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思想も強けりゃ邪教に至る  作者: 北村 陽
初夏【2021年4月末】
4/4

【異質の章-1-】

 ――俺の日常に亀裂が入ったあの日。一年かけて強固に築き上げたと思っていた平穏は、たった一日の出来事でいとも容易く崩れてしまった。その平穏というものはもともと基盤がもろかったのだろうか、それとも浪川の圧倒的な力量によってなのだろうか。どちらにせよ、今の俺の気分はいい感じに砕けてサラッとしている。

 自分に対する過度な優しさが引き起こした孤独は、今では跡形もなく姿をくらませている。そう、放課後の美術室に行けば、あいつらがいるのだ。自称群馬で一番運のいい男、元カノであり遊びの天才である者、アホそうなふりをしている妹。そして、邪教の教祖になりうる器を抱えた者。

 放課後の活動といっても、漫研らしいことを常にしている訳ではなかった。各自授業中に出された課題をやっていたり、気晴らしにラクガキ程度の絵を描いたり、内容の薄い会話を繰り返しながら笑ったり。学校内における一つの居場所として、部室は存分に機能を果たしていた。

 第二校舎の三階の廊下を一人で歩きながら、いつものように考えを巡らせてみる。

 俺が距離を置いていた一年で、秀樹たちは随分と変わっていた。当然、人間としての根幹に変わりはないが、創作活動に対して熱心に取り組むようになっていた。俺も物書きをしているが、始めた動機や続けている理由があまりきれいなものじゃない。

 思えばあいつらが創作活動を始めたきっかけは何なのだろうか。在実は元から絵を描いていたが、秀樹や眩昼に関しては高校に入学するまで一切絵を描いたことがないはずだ。

 ――その点は後で個別に取材をすることで聞き出すことにしよう。そう思いつつ、俺は部室の扉を開けた。


「……失礼しまーす」


「あら、朝夜くん」


 入室早々に声をかけてくれたのは、浪川だった。テーブルの上には数学の問題集とノートが広げられ、学年一位の学力の所以(ゆえん)たるものが窺える。


「やぁ、どうも。それよりあいつらは?」


 互いに会釈を済ませざっと室内を見渡すと、今は俺と浪川の二人だけで秀樹たちはいなかった。


「皆さんでしたら、今頃帰宅していると思います。金曜日は各自が最も集中できる環境で作業を行う日と決めていますので」


「なるほど」


 俺は一言返事をしながら席に着いた。各自が最も集中できる環境ということは、浪川にとってここが最も集中できる場所なのだろう。会話が一区切りつくと、浪川は真剣な面持ちで問題を解き進めていた。

 浪川の集中を乱さぬために、俺も黙って手を動かそう。そう思い、俺はバッグから紙を一枚取り出して、浪川に悟られない程度に視線を傾けた。そして線を重ねるように、シャーペンの先を紙面にこすりつける。今から俺は、勉強をしている浪川の姿を模写するのだ。

 髪の流れや質感、光沢といったものを描き込む前に、まずは全体のシルエットから描き始める。重ねる線は荒く薄くも、バランスが崩れぬように丁寧に。そして幾重にも重なる線(候補)から納得のいく一本を見出し、今度は力強く濃い線を引いていく。

 手慣れた作業工程だが、この基盤となる形を作っていく工程こそが模写の要と言っても過言ではない。形が崩れていては、いくら上手に描き込みができたとしても納得できない仕上がりになってしまうからだ。

 何度も描いては消してを繰り返し、浪川と認識できる線の集まりになるように芯を擦り減らす。気付けば手の側面は黒鉛によって薄黒く汚れていた。

 髪よし、手先よし、ほっぺた、よし。浪川を描く時のこだわりポイントは全て押さえた。

 ――さて、なかなかにいい感じではないだろうか。

 ある程度形が整ったところで、いよいよ描き込みだ。光の当たる箇所や影、部位ごとの質感、それらを丁寧に表現していく。

 髪の流れは線で表し、頬の柔肌に差す影は黒鉛がのった紙面を指でこすることのよって滑らかに。実物と何度も見比べて、その都度加筆して質感を高めていく。この繰り返しを続けていると、自覚がないままあっという間に時間が過ぎていった。


「……ふぅ」


 継続していた集中状態を解除し、その解放感から俺は伸びをする。模写がひと段落つくと、俺の右手の側面は黒鉛によって更に黒ずんでいた。そしてその手にあるのは、紛れもなく浪川と呼べる存在が描き込まれた一枚の紙だ。

