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思想も強けりゃ邪教に至る  作者: 北村 陽
晩春【2021年4月中旬~】
2/13

【序章-1-】日常の崩壊は美少女と共に

 味気なかった高校生活も一年が終わり、二年生へと進級したものの、依然として虚無の気配が足を引きずったままの今日この頃。

 春の陽気が満ちたほのかに古臭い教室は、昼休みとなってがやがやと人の往来で騒がしくなっている。

 教室の窓の先から見えていたはずの桜花は今となってはその影もなく散り、草木はどれも変わり映えなく青々としている。風が運ぶ匂いも、どこか張り切っているような気がしてならない。

 高校二年生になった『春夏秋冬(ひととせ)朝夜(あさや)』は、今日も昼休みに一人教室の隅の机で、頬杖を突きながら日向ぼっこをしていた。

 一年前も同じようなことをしていたが、その時は淡い期待を常に抱いていた。どんな期待かというと、誰かが話しかけてくれるのではないかという儚い期待だ。

 だが今はそんなことをしていないということは、そういうことだ。昼休みにもなってじっとしているやつに、話しかけようとするやつはいない。

 だから代わりに考え事をするようにしている。今は何について考えているかというと、魔力という存在の正体についてだ。

 もちろん現実は魔法などのファンタジー要素の一切が存在しない、退屈なくらい普通の世界だ。だからこそこういったことを考えるのが楽しいものだ。


 ――魔力の正体を仮に微細な粒子だとすると、それは宇宙から飛来してくる宇宙線の一種だと考えた方が理にかなっているな。そうすればどこにいても魔力が存在するということが説明できる。そうなると、術者が魔力を蓄えるというのは、身体に微細な粒子を蓄える仕組みができていると考えられるな。魔力を蓄える場所はどこにしようか。……そうだ、脊椎やその付近の尾骨や翼の骨にしよう。そうすればドラゴンや有翼人といった尻尾や翼がある種族が、普通の人間よりも強いという設定が作れる。


 はは、我ながら天才だと、思案タイムに一人耽っていると、教室の扉がガラリと開いた。

 出入りの激しい昼休みだから特段気にすることなく思案タイムを続けようとすると、


「――春夏秋冬(ひととせ)くん、春夏秋冬(ひととせ)朝夜(あさや)くんはいますか?」


「……ん?」


 それは退屈なくらいに平穏で平凡な俺の人生に、イレギュラーが生じた瞬間だった。

 その声は騒々しい教室内でもはっきりと聞こえるほど、透き通った落ち着きのある声だった。

 すると俺が声の方を向くよりも先に、周囲の目が俺の方に向いていた。それもそのはずだ。何故なら声の主は、この学年では誰もが知っている学力一位の優等生――『浪川来藍(こらん)』なのだから。

 この学校の女子の制服は、白と黒を基調とした、明暗がくっきりと分かれているデザインだ。

 絹が逆に質感を寄せたのではないかと思えるほど、滑らかで艶のある黒髪は白紐でサイドテールに。傷一つない珠のような透明感のある白い柔肌に、切れ長の目そして小さな唇。

 誰がどう見ても美少女と言わざるを得ない月のような存在が、スッポンの名を呼んだのだ。そりゃあ誰もが俺を見る訳だ。

 少々の気まずさから、浪川に呼ばれた当の本人は返事をしないでやり過ごそうとするも、


「……あっ、見つけました」


「うっ」


 あぁ、とうとう見つかってしまった。

 浪川と完全に目が合ってしまったのだから、もう逃れることはできない。浪川に手招きされるまま、俺は気乗りせずも立ち上がって浪川の方へとのそのそ歩いて行った。

 浪川の目の前に立つと、俺の背の高さも相まってか浪川の小ささが際立つようだった。


「えーと、確かお前は浪川だよな。もしかしてだが俺をお呼び出しってのは、そのー、人違いじゃないのか?」


 初対面の開口早々にこんなことを言うのはどうかと思いつつも、俺は本心をそのまま口にした。

 すると浪川は一瞬ポカンと口を開けたまま俺を見上げていたが、次第に小さく笑い出し、


「ふふっ、春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)と書いて春夏秋冬(ひととせ)と読む。これほど珍しい苗字を間違える訳がないじゃないですか。やはり、話で聞いた通り面白いことを言うのですね」


「はぁ、誰からどんなことを聞かされたんだか……」


「まぁそれはさておき、今日の放課後、少々お時間をいただけますか?」


 お手本のような上目遣いに、意味ありげな一言。それらによって、長年惰性で動いていた俺の鼓動はここぞとばかりに過去一番の働きっぷりを見せ始めた。


「あー、いや、まぁ、時間だったら作れるけど……」


 視線を逸らし、何とかして予定を調節しようとする様子を見せつつも、本当は物凄く暇だ。だからこそ暇人だと思われたくなかった。


「そうですか、それならよかったです。眩昼(まひる)さんの話では、いつも誰よりも早く帰宅してしまうと聞いていたので」


「うっ、あいつ余計なことを……」


 俺の脳裏に浮かぶは、ぺかーっとした笑顔で俺のことを包み隠さず話す、双子の妹『春夏秋冬(ひととせ)眩昼(まひる)』の姿だった。

 こうなればもう、俺が格好つける理由もなくなった。


「はぁ、わかったわかった。それで、俺は放課後どこに行けばいい?」


「話が早くて助かります。では、校舎の裏手にある神社の、参道を登り切ったところまで来てください。待ってますので」


「ん、神社の参道って……――え?」


 耳から脳に送られた刺激が理解のできるものへと変換された瞬間、俺は間の抜けた声を上げて呆気にとられてしまった。

 だが、そうなるのも無理はない。何故ならこの高校にはこんな噂があるからだ。


 ――高校の裏の神社で告白し結ばれると、必ず同じ将来を歩むことができる。そしてその関係は告白した場所の高さが高ければ高いほど、長く強いものとなる。


 つまり浪川が指定した場所は、一生を添い遂げたいという思いを相手に伝える場所であるのだ。

 するとさっきまで静観を保っていた周囲の学生らが、途端に騒めきだした。できることなら俺も一緒にざわざわしたいところだが、ここは歯を食いしばってグッと堪える。


「では、放課後に」


「あっ、待て浪川!……って、あぁ、行っちまった」


 浪川は頭を小さく上品に下げると、俺の言葉に聞く耳を持たず、春風のように颯爽と廊下の奥へと行ってしまった。

 その様子を口を半開きにさせて見ることしかできなかった俺の姿は、さぞかし滑稽なものだったろう。

 思えば一瞬の出来事であったが、人生の中で一番色濃く残る瞬間であることは間違いなかった。いや、二番目に色濃いと言うべきだろうか。まぁいい。


 ――あぁっ、駄目だ駄目だ。思い上がるな、春夏秋冬朝夜。まだ告白されると決まったわけじゃないんだぞ。罰ゲームでやらされているだけかもしれないんだ。


 収まる様子をまったく見せない高鳴った鼓動を静めるために、俺は自身にそう言い聞かせた。

 するとここで俺は気付いた。周囲から向けられていたものが、視線に加え言葉が徐々に混じり始めたということに。

 俺は堪らずその場から抜け出し、第二の居場所である図書室へと後ろを振り返らず突き進んでいった。



――――――



「……ふぅ」


 横開きの扉を開けながら、――やっぱり、ここだけはいつだって静かだ。と、精神的疲労から解放された喜びから、俺は浅く溜め息を吐いた。

 ここは賑やかな本校舎の裏手にある、第二校舎一階の図書室。

 逃げ込むように図書室へと入室し、広く視野をとって一帯を見渡すも、誰一人として利用者はいなかった。

 決して蔵書数が少ないわけでもなく、設備が特別古いわけでもないない。むしろ設置された新刊コーナーには知名度の高い作品が並べられている。

 このように人がいないのには理由があった。県内屈指の進学校であるこの県立高山大可(おおか)高校に通う学生にとって、休み時間はこの後に控える授業の小テストに備える時間なのだ。

 勉学に対する意識は人それぞれであるが、ここに通う学生のほとんどはなんだかんだ勤勉だ。この学校は毎日一つ二つほどの小テストがあるのだから、このような場所で時間を浪費することはできないことになる。

 小綺麗さが妙に際立つ室内を進み、数だけは無駄にある長机に備えられた椅子の一つに腰を掛ける。


「……はぁ」


 今度は頬杖をつきながら、深い溜め息を吐いた。すると背後にある本棚の裏側から、誰かが動く物音が聞こえた。


「――おや、これはこれは。疲れとは無縁の朝夜君がぐったりしているとは、珍しいものだ」


 本棚越しに、しゃがれたいい声で皮肉が飛んできた。その声を聞いて、俺は気だるげさを前面に出しながら後ろを振り向く。


「あぁ、アリス先生、別に身体的な疲れじゃないですよ。それよりも、イギリス人って本当に皮肉が好きですよね。今すぐにでもその余計な口を紅茶で満たしたらどうです?」


「ふむ、挨拶程度の言葉としてかけたつもりだが、君には皮肉に聞こえてしまったか。それと、何度も言うが私の名前はアリステア(・・)だ。勝手に私を不思議の国の少女のように可愛くしないでくれたまえ」


