俺は淡い期待を抱いていたさ。けども、今の俺の没落っぷりを見ればわかる通り、現実はそうじゃなかった。何をしても、どれほど思い悩んでも、先にあるのは先の見えない暗闇だけ。……今の俺はあいつらのもとに帰れないんだ。没落してしまった俺の姿を見られたくないってだけじゃない、距離を置くようにしたのは俺からなんだ」
言葉にしてみると、俺は優しさに溢れた自己中心的な存在のようだ。浪川が言ったように、自分に対する優しさに満ちた男だ。
自分一人だけではうまくいかなかったと今更あいつらに言ったら、あいつらはどんな反応をするのだろうか。言わなきゃわからないことなのに、どうしても最悪の場合が脳裏に過ってしまう。結局俺は自分に優しいから、傷つく結果に結びつく可能性から遠ざかることしかできない。
「……朝夜くん」
隣から落ち着きのある声がする。俺は返事をすることはなく浪川の言葉を待った。
「朝夜くんは、自分がどうしたいのかわかっているはずです。ですので一度、言葉にしてみませんか?その方が私も、朝夜くんの心に寄り添いやすいので」
「……」
その言葉を聞いて、自然と視線だけでなく体までもが浪川の方に向いていた。こんなにも心を揺さぶられる言葉をかけられたものだから、反射的に体が反応してしまっていた。
すると自分の中で、本音をせき止めていた何かが完全に崩れた音がした。もう止まらないと、今まで身を潜めていたそれらは俺の意思に関係なく溢れ出していく。
「俺は、……俺はこのまま無気力に生きたくない。ひとりはもううんざりだ。でも、あいつらが今の俺のことをどう思ってるのかがわからなくて、どうすればいいかわからない。一人でいることに慣れ過ぎて、俺だけじゃ動けないかもしれない。……だから浪川、教えてくれるか。俺は、俺は一体どうすればいいんだ?今の俺には、何があればいいんだろう……」
俺がひねり出したのは、今にも消えてしまいそうなか細い声だった。どうしようもなくみじめに思えてしまう自分が嫌にならないように堪え、それでも精一杯見栄を張ろうとする男の限界だった。
すると俺の言葉を終始穏やかな表情で聞いてくれていた浪川は、おもむろに指を俺に向けて指した。
「ふふっ。その答えは、先ほどから朝夜くんの手にずっと握られているじゃないですか。今はだいぶクシャクシャになっていますが」
「えっ?……あ」
その言葉の通り、俺はスクールバッグが握られていない方の手を見る。するとそこには強く握られたことで皺だらけになってしまった入部届があった。無意識のうちに、俺は入部届の存在を忘れて握り締めていたのだ。
「もう一度、皆で集まりましょう。皆、朝夜くんの帰還を待っていますので」
「でも……」
すると返事をためらう俺に対し、浪川は俺の正面に立つようにずいっと一歩を踏み出してきた。
「大丈夫です、朝夜くんが皆のもとに帰りずらい理由は全て把握しています。それらの解消も含め、どうして私が皆さんの取材を朝夜くんに依頼したのか、その理由を探ってみてください。どうか、私の言葉を信じてくれますか?」
「……」
その言葉を聞いて、トンっと、背中を力強くも丁寧に押されたような気がした。
何故だろうか。俺の悩みに対する具体的な解決策など示されてもいないのに、浪川がそう言うのであれば大丈夫なのだという出所不明の安心感があった。その要因は浪川の優し気な声音なのか、柔らかな仕草なのか、温かな眼差しなのか、はたまたその全てなのか。
浪川が身に纏う雰囲気はとても邪教とは程遠く、背が低く同い年であるのにも関わらず聖母のような温かさが滲み出ていた。
もしかしたら浪川に心の内を明かしていた時点で、俺は救われる準備を、そして今の自分を捨てるための準備をしていたのかもしれない。脱皮不全を起こす手前で、今までまとわりついていた殻を誰かに引き裂いてほしいと。
ようやく俺は決心することができたのか、気付けば浪川の目を真っ直ぐ見れるようになっていた。
「その、……わかった。どうすればいいって聞いたのに、お前の提案を断るのも身勝手が過ぎるよな」
「いいえ、そんなことはありません。ですが、この返事は朝夜くんが考え抜いた先で導き出した答えで間違いありませんよね?」
見上げた眼差しに威圧感はなかったが、問いかけの言葉には俺の決断に対する本気度を窺う重厚感があった。こうされたのならば、相応の覚悟を示すまで。
俺は腐っても男なんだ。その一心で俺は口を開く。
「あぁ、間違いない。……だから決めた。――俺は漫画研究部の部員だろうと、邪教の教祖だろうと、何だってなってやるサ。もう、一人で虚無を味わい続けるのはこりごりだから。向かう先が破滅だろうがなんだろうが、知ったこっちゃない。絶対に、この方が今の何倍も面白そうだから」
俺は自身の決断と覚悟を示すために、腰に片手を当てて胸を張りながら浪川を見下ろした。