 我ながら、独学にしてはなかなかの腕前だと思う。しかし誰かに見せるつもりはないため、俺は一人満足しながら紙をバッグにしまった。

 視線を浪川の方に向ける。依然として、浪川は集中を途切れさせることなく問題を解いていた。俺だったら、誰かがそばにいるとそっちの方に気が向いてしまって集中できたものじゃない。

 俺は席を立って、秀樹の席側にある水道で汚れた手を洗った。


「満足のいくまで、私を描けましたか?ふふっ」


 後ろを振り返ると、浪川がこちらを見ていた。この言い方から察するに、俺が浪川のことをチラチラ見ていたことはばれていたのだろう。


「あー、もしかして視線が煩わしかったか?すまん、一声かければよかった」


「いいえ、むしろ熱心に描いてくれているなと感心してました。ふふっ、朝夜くんは私のほっぺがお気に入りなんですよね。以前からよく見ているなと思っていましたので」


 そう言って浪川は自身の頬を指で突いた。


「えっ、あぁ、いや。別にそういう訳じゃないんだけどサ……。ただ、柔らかくてあったかそうだなって……あぁっ、なんでもない」


 ――あぁっ、余計に気持ちの悪くて変なことを言ってどうするんだ。何の言い訳にもなってない。

 だが、相手が浪川の時点でどこか見透かされていそうな気がしていた。今更取り繕おうとしたって無駄なんだろう。恐らく俺がほっぺ好きということは、在実から伝わっていることだろうし。

 いたたまれなさから俺はそそくさと席に戻り、ペンケースをバッグにしまって帰り支度を早急に済ませた。


「あら、もう帰るのですか?」


 席の近くから離れようとしたところで、浪川から声を掛けられる。


「まぁ、やることが特にないし、明日の取材のことを考えようかなーって」


「そうですか。それで、どちらに取材をしに行くのですか?」


「えっと、どうやら群馬にスコットランドから移築された城があるらしいから、それを見に行くんサ」


「あぁ、ロックハート城のことですね。一度訪れたことがあります」


 ファンタジーの舞台設定でよくあるものとして、中世から近世のヨーロッパを題材としたものがある。それは石造りの街並みに、茶色や金色といった髪色の人々、馬車が往来する賑やかな通りといった、ファンタジー要素を示すものとして非常にわかりやすいものが詰め込まれているからだ。

 今回俺が取材をしに訪れる場所は、日本にはないヨーロッパの雰囲気を感じられる景観があるらしい。物語の設定を考える前に、まずは舞台となる場所の雰囲気を考えた方がよさそうだ。そう考えて、俺はロックハート城を訪れることにした。


「浪川は行ったことがあるんだ」


「はい。小説の舞台となる場所の雰囲気をつかむために、去年訪れました」


「なるほど」


 確かに、浪川が描いている漫画の舞台はファンタジーであり、雰囲気の取材にはぴったりな場所と言えるだろう。


「私にとっては作品のための取材でした。ですが、朝夜くんにとっては違った目的もあるのではないですか?例えば、誰かを誘って取材をしてみる。とか」


 心を見通すかのような眼差しで、浪川は俺のことを見ていた。もしかしたら、浪川は俺が在実を誘ったことを知っているのだろうか。

 俺は離れかけた席に腰を掛けた。


「もしかして、在実から聞いたのか?俺が一緒に行かないかって誘ったことを」


「いいえ。ただ、朝夜くんが一番最初に取材をするとしたら、在実さんかなーと思っただけです。過去について二人きりでゆっくり話せる場所というのは、この学校ではあまりありませんからね」


「……その口ぶりってのはサ、浪川は俺と在実がどんな関係だったのかを知ってるんだ」


 俺がこう言ったのには理由がある。――俺と在実が付き合っていたということは、秀樹や眩昼ですら知らないことだからだ。そんな機密情報を在実が浪川に話すとは到底思えないが、意味ありげなことを言った時点でかつての関係を知っていることはほぼ確実だ。

 すると浪川は首を少し傾けながら、


「知っている、と言うべきでしょうか。直接在実さんから聞いたわけではないので、何とも言えないのですが……」


「ん?どういうことだ?」


「そうですね。在実さんが以前書いていた作品の原稿に、朝夜くんに似た人が登場していたんです。背が高く、交友関係が少なく、不愛想だけど無責任な性格じゃない。そんな彼との結末は、恋心というものの正体がわからないまま関係が自然消滅していった、というものでした」