 毎度恒例の、小言の言い合いを手短に済ませる。本棚の裏から姿を現したのは、この高山大可(おおか)高校に勤める『アリステア・フィッツジェラルド』司書だった。

 欧州人特有の大柄な体格に、濁りのない泉のように透き通った青い瞳。幾重もの小じわのある精悍で彫りの深い顔立ちと、後ろで一つに束ねられた白銀色の長髪は、まさに理想とする英国老騎士そのものだった。

 先生は外見こそ外国人であるものの、日本語を驚くほど流暢に話すものだから初めはかなり驚いた。そしてこの人は正確には教師という意味の先生ではないが、何かとすごい人っぽそうなので俺は先生と呼んでいる。


「それで、どうして君は溜め息を吐いていたんだ?」


 先生は丁度作業が終わったところなのか、空になったカートを押しながらそう言った。


「……あー、その、笑わないでくださいよ?」


 念を押す様に、俺は先生の目をじっと見つめた。すると先生は何かを感じたのか、真剣な表情で口をムッと結んだ。


「わかった、約束しよう」


「では、言いますね。今日、もしかしたら俺……――告白されるかもしれないんです」


 俺は努めて真剣な調子で先生にそう伝えた。するとその思いが伝わったのか先生は、


「……こく、はく。なるほど、そうか」


「そうなんです」


 俺の言葉を嚙み砕くように、先生はゆっくりとそう口にした。

 しばらく互いに見つめ合う時間が訪れ、どちらが先に口を開こうか様子を窺っていると、先生が先に動きを見せた。

 努めて真剣な表情を維持しているが、プルプルと何かを堪えるように口元が小刻みに揺れていたのだ。それに加えガタガタと、金属製のカートの持ち手が潰れてしまうのではないのかというほど力強く握っている。


「……あの、先生。もしかして笑うのを堪えてます?」


「いや。ふふっ。そんなことはふっ、ない……ふふっ」


 俺が目を合わそうとすると先生はぷいと目線をそらし、その顔は心なしか苦しそうでもあった。

 唇を嚙み千切る寸前の先生に、俺はさらなる追撃を加えることにした。


「――しかも、相手は俺にはもったいないくらいの美少女です。それに、放課後来てほしいと言われた場所は裏手の神社の、それも参道の一番上なんです」


「ぶぶふっ」


 いよいよダムが決壊したように、英国紳士の面影もなく先生は盛大に吹き出してしまった。

 本当に、なんと失礼な人なんだろうか。俺だって性格がひねくれていて、不愛想で、前髪が目にかかっているだけで、顔はそこまで悪くないし背もかなり高い。ポテンシャルは十分あって、今まで見つかっていなかっただけかもしれないのだ。

 そんな不満を口にすることはなく、俺は鋭い視線で先生に訴えた。


「あぁ、私としたことがすまない。笑うつもりはなかったのだが、君が私の想定以上のことを話してくるものだからつい」


「はぁ、もういいです。俺だって、これがきっと何かの罰ゲームなんだって思ってますもの。でも、だからこそ、先生に相談したいことがあるんです」


 すると俺の声音で何かを察したのか、先生は気味が悪いくらい一瞬にして普段のクールな顔つきで俺の目をまっすぐ見た。こういう真剣な大人の表情をいつでもかっこよくできてしまうのが、腹立たしくも羨ましい。


「もし仮に相手が俺に告白をしてきたとして、そしてその人と俺は話したことも接点もなかった場合、相手の気持ちを一番傷つけない告白の断り方って何ですか?」


 俺は今一番思い悩んでいることを口に出した。

 相手の告白を断るという決断、それは自己評価の低さや相手が高嶺の花であるということから導き出されたものではなかった。

 好きな人に告白をするという勇気と決意が必要な行為に対し、俺は無責任な回答をしたくないのだ。

 俺は相手のことを好きと思える存在であるかもわからないのに、軽はずみな判断で首を縦に振り、その後相手が俺に対し「もしかして、自分と無理に付き合ってくれているのかな?」と思われたらどうするんだ。

 俺は相手にそう思われることが嫌であり、そして相手に俺という存在が思っていたものと違うと勝手に失望されるのも御免だ。

 これは暇であるが故に導き出すことができた、絶対譲ることができない俺の恋愛観だ。

 そんな俺の様子を見てか、先生は考えを巡らせるように一度窓の外を見た。


「ふむ。――では君に一つ聞こう。それは外部からの評価を気にしてではなく、君自身と相手だけを中心とした考えに基づいて導き出した答えなのかね?」


 鋭く傾けられる視線と重厚感のある声音も相まって、俺は一度声を詰まらせるも何とか答えようとする。


「はい、そうです。ですので教えてください。俺はどうすればいいのですか?先生」


 単刀直入にそう問いかけると、先生は空いている席にどっしりと腰を掛けた。


「ふむ、どうやら君の中で揺るぎない答えが決まっているようだ。――では教えよう。私が半世紀生きて導き出した最善とやらを」


「はい、先生。よろしくお願いします」


 まるで弟子の成長をようやく認めた師が秘伝の奥義を伝授させるように、俺は先生と面と向かって座りながら話を聞き、その最善をものにしていった。




――――――




 放課後になると、普段の俺であれば韋駄天(いだてん)の加護を受けるが如く、誰よりも早く学校を出ていくものだ。だが今日はいつもと違う。――そう、俺は先生から伝授された奥義を携え神社の参道を上がっていくのだ。

 黄色の蛍光色のクロスバイクを駐車場の近くに止め、スクールバッグを担ぎながら鳥居をくぐると、途端に別世界に迷い込んだような違和感を覚える。

 緩やかな傾斜の参道の上方には、名前はわからないがとにかく背の高い木々がアーチのようにかかっているため、日が差している場所と比べて薄暗く涼しげな静けさが満ちていた。

 絶えず吹いてくる風にガシャガシャと忙しなく揺れ動く木陰は、まさに今の俺の心境を鏡面のように映し出しているように。一段、また一段と上がる度に、木々の騒めきは俺と同調して激しさを増していく。閑静であるはずの境内だからこそ、余計に風音が耳障りだった。


「――いた」


 ある程度参道を上ったところで、俺をこの場に呼び出した張本人の姿が光の当たる場所に見えた。

 春風すらも自身を引き立たせる舞台装置のように、髪に流れをまとわせた可憐な少女、浪川来藍だ。両脇に構えるたくましい様相の狛犬は、まるで浪川を警護する従者のように。待っている姿だけでも、映画のワンシーンにそのまま転用できるのではないかという完成度に、俺は思わず少しの間立ち止まって見入ってしまった。

 すると浪川は俺の気配に気づいたのか、くるりとこちらを振り向いた。


「あっ、春夏秋冬(ひととせ)くん。約束通り来てくださり、ありがとうございます」


 ただのお辞儀をしただけなのに、どうしてこうも見入ってしまうのだろうか。今から俺はこの子を振ることになるかもしれないのに、何故かそれが心惜しく感じてしまう自分がいた。


「あーその、なんだ、礼はいい。それよりも、俺に話したいことがあるんだろ?」


「はい。……ですので、聞いていただけますか?」


 その表情と声音は俺の内心とは正反対なもので、驚くほど落ち着いていた。だからこそ、これから俺が告げる返答でその表情が崩れることが嫌だった。


「あぁ、なんだって聞くよ。まぁほら、だからいつでも、どうぞ」


 あまりの動揺に自分でも何を言っているのかわからなくなってしまうが、何とかして浪川の目を見る。俺がどんな返事をするにしろ、まずは相手の言葉を受け止めなくては。


「では、まず(・・)は手短に、率直にお伝えします」


「……わかった」


「――春夏秋冬(ひととせ)くん。もしよろしければ、私と――」


 俺は固唾を飲む。

 この先の言葉を聞きたくないがあまり、脳が勝手に時の流れを止めようとする。だが俺は超能力のない普通の人間だ。俺の中で渦巻く思いなど知らないで、時は残酷にも独りでにコマを進めようとする。

