第15話
俺の方から過去の話を切り出さずとも、在実は自ら過去に触れた。中学校を卒業してから、俺も在実も互いの関係とその結末を誰にも話すことがなかった。だから過去に触れたとき、俺は中学生当時の気持ちが貼り付いたままの状態になっている。相手を見たときに感じるいたたまれなさや、後悔、それらが今も変わらず残っている。それはきっと、在実も同じはずだ。
「……ごめんねぇ、朝夜くん。せっかく私を取材に誘ってくれたのに、こんな話をしちゃって」
「いや、気にしなくていいよ。俺が在実をここに誘ったのは、いつまでも昔のことがくすぶらないようにするためでもあるんだからサ」
互いに目を合わせず、隣に並んで外の景色を眺める。眼下には大人数での集合写真が撮れそうな広場、そしてその背後には移築された城が堂々と構えている。ベージュの外壁とくすんだ青色の屋根をもつロックハート城は、城と言うよりも大屋敷と表現する方がしっくりとくる大きさだ。どうしても、城というものは小説やゲームで出てくるような巨大なものを想像してしまうため、そのように思ってしまう。
しばらく景色を眺め、意識を在実の方へと傾ける。できることなら、在実からもう少し過去の話を引き出したい。在実の心を過去で染めて、噛み砕くことができなかった行き場のない感情に蝕まれてほしい。――そうすれば、内側が不安定になった心を利用して、今まで口にすることのなかった思想を引きずり出すことができるかもしれないから。
邪悪な目論見が、俺の脳裏に黒々とうごめいている。
「ねぇ」
「うん」
「朝夜くんにとって、私の存在はどういうものだったのかなぁ。気遣いとか、そういうものをなしに、教えてくれる?本当はどう思っていたとか、何でもいいから聞いてみたい」
在実が見つめているであろう視線の先、そこには仲睦まじく歩くカップルの姿があった。スマホを片手に写真を撮り合い、指と指をからめ、互いの熱を感じられる距離まで肩を寄せている。その姿には、俺と在実の関係になかったものが確かにあった。
俺は姿勢を少し変えて、焦点の定まっていない視界に過去を重ねた。
「まぁ、告白されたときは、正直言って驚いたかな。在実にとって、俺はただの熱烈なファンみたいな存在なんだろうって思ってたから」
「……そっか、そうだよね。朝夜くんは、私の一番のファンだったからね」
「うん。でも、それは今でも変わらないというか、俺に絵を描く楽しさを与えてくれたのは在実だし、高校に入ってから今までギリギリ腐らず生きていられたのは、そのおかげでもあるんサ。だから、俺にとって在実は今までもこれからもずっと、人生に彩を与えてくれた大切な人に変わりはない、かな」
俺は意図して在実を異性としてどう見ているかということについて触れなかった。触れてしまうと、これから先、在実が俺に対して抱く認識に揺らぎが出てしまうと思ったからだった。
――正直言って、昔の俺は在実のことが好きだった。それはれっきとした、恋愛的感情と呼べるものだと断言できる。もっとこの手で触れて、身を寄せ合って、熱を感じて、目に見えないものだけでなく五感で在実を感じていたいと。そう思えるくらいに、俺には普通の感性を持ち合わせている部分もあった。
だが、在実が俺に向けて放った「好き」という言葉の意味は、普通のものとは違うものだった。互いの時間を共有することに関して、在実は積極的だった。しかし、在実自ら俺に触れようとしたりはせず、俺が触れようとしても在実は心の底から喜ぶ素振りを見せなかった。それは決して拒絶されているわけではない。ただ、物的な接触で俺は在実の心を満たすことができなかった。
「大切な人、かぁ。……結局、朝夜くんにとっても、私は恋人になれる存在じゃなかったんだねぇ」
「まぁ、俺と在実は恋人の関係に至るには少し、互いの感性が異質だったのかもしれないな。でも、別に歪んでるわけじゃないと俺は思うけど」
「……どういうこと?」
視界の端、在実が俺の方を見上げている。ほんの一瞬在実と視線を交わし、俺は再び正面をわけもなく眺める。
「普通の感性だったり、生物としての本能に従うのであれば、好きな人に求めるものの一つに、物的な接触がもたらす幸福感ってものがあるはず。けど、俺と在実にはそれがなかった。つまり、偶然互いに最初からなかっただけで、感性が歪んでいるわけじゃない」
あたかも自分が在実と同じであるかのように、真っ赤な大嘘を堂々と晴天のもとに披露する。心苦しさから口の中が乾いた感覚に襲われるが、目的のためならば仕方ないと自分を納得させる。