「……」


 浪川の言葉を聞いた瞬間、全てを理解した。これは紛れもなく、かつての俺と在実の実体験をもとにした物語だ。そして俺が在実といるのが気まずくなり、距離を置くようになった最大の原因でもある。

 思い出さないようにしていたことだが、いずれただの過去の出来事として顧みることができるように、もう一度在実と話しておきたい。そう思って俺は在実を取材に誘った。


「はぁ、そういうことだったのか。ってことはサ、秀樹や眩昼もその原稿を見てなんとなく俺と在実の関係を察してるってこと?」


「いいえ、そうではないはずです。その原稿となる文章は、私にしか見せていないと言っていましたので」


「……ふーん」


 あぁ、その原稿にどのようなことが書かれているのかが非常に気になる。俺は非情な男として描かれているのだろうか、それとも魅力のない石ころのように描かれているのだろうか。知りたくないという気持ちが大半だが、同時に自分がどういう人間なのかを他者目線から知ってみたいという興味もある。


「でも、よかったですね」


 すると突然浪川は訳の分からないことを言い出した。


「よかったって、何が?」


「在実さんが朝夜くんとの思い出をどう捉えているかについてです。朝夜くんにとっては思い返したくもない過去かもしれませんが、在実さんにとっては作品にしたいと思える出来事だった、ということです」


「…………」


 言葉が詰まる。

 物は言いようだと言いたいところだが、浪川の言葉が理解できないこともなかった。確かに物語の題材として、俺と在実の過去の関係は十分なものと言えるだろう。どのような過程を経て付き合う関係になり、どのような経緯で関係が静かに消滅していったか。これは実際に体験したことのある人でなければ、事細かく心理描写を書くことは容易でないはずだ。

 俺は思わず言葉を失ってしまったが、同時に新たな視点を得ることができた。これだけで少し、明日の取材に対する負の感情が和らいだ気がする。


「やっぱ、浪川はいろんな視点をもっててすげーな。なんだかちょっとだけ、気が紛れたかも」


「ふふっ、私はいずれ邪教の教祖になる人間ですもの。人に新たな視点を植え付けることくらい、容易いことです」


「はは、邪教の教祖か。そういえばそうだもんな」


 得意げな表情に声音、浪川は怪しい言葉を言うときは決まっていつもこうだ。単純に冗談を言っているだけなのか。それとも、心の裏側に潜む言葉にすべきでない本音が漏れ出てしまったことを誤魔化しているだけなのか。先日の出来事で、浪川は普通の人間と比べて精神構造にかなりの違いがあることがわかったので、余計にそのようなことを考えてしまう。


「……あっ、そうだ。あのサ」


「はい」


「こうして今の在実たちと話すようになったけど、正直言って昔と何も変わっていないような気がするっていうかサ。その、思想というか、内面がわかりやすく変わったなと思わなかったんだけど……」


 この数日間、俺はあいつらに対して常に探りを入れるようなことはしなかったが、浪川の言う俺とあいつらの間にある違いというものを見つけることができなかった。その違いのヒントとなるものが”思想”なのだが、思想の片鱗すら見つけられないままだった。


「ふむ、そうですね……」


 浪川は考え込むように一度斜め上の方を見上げると、「少しだけ、お話をしましょうか」と言って視線を再びこちらに戻した。


「今、こうして朝夜くんと話している私と、普段の教室での私。実はかなり違いがあるんですよ」


「違い?それってどんなのサ」


「考えてみてください。声音や表情や態度といったものは、相手やその人数といった状況によって変わるものです」


 すると浪川の柔らかで自然な表情に不気味さが混じり始めた。内側に潜む何かを、敵意を与えない笑みによって隠している。そんな印象だ。


「何を心の内に秘め、何を相手に伝え、何を相手に求めるのか。もし、こういった段取りを適切にしなかった場合、どうなると思いますか?――普段からこのように底知れない不気味さをまとっていたら、教室でどうなってしまうと思いますか?……ふふっ」


 と、愉悦を帯び細んだ目じりが問いかける。俺の視線が完全に浪川に固定されてしまったのは、妖しさが混じった声音と口ぶり、そしてそれらを完全に調和させた笑みを向けられていたから。一瞬にして、浪川の精神世界の境界に足を踏み入れることとなった。