 意を決したかのように浪川は一呼吸整え、体の前で握られていたスクールバッグに強く力を込めた。


 ――そしてついに、その時が来てしまった。浪川は口を開いた。


「私と一緒に、――――――――――――邪教の開祖になってくれませんか?」


「ごめん浪川。俺には付き合っている人がいて………………――――――――えっ?」


 反射的に俺は返事をするも、聞き入れた浪川の言葉の意味を処理できない脳みそが、瞬間的に膨大な量のエラーを吐き出した。

 処理落ちしてしまった頭は体が呼吸を必要としていることをとうに忘れ、心臓だけが俺を生かそうと必死になって動いている。そして俺の意識は現実から完全に乖離され、真っ白な空間に俺と浪川だけが立っていた。

 ――『じゃきょう』と、浪川がこう言ったことは確かだった。

 俺の語彙では『じゃきょう』と言われると、一切の思考を挟む間もなく『邪教』と変換される。その意味とは、文字通り人の心を惑わす教えを広める邪悪な宗教、というものだ。

 愛の告白の途中で『じゃきょう』と聞こえたならば、それはただの聞き間違いかもしれないと思えるものだ。だが浪川は確かにこう言った。――「私と一緒に、邪教の開祖(・・)になってくれませんか?」と。

 今からでも別の意味を探ることはできないだろうか?いや、無駄だ。ここまで出揃ったのならば、後はもう言葉の意味通りでしかない。

 『私と一緒に、ヤバい宗教を始めませんか?』と、俺は少しの間を置いてやっと理解した。

 そうとなれば俺がすべき行動はただ一つ。


 ――まずいまずい!今すぐここから逃げるんだ春夏秋冬(ひととせ)朝夜(あさや)


 ここにきて生存本能が俺の身に再び韋駄天の加護を宿し、今すぐその場を後にするため風のごとく一目散に逃げ出そうとした。


「――待ってください」


「うっ」


 だがその一声は、俺の身に宿る力をいとも容易く打ち消してしまった。

 結果として、俺は参道を下ろうとしたところで浪川に呼び止められ、何故か理由もなく足を止めてしまったのだ。浪川の透き通った一声には、俺をそうさせるだけの魔力が込められていた。

 だがどうしたことだろうか。俺は恐る恐る振り返ると、意外なことにそこには先程の強烈な言葉を言ったとは到底思えないような、誰も傷つけない柔らかな眼差しがあった。


「まずは手短に、率直に話すとお伝えしましたよね?私の話はまだ終わっていません。どうか、最後まで聞いていただけないでしょうか?きっと、このままでは私が誤解されたままになってしまいますので」


「うぅっ……」


 多分、この世で一番綺麗な瞳が、俺の身と心を捕らえて放さなかった。

 恐るべし、浪川来藍(こらん)。その所作全てが自身の無害さをこれでもかと前面に表しているようだ。

 あぁ、どうしたものか。確かに俺も気になることがたくさんあるし、正直言って浪川と話をしてみたかった。――何故邪教を始めるのか、そして何故その相方として話したこともない俺を選んだのか、と。今まで接点もなかった男子に声をかけたのだから、何かしら理由があるはずだ。

 ほんの一呼吸の間に、生存本能と興味本位が激しいせめぎ合いを行った結果。俺が選んだのは、


「……はぁ。――わかったわかった。最後まで、どんな話だろうと聞いてやるよ。そう言ったのは俺だからな」


 おかしな人物に目を付けられてしまった時点で沈みかかった船どころか、沈んだ船の上に立とうとしているようなもの。もう今から何をしても無駄ということだ。

 でも何故か、この状況に期待をしてしまっている自分がいる気がしてならない。今の俺は現状をぶち壊すような破滅を、心のどこかで求めていたのかもしれない。

 このまま虚無に足を引きずられたままの高校生活を送っていくのであれば、たとえ沈没する未来があったとしても、自分が面白いと思える方向に舵を振り切る方が楽しそうだ。と、そう考えてしまう俺が確かにいた。

 そんな吹っ切れた様子の俺を見た浪川は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。


「ふふっ、ありがとうございます。では少し、場所を移しながら話をしましょうか」


「……あぁ、わかった」


 こうして、俺は突拍子もないことを言い出した美少女と並んで、本殿へと敷かれた石畳の上をゆっくりと歩き始めた。できることなら、青春を体現するような甘酸っぱい気持ちを抱えながら歩きたいところだが、今は劇薬を隣でちらつかされているような気分だ。でも、不思議と悪い気分じゃないことは確かだ。

 この神社は普段賑やかな初詣の時期にしか訪れたことがなかったため、人のいない静まり返った境内は人知を超越した神秘が満ちていると、そう思わざるを得ない雰囲気だ。

 俺を取り巻く空間と状況全てが波乱の前兆を暗に示すのに十二分なものだと、そういったことを考えながら俺は浪川の言葉を待った。


「ではまず、春夏秋冬(ひととせ)くんが一番気になっているであろうことから――」


「あー、そうだその前に。俺のことは苗字じゃなくて名前で呼んでくれ。皆、俺のことを名前で呼ぶことがほとんどだから、苗字で呼ばれるのはあまり聞き慣れないんだ」


 俺は浪川の言葉を遮るようにそう言った。

 苗字で呼んでくるのは大抵大多数の親しくもない大人や同級生からだ。だから苗字で呼ばれると妙に距離を感じてしまい、嫌なのだ。

 そんな俺の事情を知ることのない浪川だったが、余計に詮索する様子も、何かを察する様子もなく、


「そうですか、わかりました。では改めて、朝夜くんが一番気になっているであろうことにつきまして」


 二人して正面を向きながら歩いていたところ、本殿を前にして浪川ははたと歩みを止めて俺を見上げた。


「先ほど、私は朝夜くんに邪教の開祖になってほしいと言いましたが、当然あの言葉はそのままの意味を示すものではありません。私が部長を務める漫画研究部に所属して、作品の原稿となるものを一緒に作ってほしいという意味です」


 と、浪川は先ほどの衝撃的な発言に隠された真意を俺に語った。

 なるほど、漫画研究部の部長である浪川であれば、俺のことについて知っている訳だ。そう、漫画研究部には俺の妹と、そして俺の数少ない昔からの友人が所属している。だから、俺の話題が上がるのも当然のことだ。


「なるほど、なぁ。なんとなくだが、浪川と接点がなかった俺が急に呼び出された理由がわかった気がする」


「はい。朝夜くんについて、妹の眩昼(まひる)さんや、お友達である秀樹(ひでき)くんや在実(あるみ)さんから時々話を聞いていたので、以前よりどのような人なのか気になっていたのです」


「……ふーん」


 はは、浪川は以前から俺のことが気になっていた、だってさ。

 可憐な少女からそう言われると、無視できないいたたまれなさから俺はつい視線を逸らしてしまう。今まで平穏過ぎた高校生活を送ってきた俺にとって、浪川という存在が目の前にいるだけで気がおかしくなりそうなのに。

 ここはひとつ、コホンと咳払いをして気を取り直す。


「まぁ、それはともかく。俺に原稿を作ってほしいと言ったって、俺は漫画を描いたことがないからな。絵はそこそこ描けるけども。それでもいいのか?」


「はい。朝夜くんに依頼したいのは、何も漫画を描くことではありません。私たち漫画研究部員が漫画を描くために必要なストーリーを、朝夜くんに書いてほしいのです。ですので、よろしくお願い致します」


 すると浪川は滑らかな動作でその小さな頭を下げた。このことに堪らず俺は周囲を見渡しながら、


「まてまてちょっと待て、そんなかしこまらなくていいって!俺は賞をいくつも取った小説家とかじゃないんだからさっ」


 ここまで言うと、浪川はようやく顔を上げてくれた。


「そうですか。では、私の依頼を引き受けるかどうかについての考えがまとまり次第、この場でお返事を聞かせてください。待っていますので」


「うぅ、この場でとはいきなり過ぎないか……。あぁでもわかった、ちょっと待っててくれ。考えをまとめるから」


 浪川の言動は一つ一つ丁寧なのだが、どうしても会話の主導権を常に浪川に握られている気がしてならない。そして意外にも強引なところがあるというか、そういう点においては俺の扱いに長けているとも言える。

 仕方なく、俺は腕を組んで考えを巡らせてみることにした。

 漫画の原稿を「かく」というのは、「描く」の方ではなく、「書く」の方であった。

 俺にファンタジーを題材とした物書きの趣味があることは、眩昼(まひる)伝手で浪川に伝わっていたのだろう。だから俺に原稿の作成を依頼した、そう考えるのが妥当だろう。

 だが、俺は一度たりとも作品を他人に見せたことはない。それどころか、作品と呼べる段階まで小説を書き切ったことがない。

 決まっていつも、途中で納得がいかなくなってしまうのだ。ストーリーの展開や結末、登場人物らの設定などは最初から思いついているのに、それを文章という形にしていく作業の途中で違和感を覚えてしまう。

