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思想も強けりゃ邪教に至る  作者: 北村 陽
異質の章 第一幕――初夏、取材を前にして
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第10話

 ――俺の日常に亀裂が入ったあの日。一年かけて強固に築き上げたと思っていた平穏は、たった一日の出来事でいとも容易く崩れてしまった。その平穏というものはもともと基盤がもろかったのだろうか、それとも浪川の圧倒的な力量によってなのだろうか。どちらにせよ、今の俺の気分はいい感じに砕けてサラッとしている。

 自分に対する過度な優しさが引き起こした孤独は、今では跡形もなく姿をくらませている。そう、放課後の美術室に行けば、あいつらがいるのだ。自称群馬で一番運のいい男、元カノであり遊びの天才である者、無意識のうちに俺に才能の差を突き付けてくる妹。そして、邪教の教祖になりうる器を抱えた者。

 放課後の活動といっても、漫研らしいことを常にしている訳ではなかった。各自授業中に出された課題をやっていたり、気晴らしにラクガキ程度の絵を描いたり、内容の薄い会話を繰り返しながら笑ったり。学校内における一つの居場所として、部室は存分に機能を発揮していた。

 部室内は、まるで自室のような安心感で満たされていた。だが、だからこそ俺はあいつらの違いを見つけることができずにいた。どこからどう見ても、あいつらは昔と変わらずそのままだ。特別な言動を見せることなく、いつも通りの様子だった。

 ある日の放課後、俺が部室にたどり着くと在実が先に一人で待っていた。


「ん、朝夜くん。お疲れ様ぁ」


「どうも」


 俺は『お疲れ様』という言葉をかけられることに対して抵抗を感じてしまう厄介を抱えているため、素っ気ない言葉を返してしまった。先生から言われた通り、俺は疲れとは無縁の高校生活を送っているため、挨拶の言葉だとしてもお疲れ様という言葉を素直には受け取れない。

 俺はなんて面倒くさい人間なんだと思いつつ、席に座る。


「「…………」」


 無言。無風。無音。ふと――(しず)けさや、から始まる一句を思い出す。だが、しみ入る岩もなければ蝉の声もない。あるのは物音ひとつすらたてられない緊張感だけ。こんな状況でも、松尾芭蕉ほどの俳人がいてくれれば気を遣った一句でも読み上げてくれるのだろうか。そんなくだらない考えをしながら天井を仰ぎ見る。

会話のキャッチボールを考えると、今は俺がボールを持った状態で投げずにいるのだろう。在実は窓の外をぼんやりと眺めているため、声をかけようにもかける言葉が見つからない。――いや、違う。もっと別の理由があった。

――あぁ、気まずい。

その言葉が俺と在実の関係を表すのに最適なものだった。だって、一度別れた人と二人きりになって、どういった会話をすればいいのかわかるはずがないじゃないか。ましてや俺と在実はあまりきれいな形で別れていない。だから余計に何を話せばよいのかがわからない。

 秀樹たちがいるときであれば問題なく話せるのに、どうしてこういうときは普段通りでいられないのだ。

自身に対するもどかしさで頭が埋め尽くされそうになった瞬間、


「ねぇ、朝夜くん」


 しっとりとした柔らかな声。顔を上げると、在実が俺のことを見ていた。


「どうした?」


「その、まだ私と二人きりは気まずいよね。……へへ」


「えっ、いや、それは……」


 気まずさを誤魔化すように、在実はわざとらしい笑みを浮かべてそう言った。


「誤魔化さなくても大丈夫だよ。私も一緒。いつか、朝夜くんには謝らなくちゃって思ってると、つい」


 いつもの在実らしくない様子に、つい違和感を覚えてしまう。


「その、どうして在実が謝るんだ?俺だって……」


「だって、朝夜くんのことを遠ざけようとしちゃって。それで、朝夜くんだけが仲間外れみたいになっちゃったから」


「それは……」


「あはは、いきなり変な話だったよね」


 在実は俺を遠ざけたと言ったが、それは俺も同じだった。俺は自分に対して優しすぎたため在実を、いや、秀樹たちからも距離を置くようになっていた。


「いや、俺だって、謝りたいって思ってることばかりというかサ。勝手にいなくなったし、だから仲間外れにされたとは一度も思ったことはなくって……」


 孤独になることは、俺が望んで手にしたもの。だから過去のことで誰が悪いという議論は、互いに罪悪感を感じている時点で無意味なものだった。


「そう、だったんだ。……それじゃあ、二人とも悪い子だったってことなのかなぁ?」


「まぁ、そういうことにしとこうか。この際善悪なんて議論するだけ無駄な気がするし」


 窓は開いているというのに、部室内の空気が薄い。意識して呼吸をしないと苦しさすら覚えてしまう。

やはり在実たちのもとに戻ってきたというだけで、過去の出来事に対して気持ちの整理ができていない。きっとそれは在実も同じだろう。俺は在実に対して恨みや嫌悪感を抱いていない。だがそのことを伝えない限り、この状況は決して変わらない。