この大嘘に付随する考えは、昨晩用意したものの一つに過ぎない。俺も在実と似たような存在であるという信憑性を高めるために用意した、ただの飾りつけだ。
俺が言葉を途切れさせると同時に、在実が顔を向けて俺を見つめていた。
「……ふふっ」
「どうしたんだ?急に笑ってサ」
クスリと、吐く息にのせた小さな笑い声が聞こえてくる。
「いやぁ、やっぱり、さすが朝夜くんだなぁって。普通の人よりもずっと、考えてることが面白いなぁって。でも、昔よりもずっと、今の朝夜くんの方が面白いって思える」
「それは……、意外というか。ほら、今の俺って普通の格好をしてるだろ?てっきり、そういうところから面白くない人間になったのかって思ってたから」
今朝の駅前での出来事を気にしていないと言えば嘘になる。普通の格好をしてきた俺に対して、在実は少し残念そうな表情を浮かべていた。もう在実とは恋人でも何でもないとはいえ、相手が自分のことをつまらない人間になったと思ってしまうことだけは勘弁だ。俺だってしっかり心に傷を負うのだから。
すると在実は「ううん、そんなことはないよ」と、首を横に振りながら体を俺の方へと向けた。
「朝夜くんは変わることができたんだなぁって、羨ましいなぁって思ったらつい、いじわるなことを言いたくなっちゃっただけだよぉ」
「なんだそれ」
「えへへ。でも、羨ましいって思ったのは本当。今でもずっと、私は昔のままだから。……昔の思い出が何よりも大事で、今でも手放せないから」
在実はくだり用のらせん階段の手すりに手を添えて、片足を一歩階段に踏み出した。
――さて、そろそろいい頃合いではないだろうか。
俺は動き出した在実の背中を追いながら、次の行動について考えを巡らせる。
在実の心はきっと、様々な思い出や感情が揺らいで隙ができているはずだ。ならば今が畳みかける好機だ。俺も在実と同じ、異質な思想を抱えているという片鱗を見せるときが来た。
適度な緊張感と共に、俺は意を決して口を開いた。
「……でも、何もただの苦い思い出として手放さなくてもいいんじゃないか?きっと、あの時感じたことっていうのは、誰でも簡単に手に入れられるものじゃないはずだから」
「……」
「――誰も知らない、俺たちだけの過去は、物語にするだけの十分な価値があるはずだから」
「…………」
揺さぶりの言葉をかけると在実の足は止まり、同時に張り詰めたような空気がらせん状に立ち上る。後姿しか見えないため、今の在実がどのような表情をしているのかがわからない。ただ、俺の言葉が在実に何らかの影響を与えたことは確かだった。
「……朝夜くんは、そうやって気持ちの整理をしてたの?」
低く、冷たく、だが嫌悪を含ませた声ではなかった。俺の内側を探るような視線を向けて、在実は俺の方を振り向いた。
「いや、今でも整理なんてできてないサ。……正直言うと今だって、在実を前に過去の話をすると気まずい思いをする時だってある。でも、これは物語に必要な描写なんだって。物語を見た人が、登場人物に感情移入するために必要なワンシーンなんだって。そう思うだけで、少しは息がしやすくならないかな?」
「……うん」
在実は一間を置いて俺の言葉を理解すると、すまし顔で頷いて再び歩き始めた。するとそれと同時に、先ほど上から景色を見下ろしていた時にいたカップルが、らせん階段を上り始めた。きゃいきゃいと、俺らの存在など気にも留めない様子で言葉を交わす彼らと対照的に、俺たちは塔を出るまでの間、一言も言葉を交わすことはなかった。
暗所から眩い陽の光のもとに出て、城の方を目指す。意図してなのか、在実はしばらくの間俺の少し前を歩いて顔を見せてくれなかった。
途中、「恋人の泉」と書かれた看板の近くに、金属製の管から水が流れ落ちている場所があった。立ち止まった在実は顔を上げて、看板の内容に目を通した。
「――恋を忘れた人が飲めばたちまち恋をし、愛を無くした人が飲めばたちまち愛が始まります。だって。ふふっ、私たちが飲んだら、一体どんな効果があるんだろうねぇ」
「さぁ、すぐにはわかんないなぁ」
俺はともかく、もしこの水に本当にこのような効果があったとしたら、在実に一体どのような影響があるのだろうか。
忘れる以前に恋というもの自体が在実の中に存在していたのか。愛というものは俺に対して芽生えていたのか。在実の感性は普通の人のものとは違うため、俺ですらわからなかった。