 ――何かが足りない。この物語の中で生きている彼らと自分の間で、ずれが生じてしまうのだ。

 それが作品のリアリティの欠如によるものなのか、自身の技量のなさから生じるものなのか、俺にはまだわからない。だからこそ、このずれを埋めてくれる何かを探すために、俺は今でも白紙の文書と向き合っている。


「……やはり、この場で答えるのは難しいですか?」


 俺が長いこと考えを巡らせているからか、浪川はそう問いかけてきた。


「うーん。まぁ、原稿を書く、ってことならいくらでもできる。物書きは俺の趣味だからな。けども、問題は俺が納得のいく物語を書き切れないってこと。なんだかいつも、書いてる途中で作品の中の世界と自分が分離してるような気分になっちまうんだ」


 別にこの悩みを誰かに理解されなくたっていい。口に出したものの相手の共感と理解を大いに期待していないのは、こういった悩みは実際に味わったことのある人間にしかわからないことだと思うから。

 しかしためらいもなく悩みを口にできたのは、漫画研究部に所属している浪川にはもしかしたらと、そうどこかで思っているのかもしれない。


「分離、ですか。なるほど。――では、こうしましょう。こちらをどうぞ」


 すると浪川は手にしたスクールバッグを開き、中から一枚の小さな紙を取り出した。それを浪川は前に突き出して、俺は手に取って内容に目を通した。


「ん、なんだこれ。えーと、これって部活動の入部届だよな?」


 それは一年ぶりに見ることとなった、一枚の未記入の入部届だった。


「はい、その通りです。おそらく朝夜くんの思い悩んでいることは、取材や調査が足りないことよって引き起こされるものだと考えられます。私も以前は、朝夜くんと似たような悩みを抱えていましたので」


「えっ」


 思考よりも先に出てしまったその声は、相手に聞かせるつもりがないほど小さく風の中へと溶けていく。


「それって、浪川も何か書いていたってこと?」


「はい、その通りです。こう見えて私はドラゴンや魔法が登場する、戦闘描写に富んだファンタジーが大好きなのです」


 この言葉を聞いた瞬間、不覚にも俺は浪川に対して親近感を覚えてしまった。

 人を見た目で判断してはいけないとわかってはいるものの、学年一位の学力を有するということも相まって、ますます中身と外見が不釣り合いのように思えてしまう。

 ただの本好きであれば、なんら違和感を覚えることはなかっただろう。だがしかし、浪川はバトルファンタジーが好きであると俺に告白した。こうなるといよいよ、浪川にとって可憐で淑やかな少女という自身の器は、もはや自身の精神を入れ込み他者に認識してもらうためだけの器でしかないように思える。


「……それはその、意外というか。お前みたいなやつでも、俗なところがあるんだな」


「ふふっ、よく言われます」


 浪川は俺が言ったことに対し特に反応を示していないことから、このようなことを言い慣れていることが窺える。


「では、話を戻しまして。原稿を書くということは後にして、まずは漫画研究部の部員の皆さんをを取材してみるのはどうでしょうか?」


 と、浪川は人差し指を立てて俺に提案してきた。


「取材?」


 しかしその発言の内容に対してすぐに疑問が浮かび上がった。――何故俺がよく知っているあいつらの取材をするのだ?と。今更取材をしたところで、俺の悩みを解決する何か得られるものがあると言えるのだろうか。


「おそらく朝夜くんは今、どうしてよく知っている人物の取材をしなくてはいけないのだと、そう思っていますよね?」


「はは、お前にはお見通しってことか。あぁ、そうだよ。眩昼は俺の妹だし、双子の古谷兄妹だって小学生の頃からの付き合いだ。だからそんな出涸らしを取材したところで、俺が何かを得られるとでも言うのか?」


 俺は疑心をあえて包み隠さず露わにする。だが浪川を見てみると、その目じりはすぼめられ、口角はわずかに上がり、どこか愉快そうにしていた。まるで俺がこのようなことを言うことを、最初から予期していたかのように。そしてその表情のまま「はい」と、自信ありげの返事をしてみせた。


「意味なら大いにあると言えます。これは私たちの作品のためだけではなく、今の朝夜くんにとっても、です」


「ん?どういうことだ」


 あいつらを取材することの意味が、作品を作成する以外にもあるというのだろうか。しかもそれが、俺のためにもなるとは、一体どういうことなのだろうか。

 まずい、どんどんと会話に引き込まれている。悔しいが、そういった実感をはっきりと覚えてしまうほど、浪川との会話は俺にとって興味をそそられるものだった。

 すると浪川はおもむろに遠くの空を見だした。


「その前に一つ。朝夜くんに関して、私がどうしても気になっていることがあるのです。――かつて模試の県内成績第一位だった『アンノウン・ファースト』が、何故今となっては面影もなく没落してしまったのかについて」


「――っ!?」


 その言葉は古傷を抉るなどという言葉では到底表現できないほど、俺の精神を貫通して身体にまで損傷を与えてきた。

 途端に鼓動が脈打つように高鳴り、体の末端は痺れはじめ、視線を真っ直ぐ維持することができない。動かない俺の体は”動揺”という言葉を体現する装置のごとく動き始めた。

 そう、俺は意識しないようにしていた過去を、剛速球のごとく浪川から真っ直ぐ叩きつけられたのだ。


「ふふっ、朝夜くんは内面がわかりやすく表に出るのですね」


「……うるせぇ。はぁ、どうして俺と同じ中学校じゃないお前が、昔の俺の秘密を知っているんだと思ったが、部員に眩昼だけじゃなくて秀樹や在実もいるなら、知っていて当然か」


 俺の数少ない友人である古谷秀樹には、俺と眩昼が双子の兄妹であるように、在実(あるみ)という双子の妹がいた。そして俺たち春夏秋冬兄妹と古谷兄妹は四人で結託して、中学生の時にとある一大プロジェクトを立ち上げて実行していた。


「はい。――正体不明の上位四人衆計画、通称『オペレーション・シークレットトップ4(フォー)』。そして朝夜くんに与えられた称号は、正体不明の第一位アンノウン・ファースト。言葉の意味通り、実力と正体を隠しながら定期試験の成績トップを独占し続けることは容易なことではなかったはずです。ですが、朝夜くんら四人は最後まで見事にその王座と秘密を守り抜きました。いえ、それどころか朝夜くんに関しましては、群馬県のトップに君臨するほどの実力を身に着けていました」


 と、よくもまぁスラスラと言えたもんだ。浪川は俺たちが中学生の頃にやっていたことを語り始めた。

 しかし、このように自身の過去の行いを他人から丁寧に解説されると、何とも言えないむず痒さに襲われてしまうものだからやめてほしい。


「ですが、今の朝夜くんには当時の面影もありません。それは一体何故なのでしょうか?」


 身を少し傾け、下から突き刺すような視線を浪川は俺に向けてきた。本当に、今の俺にとってはこれ以上ないくらいに深々と突き刺さる言葉だ。そのせいで今この一瞬は浪川の整った顔しか見れずにいる。


「……何故なのかって、そりゃ俺が一番よくわかってるさ。今の俺には、勉強をする理由がないんだ。いや、生きていく信念とか、目的がないって言うべきか」


 本殿へと向かう石段の手前、気付けば自然と俺の口は動いていた。

 かつてアンノウン・ファーストとして輝かしい成績を収めていた春夏秋冬朝夜は、高校入学と同時に嘘のように消えてしまった。それもそのはず、皆で立てていた計画の期間は中学生までの話だ。だから俺は高校生になった瞬間に、無気力に学校に通い続ける凡人になってしまったのだ。


「……なぁ、浪川。お前の疑問に答えるからさ、ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれないか?」


 俺が遠くの空を眺めながらそう言うと、浪川は柔らかな声音を一切変えることなく「もちろんです」と一言返事をした。

 その言葉を皮切りに、俺は誰にも言うことのなかった心の内を溜め息と共にさらけ出す。


「はぁ……。俺はいろいろあって、高校生になってから一人でいるようになったんだ。別にあいつらと仲が悪くなったって訳じゃない。ただ、あいつらといると互いに余計な気遣いをしてしまうっていうか、まぁ、少しだけ俺の居心地が悪くなったんだ」


 双子の妹と友人二人を含めた、計三人。中学生の時までの俺はそいつら以外と共に行動することはほとんどなかった。だが決して、俺が人見知りだからそうしていた訳ではない。当時の俺と他の一般的な同級生の間に、精神的な差があったのだ。

 同世代で面白いとされているものが、俺にとってはどうも面白いと共感できるものが少な過ぎた。その結果、俺は極めて狭いコミュニティの中に身を沈め、四人で立てた計画の完遂に向けて勉学に励んでいた。