「それは、その……」


 浪川は一例としてこのような演技をしている。しているとわかっているが、あまりにも本物に近い。作り物を見せようというつもりでは再現できない、紛れもない不気味さが憑依していた。


「ふふっ、お手本のような反応をありがとうございます。どうでしたか?先ほどの私は」


 と、気付けばいつもの浪川に戻っていた。


「……えーと。まぁ、正直不気味だけど、いつもの浪川らしいというか。でも、普段はこんな感じじゃないだろうなとは思う」


「そうですか。では、このことを踏まえて、どうして表面上の在実さんらに変化がないかを考えてみましょう」


 浪川は机の上に広げられた問題集やノートを片付けながら続けた。


「人は皆、それぞれの意識、あるいは精神があって、それらを相手のものとすり合わせることで意思疎通をしています。今の私がこうして朝夜くんと話をしているのも、心のすり合わせを全身を使って行っていると言うことができるでしょう」


「……なるほど。すり合わせかぁ」


 浪川はおもむろに立ち上がってゆっくりと室内を歩き出す。その様子を目で追いながら、俺は恒例の思案タイムに没入する。

 意識や精神をすり合わせるための行為、つまりはコミュニケーションの一つの手段として会話というものがある。浪川はそう言っているのだろう。

 精神というものは人間が勝手に作り出した概念に過ぎないが、実体のないものにしては形があるように思える。その大まかな理由として、体は精神と同調して表情や態度などをを作り出すからだ。

 このように考えると俺の目の前にいる浪川という実体も所詮はただの器であるが、今の精神状態を記号のように他者にわかりやすく伝えるための装置とも言える。


「当然のことながら、このすり合わせというものは人数や誰が相手なのかといった状況によって変化していきます。例えばこの部室では、すり合わせる相手は親しい相手になると思います。昔からよく知っている、馴染みのある相手です」


 うろうろと練り歩いたところで、浪川は在実がいつも座っている席に腰を掛けた。――そしてサイドテールの髪留めをほどき、手慣れた様子でポニーテールへとヘアスタイルを変化させた。


 ――そう。何故か浪川は、在実になりきろうとしていたのだ。


「……浪川?どうして急に髪型を……」


「――それじゃあ朝夜くんに質問するねぇ」


「……」


 突然浪川から、浪川じゃない誰かの声がした。ほんの少しゆったりとした発声に、特徴的な間延びした語尾。それは在実に最も近しいものであるとわかるが、目の前にいるのは浪川であるため脳がうまく状況を処理をしきれずにいる。

 食品サンプルや造花とは違い、本物の質感をまとった精巧な偽物を浪川は用意してくれていた。


「もしも私が、普通じゃない考えを持っていて、急にそれをさらけ出したら。朝夜くんたちはどんな反応をすると思うかなぁ?」


 ――あぁ、このままロールプレイを続けるんだ。

 そう思いつつも、俺は口に出すことなく言葉を続けた。


「それは……。まぁ、急にどうしたんだ?とか、気でもおかしくなったのかなぁって思う、かな。……――ってあぁ、そういうことか」


「お、何か気付いたかなぁ?」


 在実(浪川)が首をほんの少し傾けて問いかけてくる。

 ここまで誘導されて、ようやく俺は在実たちの内面の変化に気付けなかった理由が分かった気がする。いや、当たり前のことに気付いたと言うべきだろうか。


「そうだな、言葉にするならこうだ。――長い間付き合いがあるからこそ、相手は自分のことをよく知っている。けど、自分がまださらけ出していない部分を親しい相手に知られたときに、よく知られていることがかえって相手に強烈な違和感を覚えさせてしまう原因となる。ざっとこんな感じだろ?」


 簡単に言えば、在実たちは自分が変な子だと思われないようにしているだけなのだ。よく知っている、つまりは相手の中でこの人はこういう人だという認識が強固であればあるほど、余計に自分のさらけ出していない部分を相手に知られたくないものだ。急にどうしたん?と、思われてしまうから。

 いい感じに考えがまとまった。すると正面からぺちぺちと細かな音が聞こえた。


「おぉ、さすが私の朝夜くんだ」


「だろ?……っておい、ちょっと待て」


 俺にとって聞き覚えのある言葉を、在実(浪川)は小さく手を叩きながら口にした。だが、このことに関して少し問題がある。そう、この言葉は俺がまだ在実と付き合っていた頃に在実からよく聞いた言葉だ。それも、二人きりの時だけに聞ける言葉。仕草も酷似しているため、どこか気味が悪い。