「でももしかしたら、私たちにとってはこの水は猛毒かもしれないね」
そう言って在実は流れ出る水に手を伸ばした。
「どうして?」
「だって、恋とか、愛とか、私と朝夜くんはそういうものを求めあうべき関係じゃなかったのに、また同じことを繰り返したら。そう考えると、ね」
そう言って在実は濡れた手を振り払って、水を口にすることなく取り出したハンカチで拭いた。相変わらず合わす顔もないのか、在実は俺の目を見てくれない。
「まぁ、俺に対して負い目を感じる必要はないって言ったって、無理な話だよな。もし俺が在実の立場だったら、今日一日ずっと腹がキリキリしてると思う。今までずっと、触れないようにしていたことだったから」
「……うん。でもね、朝夜くん。今の私は嬉しいんだ」
「えっ、嬉しい?どうして嬉しいのに目を合わせてくれないんだ。……――あ」
するとここにきてようやく、今まで目を合わせてくれなかった在実が俺の方を振り向いてくれた。そして同時に、今まで俺に顔を見せてくれなかった理由がよくわかった。
――在実の頬は微かに紅潮していて、目元と鼻先はわずかに赤みを帯びていた。
「……どうして、そんな顔を」
「だって、今までずっと、この気持ちを誰にも言えなくて。だけど、朝夜くんは私のために時間を用意してくれたから、そのことが嬉しくって」
今まで堪えていたのか、在実の声に顕著な震えが生じ始めた。普段の間延びしたような口調も消え失せ、徐々に余裕がなくなりつつあることが窺える。
予想外の出来事に対し、俺は動揺が表に出ないように取り繕うのに必死で、在実にかける言葉がすぐに見当たらなかった。
「……そっか」
「うん。でも、それだけじゃないんだ。朝夜くんが私との思い出を、物語にするだけの価値があるって言ってくれたことが、何より一番嬉しかったんだぁ」
ショルダーバッグの紐を両手で握り、在実は柔らかな笑みを浮かべてみせた。そして今言葉にしたことこそが、在実が俺に顔を見せてくれなかった全ての原因であることがわかった。この瞬間、俺の胸の内には熱を帯びた液状の何かが満たされるような感覚が確かにあった。
「その、そう思ってくれたなら、よかった。正直、この言葉が在実に理解してもらえるのかわからなくて心配してたんサ」
「へへ、普通の子に言ってたら、変なことを言うんだなぁって思われてたかもね」
「あはは……、そりゃごもっともで」
俺と在実の共通点として、クリエイティブな趣味や活動をしているというものがあったおかげで、俺の言葉は在実に届いたのかもしれない。あるいは、かけた言葉が在実の内側に眠る思想に触れることができたからかもしれない。いずれにせよ、昨晩から準備した揺さぶりの言葉は在実によい影響を与えることができたと判断していいだろう。
途中まで俺は在実の気分を害してしまったかと内心ひやひやしていたが、実際はその逆だった。今の在実の顔を見ればよくわかる。小さい頃、俺が在実の発明した遊びや作品を面白いと言うと、目じりをキュッと細めて笑ってくれた。そして今、在実はその時と同じ表情をしている。
晴天と相まってか、心なしか在実だけでなく俺まで気分に晴れが差してきた気がした。
「ねぇ、早くお城の方に行こうよ。朝夜くん」
「あぁ、そうだな。行くか」
「ふふっ」
この場でこれ以上の言葉を交わすのはやめにしようと、くすぶっていた過去に一区切りをつけるように俺たちは歩き始めた。
すると何故か、今まで意識に入ってこなかった人々の賑やかな声が聞こえ始めた。きっと、いい感じに意識が在実から分散したのかもしれない。まだ真の目的である在実の取材は完全に終わっていないが、少しだけ肩の力が抜けてきたのは確かだ。
城の目の前に広がる広場では、ドレス姿の女性とタキシードに身を包んだ男性がポーズをとりながら写真撮影をしており、まるで映画のワンシーンを表現しているようだった。
俺がその様子を眺めていると隣からひょいっと、
「朝夜くん、あの二人が楽しそうだなぁって思ってるでしょ?」
「まぁ、うん。でも、今の俺たちの方がよっぽど物語のワンシーンとして晴れやかだなって」
「へへっ、なにそれぇ」
最初から理解を得られると想定もしていないありのままの俺の言葉に、在実は微笑みを返した。
時々、普段であれば言葉にしないようなことを口に出してみたいと思うときがある。それはたぶん、相手が在実だからということが少なからず原因としてあるはずだ。――俺の変わったところを面白いところと言ってくれるのは、この古谷兄妹だけなのだから。