「居心地が悪くなったのは、嫌なことをされたという訳ではないのですね?」


「あぁ、そうだ。むしろあいつらは気味が悪いくらいのお節介焼きだ。だから勝手に距離を置くようになった俺の方が悪い」


 この際善悪もない気がするが、勝手に引け目を感じてしまっている自分にとってはこう言った方が適切な気がした。

 浪川は「なるほど」と相槌を打つと、俺の方を見ているような気がした。


「朝夜くんは、優しいのですね」


「はは、どのことから俺を優しいと判断したのやら」


「――自分にも優しいが故に、手っ取り早く問題を切り離せる孤独を選んで、逃げてしまった。物語ではよくある状況です」


「……」


 俺は浪川の顔を見ることができなかった。浪川の言葉が俺にとってどれだけ鋭利なものだったのかを示す事実として、これ以上のものはないだろう。

 煽り文句を言われた訳ではないのに、はらわたが震えるような悔しさが体幹から込み上げていた。


「気分を害してしまったのなら、ごめんなさい。ただ、私から見た今の朝夜くんは先ほどの言葉通りなんです」


「いや、まぁ、わかってるさ。自分でもそのことくらい」


 一度ちらと横目で浪川を見るも、いたたまれなさから目を合わすことができない。自身の弱さを知られている女子に合わす顔もないのだから。それでも、俺が話さないと先に進まないことは確かだ。

 一間置いて、一度呼吸を整える。


「まぁ話を戻すと、俺はあいつらから距離を置いたのにもかかわらず、進学して早々に淡い期待をしてたんさ。誰かがまた俺を面白いことに巻き込んでくれないかって。でも結果は見ての通り、何もなかった。でも、自分で何かを始めようと動くだけの余力はまだあった」


 一人でできる趣味は何も絵を描くことだけではない。候補は他にもたくさんあった。


「そのことがきっかけで、朝夜くんは物書きを?」


「あぁ、そうさ。このまま何もせず高校を卒業するのだけは嫌だって思って、だから俺は絵描きだけじゃなく、新しく物書きを始めたんだ。でも、さっきお前に言った通りだ。俺は文章を書くことだけならいくらでもできた。でも、自分が納得できるような何かが得られないままだった」


 登場するキャラクターのデザインや設定を考え、イラストや文章として形にしていく行為は時間を忘れるほど楽しいものだった。だが、物語を書いている途中のふとした瞬間に、調和を保っていた何かが崩れるような感覚に陥ってしまうのだ。

 気付けば自分でも段々と言葉に熱が帯び始めているとわかるくらい、思考と声音が同調していく。


「初めは中学生の時みたいに、何かを始めれば再び生きる活力を得ることができるんだと、俺は淡い期待を抱いていたさ。けども、今の俺の没落っぷりを見ればわかる通り、現実はそうじゃなかった。何をしても、どれほど思い悩んでも、先にあるのは先の見えない暗闇だけ。……今の俺はあいつらのもとに帰れないんだ。没落してしまった俺の姿を見られたくないってだけじゃない、距離を置くようにしたのは俺からなんだ」


 言葉にしてみると、俺は優しさに溢れた自己中心的な存在のようだ。浪川が言ったように、自分に対する優しさに満ちた男だ。

 自分一人だけではうまくいかなかったと今更あいつらに言ったら、あいつらはどんな反応をするのだろうか。言わなきゃわからないことなのに、どうしても最悪の場合が脳裏に過ってしまう。結局俺は自分に優しいから、傷つく結果に結びつく可能性から遠ざかることしかできない。


「……朝夜くん」


 隣から落ち着きのある声がする。俺は返事をすることはなく浪川の言葉を待った。


「朝夜くんは、自分がどうしたいのかわかっているはずです。ですので一度、言葉にしてみませんか?その方が私も、朝夜くんの心に寄り添いやすいので」


 その言葉を聞いて、自然と視線だけでなく体までもが浪川の方に向いていた。こんなにも心を揺さぶられる言葉をかけられたものだから、反射的に体が反応してしまっていた。

 すると自分の中で、本音をせき止めていた何かが完全に崩れた音がした。もう止まらないと、今まで身を潜めていたそれらは俺の意思に関係なく溢れ出していく。


「俺は、……俺はこのまま無気力に生きたくない。ひとりはもううんざりだ。でも、あいつらが今の俺のことをどう思ってるのかがわからなくて、どうすればいいかわからない。一人でいることに慣れ過ぎて、俺だけじゃ動けないかもしれない。……だから浪川、教えてくれるか。俺は、俺は一体どうすればいいんだ?今の俺には、一体何があればいいんだろう……」


 俺がひねり出したのは、今にも消えてしまいそうなか細い声だった。どうしようもなくみじめに思えてしまう自分が嫌にならないように堪え、それでも精一杯見栄を張ろうとする男の限界だった。

 すると俺の言葉を終始穏やかな表情で聞いてくれていた浪川は、おもむろに指を俺に向けて指した。


「ふふっ。その答えは、先ほどから朝夜くんの手にずっと握られているじゃないですか。今はだいぶクシャクシャになっていますが」


「えっ?……あ」


 その言葉の通り、俺はスクールバッグが握られていない方の手を見る。するとそこには強く握られたことで皺だらけになってしまった入部届があった。無意識のうちに、俺は入部届の存在を忘れて握り締めていたのだ。


「もう一度、皆で集まりましょう。皆、朝夜くんの帰還を待っていますので」


「でも……」


 すると返事をためらう俺に対し、浪川は俺の正面に立つようにずいっと一歩を踏み出してきた。


「大丈夫です、朝夜くんが皆のもとに帰りずらい理由は全て把握しています。それらの解消も含め、どうして私が皆さんの取材を朝夜くんに依頼したのか、その理由を探ってみてください。どうか、私の言葉を信じてくれますか?」


「……」


 その言葉を聞いて、トンっと、背中を力強くも丁寧に押されたような気がした。

 何故だろうか。俺の悩みに対する具体的な解決策など示されてもいないのに、浪川がそう言うのであれば大丈夫なのだという出所不明の安心感があった。その要因は浪川の優し気な声音なのか、柔らかな仕草なのか、温かな眼差しなのか、はたまたその全てなのか。

 浪川が身に纏う雰囲気はとても邪教とは程遠く、背が低く同い年であるのにも関わらず聖母のような温かさが滲み出ていた。

 もしかしたら浪川に心の内を明かしていた時点で、俺は救われる準備を、そして今の自分を捨てるための準備をしていたのかもしれない。脱皮不全を起こす手前で、今までまとわりついていた殻を誰かに引き裂いてほしいと。

 ようやく俺は決心することができたのか、気付けば浪川の目を真っ直ぐ見れるようになっていた。


「その、……わかった。お前にどうすればいいって聞いたのに、お前の提案を断るのも身勝手が過ぎるよな」


「いいえ、そんなことはありません。ですが、この返事は朝夜くんが考え抜いた先で導き出した答えで間違いありませんよね?」


 見上げた眼差しに威圧感はなかったが、問いかけの言葉には俺の決断に対する本気度を窺う重厚感があった。こうされたのならば、相応の覚悟を示すまで。

 俺は腐っても男なんだ。その一心で俺は口を開く。


「あぁ、間違いない。……だから決めた。――俺は漫画研究部の部員だろうと、邪教の開祖だろうと、何だってなってやるサ。もう、一人で虚無を味わい続けるのはこりごりだから。だからお前を信じる。向かう先が破滅だろうがなんだろうが知ったこっちゃねぇ。絶対に、この方が今の何倍も面白そうだから」


 俺は自身の決断と覚悟を示すために、腰に片手を当てて胸を張りながら浪川を見下ろした。

 振り返ると本当に、俺は自覚ができるくらいに単純な男であるものだ。女の子に心の内を吐いて、言葉をかけてもらって、勝手に決心がついて。今まで散々思い悩んでいたのに、こうも簡単に気分がガラリと変わってしまった。――結果として、俺に必要だったのは自分じゃない誰かに話すという、ありきたりで当たり前だが難しいことだけだった。

 でも、俺をこう考えるまでに至らせるのは誰でもよかったわけじゃないと思えるのは確かだ。浪川は俺の事情を知り理解を示してくれた第三者であり、尚且つ俺に必要だった変化を与えてくれたからこそ、俺は何だってやってやろうと決心することができたと思う。

 俺の啖呵を切ったような言動に対し、浪川は一切動じることはなかったが、決して俺の言葉を受け止めていない様子はなかった。


「ふふっ、わかりました。朝夜くんは私のことを信じてくださるのですね」


「あぁ、信じるっていうか、俺自身がこの方が最善だって考えただけ。でもよ、朝夜くん()って、その言い方だとまるでお前が今まで誰にも信じてもらえなかったみたいじゃないか」


 出会った人全員に対して、最初の告白の時のような言葉をかけたのならば、そのようになることは火を見るよりも明らかだ。だが、浪川がそのような愚行を常習的にするようには思えない。しかしそんな俺の思いは「はい、その通りです」と、首を縦に振った浪川のほんの一動作であっけなくかき消されてしまった。