「……そのセリフ、何で浪川が知ってるんだよ。在実が俺と二人きりの時しか言ってない言葉なのに」


「へへ、それはさておきぃ。朝夜くんは、どうすれば私から思想を引き出せると思う?」


「随分と強引に話を逸らしたな……。まぁ、そうだなぁ」


 どうすれば在実から思想を引き出すことができるのか。天井を仰ぎ見ながら考えを巡らす。

 直接聞いてしまうのは、俺が頭のおかしい人だと思われかねないため却下だ。もっと、明日の状況を想像して作戦を立ててみるべきだ。


「明日は二人きりで、俺は作品のための取材をしていて、在実が同伴している……。うーん、どうやって精神をすり合わせるべきか」


 方法はいくつかあるのだろうが、それが具体的で明確なイメージに繋がらない。在実が抱えている思想がどういったものなのかがわからない以上、うかつなことをするともれなく俺は頭のおかしい人になってしまう。

 少しの間頭を悩ませ、結局俺は助けを求めるように在実(浪川)に視線を送った。


「ふふっ、私の朝夜くんでもさすがにお困りのようだね」


「うん。在実の思想の手がかりさえ掴めればなぁ」


「ふーん。それじゃあ私から特大のヒントを特別にぃ」


 すると浪川は席を立って足早に俺の方に近づいてきた。何をするのかと見ていると、


「ちょっと耳かしてー」


「えっ、あぁうん」


 背後に回り込んできた在実(浪川)は、ためらう様子もなく俺の耳元まで顔を近づけてきた。突然の接近で心の準備ができていない俺の心は荒ぶりかけるも、何とかして耳元へと意識を集中させる。が、今は自分の挙動を正常に行うふりをするだけで精いっぱいだった。


「へへっ、それじゃあ一度だけ教えてあげるね」


「……うん」


 大してありもしない唾を飲み込み、言葉を待つ。


「――私はね、朝夜くんの存在ですら、作品作りのための題材に過ぎないって思ってるんだぁ」


「――――…………」


 耳元で囁かれたいたずら気混じりの声が、聞こえなくなった今でも脳内で強く反響している。在実(浪川)は言い切った途端に俺のそばを離れたが、体温や気配や匂いまでもが感覚として神経に焼き付いてしまっていた。

 言葉の羅列だけが記憶され、意味を噛み砕き味わう作業は完全に停止している。体を自由に動かせるはずなのに、動かそうにもぎこちなさが表れてしまいそうで身動きが取れない。――俺は遊びの天才を憑依させた少女に、心をもてあそばれて(・・・・・)いた。

 かろうじて動く視線に映る在実(浪川)は、バッグを手にして部室の扉の方へと足早に向かっていた。


「さて、それじゃあ私は帰るねぇ。鍵閉めよろしくー」


「あっ、うん。……えと、じゃあな」


「ばいばーい」


 手を振る在実(浪川)に手を振り返すと、まともに返事もできないうちに在実(浪川)は部室を出て行ってしまった。パタパタと、在実らしい軽快な足音が廊下に響いている。


「……はぁ」


 一人だけになり、真っ先にとった行動は、深呼吸だった。

 しばらく半開きになった扉の先を眺めていると、少しずつ正常な自分を取り戻していく。ようやく浪川が残した特大のヒントについて考えられるようになったきた。


 ――俺ですら、作品作りのための存在に過ぎない。


 この言葉を聞いて真っ先に思いつくのが、浪川が言っていた「俺との思い出は、物語にしたいと思えるものだった」という言葉だ。

 これら二つの言葉をすり合わせると、ある程度在実が抱えている思想がどういうものなのかがわかってきた気がする。――そう、在実にとって現実の存在や出来事というものは、所詮物語を作る上での題材に過ぎない。

 たとえ相手が誰であろうと、どんな経験であろうと、それらを全て題材として扱う。クリエイターらしい思想であるが、別に隠すほどのことでもなければ、口にするほどのことでもない。だが、相手に知られれば「変な子だなぁ」と思われるような思想だ。


