第3話
見るからに気怠そうに見えるであろう人間が一人、とぼとぼと歩みを進めてため息を吐く。
「はぁ」
放課後になると、普段の俺であれば韋駄天の加護を受けるが如く、誰よりも早く学校を出ていくものだ。だが今日はいつもと違う。――そう、俺は先生から伝授された奥義を携え神社の参道を上がっていくのだ。
黄色の蛍光色をしたクロスバイクを駐車場の近くに止め、スクールバッグを担ぎながら鳥居をくぐると、途端に別世界に迷い込んだような違和感を覚える。
緩やかな傾斜の参道の上方には、名前はわからないがとにかく背の高い木々がアーチのようにかかっているため、日が差している場所と比べて薄暗く涼しげな静けさが満ちていた。
絶えず吹いてくる風にガシャガシャと忙しなく揺れ動く木陰は、まさに今の俺の心境を鏡面のように映し出しているように。一段、また一段と上がる度に、木々の騒めきは俺と同調して激しさを増していく。閑静であるはずの境内だからこそ、余計に風音が耳障りだった。
――周りに怪しい人影は……、ないか。
罰ゲームやドッキリであることを警戒して周囲を注意して見渡すも、人影一つない。だが今となってはむしろドッキリである方がマシだとすら思っている。もしそうでなければ、浪川が接点のない俺を選んだ理由がわからず不気味だから。
考え事をしていると、気付けば景色が変わっていた。
「――いた」
ある程度参道を上ったところで、俺をこの場に呼び出した張本人の姿が光の当たる場所に見えた。
春風すらも自身を引き立たせる舞台装置のように、髪に流れをまとわせた可憐な少女、浪川来藍。両脇に構えるたくましい様相の狛犬は、まるで浪川を警護する従者のように。待っている姿だけでも、映画のワンシーンにそのまま転用できるのではないかという完成度に、俺は思わず少しの間立ち止まって見入ってしまった。
すると浪川は俺の気配に気づいたのか、くるりとこちらを振り向いた。
「あっ、春夏秋冬くん。約束通り来てくださり、ありがとうございます」
ただのお辞儀をしただけなのに、どうしてこうも見入ってしまうのだろうか。今から俺はこの人を振ることになるかもしれないのに、何故かそれが心惜しく感じてしまう自分がいた。
「あーその、なんだ、礼はいいさ。それよりも、俺に話したいことがあるんだろ?」
「はい。……ですので、聞いていただけますか?」
その表情と声音は俺の内心とは正反対なもので、驚くほど落ち着いていた。だからこそ、これから俺が告げる返答でその表情が崩れることが嫌だった。
「あぁ、なんだって聞くよ。まぁほら、だからいつでも、どうぞ」
あまりの動揺に自分でも何を言っているのかわからなくなってしまうが、何とかして浪川の目を見る。俺がどんな返事をするにしろ、まずは相手の言葉を受け止めなくては。
「では、まずは手短に、率直にお伝えします」
「……わかった」
「――春夏秋冬くん。もしよろしければ、私と――」
俺は固唾を飲む。
この先の言葉を聞きたくないがあまり、脳が勝手に時の流れを止めようとする。だが俺は超能力のない普通の人間だ。俺の中で渦巻く思いなど知らないで、時は残酷にも独りでにコマを進めようとする。
意を決したかのように浪川は一呼吸整え、体の前で握られていたスクールバッグに強く力を込めた。
――そしてついに、その時が来てしまった。浪川は口を開いた。
「私と一緒に、――――――邪教の教祖になってくれませんか?」
「ごめん浪川。俺には付き合っている人がいて…………――――――えっ?」
反射的に俺は返事をするも、聞き入れた浪川の言葉の意味を処理できない脳みそが、瞬間的に膨大な量のエラーを吐き出した。
処理落ちしてしまった頭は体が呼吸を必要としていることをとうに忘れ、心臓だけが俺を生かそうと必死になって動いている。そして俺の意識は現実から完全に乖離され、真っ白な空間に俺と浪川だけが立っていた。
――『じゃきょう』と、浪川がこう言ったことは確かだった。
俺の語彙では『じゃきょう』と言われると、一切の思考を挟む間もなく『邪教』と変換される。その意味とは、文字通り人の心を惑わす教えを広める邪悪な宗教、というものだ。
愛の告白の途中で『じゃきょう』と聞こえたならば、それはただの聞き間違いかもしれないと思えるものだ。だが浪川は確かにこう言った。――「私と一緒に、邪教の教祖になってくれませんか?」と。
今からでも別の意味を探ることはできないだろうか?いや、無駄だ。ここまで出揃ったのならば、後はもう言葉の意味通りでしかない。『私と一緒に、ヤバい宗教を始めませんか?』と、俺は少しの間を置いてやっと理解した。
そうとなれば俺がすべき行動はただ一つ。
――まずいまずい!今すぐここから逃げるんだ春夏秋冬朝夜!
ここにきて生存本能が俺の身に再び韋駄天の加護を宿し、今すぐその場を後にするため風のごとく一目散に逃げ出そうとした。
「――待ってくださいっ、春夏秋冬くん」
「っ……」
風が止んだ。
その一声は、俺の身に宿る力をいとも容易く打ち消してしまった。結果として、俺は参道を下ろうとしたところで浪川に呼び止められ、何故か理由もなく足を止めてしまった。浪川の透き通った一声には、俺をそうさせるだけの魔力が込められていた。
だがどうしたことだろうか。俺は恐る恐る振り返ると、意外なことにそこには先程の強烈な言葉を言ったとは到底思えないような、誰も傷つけない柔らかな眼差しがあった。
「まずは手短に、率直に話すとお伝えしましたよね?私の話はまだ終わっていません。どうか、最後まで聞いていただけないでしょうか?きっと、このままでは私が誤解されたままになってしまいますので」
「うぅっ……」
多分、この世で一番綺麗な瞳が、俺の身と心を捕らえて放さなかった。
恐るべし、浪川来藍。その所作全てが自身の無害さをこれでもかと前面に表しているようだ。
あぁ、どうしたものか。確かに俺も気になることがたくさんあるし、正直言って浪川と話をしてみたかった。――何故邪教を始めるのか、そして何故その相方として話したこともない俺を選んだのか、と。今まで接点もなかった男子に声をかけたのだから、何かしら理由があるはずだ。
ほんの一呼吸の間に、生存本能と興味本位が激しいせめぎ合いを行った結果。俺が選んだのは、
「……はぁ。――わかったわかった。最後まで、どんな話だろうと聞いてやるよ。そう言ったのは俺だし。だからどうぞ、早く誤解を解いてくださいな」
おかしな人物に目を付けられてしまった時点で沈みかかった船どころか、沈んだ船の上に立とうとしているようなもの。もう今から何をしても無駄ということだ。
でも何故か、この状況に期待をしてしまっている自分がいる気がしてならない。今の俺は現状をぶち壊すような破滅を、心のどこかで求めていたのかもしれない。
このまま虚無に足を引きずられたままの高校生活を送っていくのであれば、たとえ沈没する未来があったとしても、自分が面白いと思える方向に舵を振り切る方が楽しそうだ。と、そう考えてしまう俺が確かにいた。
そんな吹っ切れた様子の俺を見た浪川は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
「ふふっ、ありがとうございます。では少し、場所を移しながら話をしましょうか」
「……あぁ、わかった」
こうして、俺は突拍子もないことを言い出した美少女と並んで、本殿へと敷かれた石畳の上をゆっくりと歩き始めた。