「今の私には、社会からその功績を認められるような実績がありませんので」


 ふいに視線を逸らしながらそう言った浪川の言葉の真意が気になってしまった。社会で認められるような功績だなんて、今の時点で持っている高校生の方が少ないというのに。


「どういうことだ?……まさか、今まで人に言えないようなことでもしていたとか」


「ふふっ。それにつきましては、こうである方が面白いなと朝夜くんが思った方を選んでください」


 と、今度は邪教に相応しいようないたずら気のある表情を浪川は浮かべて俺を見ていた。こんな顔もできるんだと、俺は内心どきりとしたことはさておき。


「……なんだそれ」


「いずれわかることです。では、今後の方針が決まったところで。そちらの入信書に、サインをお願いします」


 と、浪川はお手本のような営業スマイルを披露し、俺が手にする入部届に手を向けた。思わず俺はその気味悪さから一歩後ろへと後ずさり。


「えっ、入信書ってお前、やっぱり怪しい宗教の勧誘だったってオチじゃねーよな?」


 俺は手にした入部届を広げて、その内容を何度も確認する。だが何度見ても紙には怪しい箇所はなく、最小限の言葉と記入欄だけが印刷されていた。

 すると手前から愉快気な笑い声が聞こえてくる。


「ふふっ、あははっ」


「なっ、さてはお前俺のことをからかってるだけだろ!くそっ……、どうせあいつら俺のことをからかい甲斐のある奴だとか言いやがったんだ」


 口ではこう言っているものの、今の状況や感覚は俺にとってどこか懐かしいものだった。それもそのはず、あいつらといた頃はこれが日常だったのだから。――あいつらは俺が計画を達成するために、クールキャラを演じようとぶっきらぼうになってることを利用して、ちょっかいをかけて、俺がむきになると楽しそうに笑っていた。

 言葉にすればこのように酷いものになるが、決していじめられていた訳じゃないことは確かだ。悪い気分は一切しなかったし、あいつらは頭がいいから節度というものをわきまえてくれていた。


「はぁ、すみません。別に朝夜くんのことをただからかおうとしたつもりはなかったのです」


 十分笑って満足したのか、浪川は一呼吸置いて顔を上げた。


「はぁ。ま、どうせ俺のことを気遣ってくれたとか、そんなところなんだろ。まったく、そういうお節介なところがあいつらそっくりだ」


 これがあいつらの優しさであると同時に、高校に入学してからの俺があいつらから距離を置く理由でもあった。他人からの親切を受け取るのに資格なんていらないとわかってはいるものの、どうしても今の俺のままではあいつらの前に立つことができないと、そう勝手に自分に言い聞かせていた。


「ふふっ、朝夜くんは皆と仲が良かったのですね」


「まぁな。つっても、今はどうかわからんけども」


 すると間髪入れず浪川は「いいえ」と言って首を横に振り、俺の言葉を否定してみせた。


「その答えは、参道を下ればすぐにわかります。ですがその前に、せっかくですのでお詣りでもしていきませんか?」


 浪川は俺の返事を聞く間もなく、石段を一人上がっていった。神様に願い事を聞いてもらうことに関して特に考えることもなかったため、俺は「まぁ、せっかくだから」と口にして浪川の後を追った。

 スクールバッグから財布を取り出し、五円玉を握り、つい三か月前にも訪れた焦げ茶色の本殿の前に立つ。

 初詣の時とは違い後ろに人の群れがいないからか、この神社全体が形作る空気が違うように思える。馴染みのある場所をそっくりそのまま再現した異空間にでも迷い込んだように。


「それにしても、何でお詣りをしようだなんて思ったんだ?」


「本殿の前に来てまでただ帰るというのも、少し変だと思いまして。それに、私はファンタジーが大好きですので」


「はは、神様をファンタジーって……」


 浪川がスピリチュアルなものが好きなのはよくわかったが、本殿を前にしてそのような発言をするということは、特段怪しいことにのめり込んでいる訳ではなさそうだ。敬虔な信者は神などの上位存在をファンタジーなどと表現することは決してないはずだから。

 浪川は手にした百円玉を賽銭箱に放ったので、俺もそれに次いで五円玉を投げ入れた。するとここで、自分がどういった願い事をしようか考えていないことに気付いた。ならばせめて形式だけでもと思い、俺はとりあえず頭を二度下げた。

 二礼二拍手一礼。テレビで何度も紹介された正しい拝礼作法を頭に、それらを実行しようと行動に移す。するとふと、隣の浪川が微動だにしていないことに気付いた。


「……」


 頭だけを少し下に傾け、目を閉じ、静かに手を合わせて願いに徹す。浪川は作法をまるで遵守していなかったが、粗雑に形だけを真似ようとしている俺よりずっと、神様に願いを聞き遂げてもらう姿勢が出来ていた。

 浪川が何かを願う間、俺はその様子を瞬きも忘れて見つめていた。

 思わず指先で突きたくなるような白い柔肌の頬に、筋の通った小さな鼻。サイドテールの片側から覗く、細く温かそうな首筋。このまま写真に収めて鉛筆で模写をしたら、どれ程の満足感を得られるのだろうか。

 神様の前にいるのにも関わらず、俺の頭は煩悩で満たされていた。

 すると浪川は願い事を念じ終えたのか、おもむろに目を開けた。


「……あの、どうかしましたか?」


「あぁいや、その、別におかしいとか不適切だとか言うつもりはないんだが、変わった拝み方をするんだなって」


 煩悩を悟られないように誤魔化すと、浪川は納得したように口を開いた。


「あぁ、だから私を見ていたのですね。実は私、こうして神社でお詣りをするのは初めてなんです」


「……え、初めてって、浪川は日本人だよな?」


 すると浪川は何かを考えるように上を向くと、「えぇと、体はそうですが、心は少し違います」と笑みを浮かべながらそう言った。

 浪川以上に”大和撫子”という言葉が似合う存在を見たことがない俺にとって、その言葉はいささか奇妙に感じたが、その意味はすぐにわかることとなった。


「私は生まれてから15歳になるまで、アメリカのイリノイ州のシカゴで暮らしていたのです」


「あぁ、そういうことだったのか」


 なるほど、浪川は日本語話者なだけで数年前までアメリカ暮らしだったのか。確かにそれなら神社に来るのが初めてな訳だ。しかしイリノイ州もシカゴも、名前だけは聞いたことがあるが、実際アメリカのどこに位置するのかまるで見当がつかない。


「お賽銭を入れるといった断片的な知識はありますが、初詣がある年末年始には地元に帰省しますので、こういった経験がないのです」


「なるほど。それじゃあ、浪川には形だけでもお詣りの仕方を教えた方がいいな。まぁとりあえず見てな」


 突然芽生えた日本人としての自覚から、俺の気分は外国人観光客に日本の文化を教えるガイドのようになっていた。

 本殿を正面にして手を体の側面に添え、二度頭を下げる。その後二回の拍手の末、自身の願いを念じる。――どうか、事が面白い方へと向かいますように、と。そしてもう一度、頭を下げる。

 今までは無心で流れのように行っていた動作だったが、今回ばかりは自然と動作一つ一つに意味を持たせられた気がした。


「二礼二拍手一礼。これが基本的な拝礼作法だ。とは言っても、厳格にこうしないといけないって決まりはないから、無礼さえなければ問題はないはず」


「なるほど、そうなのですね。二礼二拍手一礼、わかりました」


 すると浪川は習得した技を披露するように、再び体を本殿の方に向かせて拝礼をし始めた。

 相変わらず、関節の数が俺の倍以上あるのではないかと思うくらい滑らかな動作だ。あまり人のことを凝視するのはよくないとわかっているものの、こればかりは無意識のうちに俺の視線を奪ってしまう浪川が悪い。

 手を合わせて念じ、最後の一礼を終えると、浪川は満足そうに、そしてどこか得意げそうに俺の方を見た。


「どうでしたか?これで、私も日本人の心に近づけたでしょうか」


「あぁ、絵になるような出来だったさ。あ、そうだ。せっかくだからおみくじでも引いたらどうだ?どうせ引いたことないだろ」


 賽銭箱の隣、そこには「おみくじ」と書かれた木箱が置かれていたので俺は指をさした。


「おみくじ……。えぇ、ぜひ引きましょう。思い出しました、これも一つの楽しみですものねっ」


 すると浪川はどこか浮ついた様子で、一人先におみくじ箱の方へと向かっていった。淑やかさの中に垣間見える年相応の純真な好奇心に導かれるまま、俺もおみくじ箱の方へと向かう。