「なるほど、なぁ」


 この推測が正しければさっきよりもずっと、在実の思想を完全に引き出すための作戦を練ることが出来そうだ。

 会話というものは、精神をすり合わせる行為の一つであると浪川は言っていた。これらの行為は相手の精神の状態や種類、それらを考慮して行うものである。

 ――ならば、俺の精神を在実のものと近づけてみればどうだろうか。自分と同じような変わった思想を抱えている仲間だと思わせることができれば、在実は心の裏側を俺に見せてくれるのではないだろうか。

 失敗すればただの変な人になりかねない諸刃の剣のような作戦だが、それでも試してみる価値は十分にあるはずだ。何故なら俺は浪川に様々な考え方や視点を与えられて、以前よりも世界の見え方が変わってきた気がしているから。だから在実の思想がどんなものであれ、きっと得られるものがあるはずだ。


「……フ、フフッ」


 込み上げてきた高揚感が薄気味悪い含み笑いとなって、消えていく。この感覚は、中学生以来だ。

 とある目的のために何かを演じ、周囲を欺く。そうだ、俺は他者に知られることのない秘密を抱えているというだけで、毎日が楽しかったのだ。

 今回の相手は在実ただ一人であるのに、何故だか大きな満足感を得られる気がしてならない。今まで散々振り回されてきた分、今度こそ俺は遊びの天才に勝ってみせる。


「――どうした?何か悪だくみでも思いついたのかね?」


「いっ!?……って、あれ?」


 それは突然の、そしていつもの出来事だった。

 心臓が止まりかける思いを俺にさせたのは、前触れもなく聞こえてきたしゃがれたいい声だった。

 廊下の方を見てみると、先生は半開きになった扉の隙間から半身だけを覗かせて扉の前に立っていた。


「そう何度も驚くな。私とて、君を脅かすつもりはないのだから」


「だ、だったら足音くらいさせたらどうですか!毎回毎回音もなく現れて!その、びっくりしたというか、恥ずかしいところ見られたじゃないですか!……あぁもう」


 最悪だ。よりによって、俺の一番気持ち悪い部分を先生に見られてしまった。何であの人は足音がしないんだ!足音を立てることくらい、誰だってできるだろ。

 俺が両手で顔を覆っている間に、先生は部室の中へと入っていった。


「ふむ。このような状況であるが、ここに来た目的を果たすとしよう。私は君に一つ提案をしに来たのだよ」


「……提案、ですか?」


「あぁ。よければ明日、私の車で君と在実君を取材場所まで送り届けよう」


「……マジすか?」


 それは俺にとって思ってもいない提案だった。

 ロックハート城へのアクセスは駅からタクシーを利用しなければならないため、高校生にとっては交通費だけでもそれなりの金額がかかってしまうのだ。しかし、その問題が先生の提案で解決することとなる。これほど魅力的な提案はないと言えるだろう。


「以前来蘭君が訪れた際も、私が送迎を担当したのだよ。そして、今回私がこのような提案したのは来蘭君直々の要望があってのことだ」


「浪川……。そうだったんですね」


 そこまでして俺の取材をサポートしてくれるだなんて。何か裏があるとしか思えないが、ありがたいことに変わりはないため心の奥に疑心を沈めておく。


「それで、この提案を君はどうするのかね?」


「えーと、とてもありがたいことなのでお願いします。それにしても、先生って意外と顧問らしいことするじゃないですか」


 すると先生は一度視線を逸らして、何かを思い出すように目じりを細めた。


「はは。かつて私が若かりし頃、浪川家に色々と助けてられたものでね」


「えっ、それじゃあ浪川と先生って知り合いだったんですか?」


「あぁ。来蘭君がアメリカからこの高校に来たのは、私がこの学校に勤めているからだ」


「はえぇ、そうだったんですね」


 まさか先生と浪川にそんな関係があったとは。先生の言葉から考えるに、先生は浪川家の人に助けてもらった恩義に報いるために浪川の要望に応えているのだろう。

 このような事実を知ると、先生の過去についても取材してみたくなってきてしまった。まだ在実の取材すら済んでいないのに。


「それでは明日の予定と集合場所について決めよう」


「はい、そうですね」


 ――こうして俺は先生と明日の取材について話し合いをすることとなった。

 俺の取材に協力してくれる人が想像していたよりも多く、嬉しい反面する必要のない余計な緊張をしてしまいそうだ。

 必ず在実が抱える思想を引き出し、俺の作品作りの題材として活用してやる。その気概を胸に、俺は眠りにつくまで明日の作戦を何度も考えていった。

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