 『一枚百円』と書かれた立て札に従い、浪川は百円玉を惜しむ様子もなく木箱に入れて、折りたたまれた一枚のおみくじを手にした。


「あれ、朝夜くんはおみくじを引かないのですか?」


「あぁ、俺は初詣の時に引いたから……、いや、やっぱ俺も引く」


 終始浪川から期待の眼差しを向けられていたので、俺は思わず選択を捻じ曲げることとなった。惜しみつつも俺は財布から百円玉を取り出して、それと引き換えにおみくじを手にした。


「それじゃあ同時に開くか。いくぞ、せーの」


 俺の掛け声と同時に、折りたたまれたおみくじを開封した。

 白い紙に、朱色で印刷された文字列がずらりと。その上方、お目当ての箇所に目をやると、


「えーと、俺は……。げっ、また末吉だ」


 末吉。ただの”吉”より文字数が多いから運勢は上だと思いきや、実は末吉が『吉カテゴリー』内の一番下に位置している。

 何とも言えぬ結果に落胆している俺に対し、浪川は喜びを前面に出した面持ちでその内容を眺めていた。おそらく、聞くまでもないが大吉なのだろう。


「はぁ、浪川はどうだった?」


「見てください、朝夜くん。ほらっ」


 差し出されたおみくじに目を通す。そこに書かれていたのは、


「えーと、どれどれ……。――えっ、お前も”末吉”じゃないか」


「はい。朝夜くんとお揃いの、末吉です」


 それは二人揃って大吉を出した時にするべきものでは?と口にしたくなるような笑みを浪川は浮かべていた。


「……その、この神社は凶が出ないらしいから、末吉って一番運勢が悪いってことなんだが」


「あぁ、そうなのですね。ですが、これから先に波乱が待ち受けていると考えたら、少しワクワクしてきませんか?」


 その言葉は一瞬突っかかるところがあるものの、決して理解できないものではなかった。退屈なくらいの平穏を過ごしていた俺にとって。


「まぁ、何もないよりはいいかもしれないけど……」


「これから運勢最下位同士、よろしくやっていきましょう。ふふっ」


 すると浪川は俺のことなど気にも留めない様子で、一人先に歩き出してしまった。


「おい、ちょっと待てって」


「あ、そうです。伝え忘れていたことがありました」


 すると浪川ははたとその場で立ち止まり、俺の方を振り返った。サラリと黒髪が流れ、心なしか花のような香しい匂いが風に浮かぶ。


「なんだよ、急に歩き出したと思ったら立ち止まって」


「いいですか、朝夜くん。皆さんには朝夜くんが皆さんの取材をしているということを伏せておいてください。そうでなければ、朝夜くんが気づけないことがあると思いますので。いいですか?」


 と、浪川はこれまた真意が見えない言葉を口にしてみせた。もう今更何かを考えたところで無駄だとわかっていた俺は、


「あぁ、理由はよくわからねぇが、わかったよ。要はスパイ映画の潜入調査みたいなもんだろ?」


「はい、そのような要領でお願いします。それと、取材するにあたって一つだけ留意していただきたいことがあります。それは今の朝夜くんになくて、皆さんにはあるものが何なのかを探してみてください。ヒントは、『思想』です」


「思想……」


 皆目見当もつかないことだらけで深々と考えないようにしていたが、ここで興味深いワードが聞こえてきた。

 ――『思想』。すなわち、自身が抱く考えといったところだろうか。世間的には「思想が強い」や、「思想が偏っている」といったようにあまり良い言葉としての認識は少ないが、浪川によるとどうやらこの『思想』という言葉が重要らしい。


「もし朝夜くんが皆さんとの違いを探すことができたのならば、私が言う邪教がどのような意味であるのかがわかりやすくなると思います」


 どうやら浪川は俺に言い放った衝撃的な言葉の真意をすぐには教えてくれないらしい。だが、その方がこれからの取材のし甲斐がありそうだ。


「ふーん。つまりそれがわかるまでは、どうして俺に邪教の開祖になってくれと言った理由を教えてくれないと」


「ふふっ、そういうことです。そして最後に、皆さんの取材を終えたら私のことを取材してみてください。きっと、朝夜くんにとって面白いものになると思いますよ」


 浪川は意味ありげな様子でそう言うと、止めていた足を再び動かし始めた。俺はこれ以上何かを言うことはなく、ただ浪川の小さな背中を見ながら参道を下って行った。

 相変わらず、群馬は風がよく吹くものだ。ここに来る前は俺の心と風が同調してどうのこうのと考えていたが、今となっては全くそのようなことを考えることはなかった。

 当たり前だが、風は俺の気分とは関係なしに吹いているだけだ。ここを上るときと同じように、今でも木々は騒々しいほど風に揺られている。

 だが不思議と、同じ状況であるにも関わらず嫌な気分が増幅することはなかった。木々に囲まれ薄暗いこの空間は今までの俺を示し、そして参道を下った先にある日の当たった場所は、これからの俺が新たな一歩を踏み出す場所のよう。

 このように考えれば、先を行く浪川はまるで迷える子羊を導く先導者だ。いや、俺にとってはこの言葉の通りだ。まだ何かが変わった訳じゃないが、何かが変わる予感がしてならない。それがいい方向であっても、悪い方向であっても、俺は浪川に導かれるまま突っ走っていくのだろう。

 すると参道が残りわずかになったところで、いくつもの見知った影が談笑している姿が見えた。


「……おいおい。まさか、さっきお前が下ればわかるって言ってたのはこのことか?」


 浪川に問いかけるまでもなく、そこにいたのは眩昼と秀樹そして在実の三人だった。だがまだ俺らが来たことに気づいていないのか、スマホを手にした秀樹を中心に三人で画面を覗き込んでいた。


「はい。実を言いますと、私が朝夜くんをここに呼び出した理由は、漫画研究部に勧誘するためだったのです。ごめんなさい、騙すような真似をしてしまって」


 そう言って浪川は一度浅く丁寧に頭を下げた。


「……あー、いや、お前が謝る必要なんてねぇよ。多分、こうでもしないと、俺は動かなかっただろうし」


 そっかー。まぁ、そうだよなぁ。別に、浪川から告白されるかもとか、期待してたわけじゃねーし。全然、悔しいだなんて思ってねーし。ていうか、俺はそもそも浪川を振る予定だったし…………。

 そう強がってみるものの、浪川に対する認識が変わった今では、少しだけ残念に思ってしまうのは仕方のないことだろうか。

 そんな知るはずもない俺の内心ごと置いていくように、浪川は一人先に三人のもとへと歩いていく。


「皆さん、お待たせしました」


「ん、やっと来た」


 浪川に声をかけられると、秀樹はすぐに顔を上げて反応してみせた。

 180cmを超える長身に、華奢であるが貧弱さの一切を感じさせない体格。適度にかき上げられた短髪に、女子受けのよさそうな塩顔そして落ち着きのある低い声音。

 今の俺がこいつに唯一勝てるのは身長くらいだろうか。とにかく、秀樹は俺が気に食わないと思うくらいのスペックを詰め込んだ、自称群馬一運のいい男だ。

 すると秀樹の隣にいた眩昼がずいと一歩前へ出た。

 少女と呼ぶには少々背が高過ぎる172cmの身長に、サラサラと忙しなく揺れ動くセンター分けのボブヘア。本当に俺の双子なのかと疑いたくなるほど愛嬌のある顔つき、そしてだらしなさすら覚える気の抜けた表情。

 黙っていれば劇団の男性役も務められそうな凛々しさを秘めているが、その全てを無に帰すのが眩昼なのだ。


「ねぇねぇどうだったこらんちゃん?おにーちゃんは釣れた?」


「はい、見事な一本釣りができました」


「おー!さっすが我らが漫研の部長だ!えへへ」


 ――おい待て誰が活きのいいカツオじゃい。と、決して俺は口に出すことはなく、眩昼に視線を向けることで不満を露わにするも、眩昼とは物理的に距離があるため気づかれることはなかった。

 いや、それよりも、だ。誰も俺のことを見ていないのは何故だろうか。俺に影を薄くできる能力があるわけでもないのに。


「ふふっ、やっぱり来藍ちゃんに頼んで正解だったねぇ」


「はい。在実さんが提案してくれた通り、この場所であれば一発で朝夜くんをおびき出すことができました」


 ――おい待て誰が巣穴に逃げ込んだ野ウサギじゃい。と、皆から少し離れた位置で会話を聞いていると、俺をおびき出すための作戦を計画した人物が判明した。その正体は、つかみどころがまるでない遊びの天才、在実だった。

 長身の兄を持つ在実は意外にもその背丈は低く、小柄な浪川と並んでも身長差がそこまでない。しかし、兄が憎たらしいほど爽やかな顔つきであるからか、その遺伝子は双子の妹である在実にも確かに受け継がれている。

 浪川にも引けを取らない艶やかな髪は、頭の後ろで髪飾りによってポニーテールに。小麦をこねた生地のような色白さと張りのある肌、そして小悪魔をも連想させる魔性を秘めた切れ長の目。

 ふと、こうして浪川と在実を見比べると思うことがあった。心なしか二人ともどこか顔つきが似ているような気がしたのだ。決してパーツが似ている訳ではないのだが、どこか面影を感じるところがある。おそらく俺の気のせいであるだろうが。

 しかし、相変わらず三人は誰一人として俺のことを見ようともしない。ここまでされたのであれば、さすがの俺でも気付く。――そう、どうやら俺は三人から無視されているそうだ。

 その理由は見当もつかないが、とりあえず俺は皆のもとへと近づいてみる。そして俺は一呼吸置き、意を決して声をかけた。


「……あの、久しぶり」


「「「……」」」


 あぁ、何ということだろうか。俺の決意は何とも虚しく散るように、その声は自分でも驚くほど小さくとても弱々しいものだった。

 当然三人は誰一人として気に留めることはなく、わざとらしく無視を貫いていた。

 だがそんな中でも、浪川だけは俺の方を振り向いてくれた。


「ほら、皆さん。どのような意図があるのかわかりませんが、いつまでも無視をしていると、私がせっかくおびき出した小さな獲物が逃げてしまいますよ」


「っ!?おい待て誰が小心者だ!デカいのは背丈だけって言いたいのか……って」


 浪川の挑発に対し俺が声を荒げると、沈黙を貫いていた三人は急に顔を背けだし、小さく震え出した。

 俺は訳も分からぬまま浪川を見ると、浪川は意味ありげな様子で俺に目配せをしてみせた。


「ふふっ。三人とも、いつもの朝夜くんが戻ってくるのを待っていたんです。ほら」


「え?……あぁ、なるほど。――そういうことだったのか」


 浪川の視線の先を見る。するとそこには何とかして沈黙を貫こうとして、笑いを堪えるのに必死な三人の姿があった。

 秀樹はそっぽを向き、眩昼は頬を風船のように膨らませ、在実は口に手を当てている。

 俺の心配は杞憂に終わり、誰も俺に対して負の感情を露わにしてはいなかった。この場に来てやっと、俺は十分に息を吸うことができた。


「……ふっ、ふふ。ははっ、なんだよお前ら、……まったく。苦しそうに耐えてるんなら、さっさと笑えばいいのにサ」


 三人の様子があまりにも滑稽だったため、俺は思わず笑ってしまった。すると我慢の限界になったのか、三人は一斉に堪えていた笑いを一思いに解放しだした。

 一番最初に口を開いたのは秀樹だった。


「はぁっ、はぁっ、あぁー、このまま笑いを堪えて死ぬかと思った。ったく、朝夜ったらどうしたんだよ。あのらしくねぇ弱々しい声は」


「……うるせぇ。思ったより声が出なかったんだよ」


 あれに関しては俺としても不本意だったのだ。決意は漲っていても、体が追い付かないことがあるのだと初めて知ることとなった。

 秀樹は憎たらしいほど爽やかな顔つきを歪ませながら、手を何度か叩いて愉快そうに笑っていた。そう、これだ。この不思議と他人に不快感を与えることのない、こみ上げてくる面白おかしさを純粋に受け止め吐き出すような笑い方をするのが、秀樹だ。

 そんな懐かしさを覚えつつも、秀樹の両隣へと意識を移す。


「はぁ。眩昼と在実も、ずいぶんと俺のことを笑ってくれるじゃねーか。そんなに面白かったか、俺のことが」


 俺はそう言って目を細めると、やっとのことで二人に俺の文句ありげな表情を見せつけることができた。しかし眩昼や在実に対しては何ら効果がなさそうだった。


「だ、だって、ふふっ……。おにーちゃん、デカいのにおどおどしてて声小さかったし。でも、キレた時の声は大きかったからギャップでつい……、ふふふっ」


 身悶えするように笑う眩昼の言葉に対し共感するところがあるのか、隣の在実も頷きながら笑っていた。

 なるほど、第一声にはキレがなかったと。そんでもって、キレたら声にキレがでたと。そんなことを口にして場を凍らせるつもりはないため、俺は代わりに深く溜め息を吐いた。


「でもよかったぁ。てっきり、朝夜くんは私たちのことを嫌っているんじゃないのかって思ってたんだから」


 呼吸を整えた在実が文句ありげにそう言うと、秀樹と眩昼は同意を示すように頷いて俺を見た。俺に何かを訴えるような視線だ。


「それはその、そう思われても仕方がないというかサ。……あぁとにかく!俺は心を入れ替えて戻ってきたんだ。だからもう高校一年生までの俺はおしまい。それでこれからはお前たちのいる漫画研究部に入部するからサ。だから……」


 ここまで一呼吸もせず言っておいて、何を言うべきかわかっているのに、その先の言葉がつっかえて出てこない。あいつらを見ると余計にだ。

 視線を落とす。すると、未だに手に握られていた皺だらけの入部届がふと目に入った。それを見て何を思ったのか、俺は未記入の入部届を三人のいる方へと突き出した。


「……だからもう一度、俺とお前らで何かをしよう。いや、させてください。俺が原稿を書くからサ、お前らでそれを漫画にしてくれ」


 浪川に依頼されたこともあり、俺は三人にそう提案してみせた。

 すると今まで気配を消していた浪川が隣から「その”お前ら”に、私も含んでくれますか?」と、声をかけてきた。当然否定する理由もないため、俺は頷きながら、


「あぁ、俺をこの場におびきだしたのはお前なんだから当たり前だ。それで、お前らはどうだ。俺の提案を呑んでくれるか?」


 三人の目を見る。すると眩昼たちはそれぞれ目線を交わし合った後、悪だくみをするように気味悪く含み笑いをしだした。


「……なんだよお前ら。気味悪いぞ?」


「いやぁ、その前にな朝夜。お前はまだ漫研部員じゃないだろ?だからオレたち誇り高き”高山大可高校漫画研究部”にお願いをするにはちと、地位が足りないと思わないか?」


 秀樹が仰々しくそう言うと、両サイドの眩昼と在実も「そうだそうだ」と言って、気味悪く笑みを浮かべながら頷いた。


「はぁ。地位が足りないって、それじゃあこれに印鑑と名前を書けばいいんだろ?」


「まぁ、書いたとしてもおにーちゃんは新入部員として、あたしたちがこき使ってあげるから安心してねっ」


 腕を組んだ眩昼は、どこか嬉々としてそう言っているような気がしてならなかった。妹との一年ぶりのまともな会話がこんなのでいいのかと思いつつも、俺は一体何を安心すればいいのかまるでわからない。

 自身の困惑を目を細めることで伝えようとするも、眩昼はまるで気にも留めちゃいなかった。


「まぁ、とりあえず朝夜くんを部室に連行しようよ。話はそれからの方がよさそうだからねぇ」


 在実がそう言うと、浪川も含めた俺以外の全員が「賛成」と、俺の連行に同意するに反応を示した。どうやら俺には逮捕状が出ているのか、これから何らかの容疑についてこいつらに尋問されるらしい。

 どうして誰も連行という言葉に言及しないのか不思議に思っていると、秀樹が「そんじゃ、このまま部室に直行ー」と気の抜けた調子で歩き出した。

 俺はその後姿をぼんやりと眺めながら、あいつらのもとに戻ってきたという事実を噛みしめた。

 今日の一連の流れの結果として、俺の憂いは呆気なく消え去ることとなり、それだけでなく新たな目的を手に入れることができた。――俺はあいつらだけが抱えているであろう『思想』を取材によって見つけ出し、それを題材に原稿を作る。

 浪川曰く、どうやらあいつらの取材をすることは、作品作りのためだけでなく俺にとっても何かしらの恩恵があるらしい。

 何故浪川は作品作りの協力を「邪教の開祖になる」と表現したのか。そして何故浪川を取材することが俺にとって面白いことになるのか。気になることが他にもあるせいで、当分退屈とは無縁な生活が送れそうだ。

 そんなことを薄っすらと考えつつ、俺は校舎へと先を行く三人の後を追おうと自転車に手をかけた。

 すると隣から突然「よかったですね。朝夜くん」と、浪川から声をかけられたので振り向く。


「あぁ、どうも。……えーとその、なんて言うか、ありがとう。一応、これでもお前にはすごく感謝してるんだ。ただ、言葉にするとむず痒いっていうか、とにかく俺はそういう人間だってことで」


「……ふふっ、わかりました」


 口早に捨て台詞を吐いた俺は、恩のある浪川に対して無礼と思いつつも、いたたまれなさからその場を後にした。そんな俺に対し浪川はこれ以上何も言うことはなく、隠し切れない満足さを顔に浮かべて俺の隣をただ静かに歩いていた。

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