 ――あぁ、浪川から『思想』について探れと言われてるのに、このままじゃ探りすら入れられない。

 俺と在実は、もっと二人で話す時間が必要だ。だが、学校にいる限りそれは難しい。ならばどうすれば――。


「――あぁ、そうだ」


 答えは一瞬にして浮かび上がった。在実との対話の時間を確保しつつ、思想を探り、同時に漫研部員として与えられた役割を果たせる方法を。

 ――そうだ 取材、行こう。


「なぁ在実」


「ん?」


「今週末って、空いてるか?」


「今週末?私は暇だけど、どうしたの?」


「えーと、その、とにかく予定を空けといてくれ。詳しいことはあとでメッセージで送るからサ」


 答えは浮かび上がっていたものの、それを伝える心の準備や計画が十分にできていなかった。在実を目の前にしてると、取材に誘うはずなのにデートに誘っているような気がしてしまう。

 訳のわからない俺の言葉に在実は少し首を傾げ、


「ふふっ、わかったよ。それじゃあ今週末は空けといてあげるねぇ」


「あぁ、ありがと」


 俺の不器用さをわかっている在実は、特に追及することなく了承してくれた。

 とりあえず、今週末は在実の(と)取材をすることが決まった。そうなれば、あとはどこに行くのかと、どのようにして在実に探りを入れるかを考えるのみ。だが依然として、今の在実は俺が昔から知っている在実のまま。

 ――どうして浪川は、在実の思想を知っているんだろうか?在実には浪川にしか見せない一面があるとでもいうのだろうか?もしそうならば、どのようにしてその状況に持ち込めばよいのだろうか?

 作戦を考えてみるものの、在実の思想がどういったものなのかがわからない以上、この場で考えが進展することはなかった。

 そう遅くないうちに部室の扉がガラリと開き、秀樹たちがやってきた。途端に部室内の張り詰めた空気が張り変わり、いつも通りの在実が言葉を交わす。そして俺も、いつも通り飛来してくる要求をひとつひとつ丁寧に迎撃する。

新入部員である俺を可愛がらんとばかりに、皆は俺を下っ端のように扱う。秀樹のお茶を淹れてこいから始まり、眩昼が凝ってもいない肩を叩けと言い、在実は残りわずかになったお菓子の袋を見て「残りが少ないなぁ」と呟き、浪川に「朝夜くんは働き者で偉いですね」と言われて「はい、新入部員ですから」とお手本のような張り付けた笑顔で返事をする。

 昔から、何もすることなく自由にしているよりも、誰かの指示や計画に従って行動している方が気が楽だったため、こういったことがため息一つ吐くだけでできてしまう。つくづく俺は社会人向けな性格であることよ。

 こんなことをしながらも、俺は常に浪川から言われたことを頭に在実たちの観察を続けている。しかし、やはり今日も成果が得られないまま日が暮れた。

 帰り道、いつも通り踏切の前で俺たちは二手に分かれた。古谷兄妹と浪川は踏切を渡らず、道なりに進んでいく。俺と眩昼は、遮断機が下りた踏切の前で並んで待つ。

 ――もし、浪川が言っていたことが本当なら、眩昼にも『思想』があるということだよな?

 だが眩昼の横顔を見ても、とてもそういったものがあるようには見えなかった。相変わらず、何を考えているのかわからないぼんやりとした表情だ。だが、その裏側に何かが隠れているのではないかと考えてしまうと、この表情すらも嘘ではないのかと疑いの念を抱いてしまう。


「……ん、どうしたのおにーちゃん?ジロジロ見てサ」


 俺の視線に気づいた眩昼は首を傾げてそう言った。


「あぁ、いや。ただ、考え事をしてたっていうか」


「どんな?」


「えーと、そうだな……。また大きくなったなぁって」


「えっ、急にセクハラ!?」


「はは、絶対そう言うと思った。そうじゃないってわかってるくせに」


「いや、でも、もしかしたらおにーちゃんは背の高い女子に性的魅力を感じてるかもしれないし……。うわっ、まずい。在実も来藍ちゃんもちっちゃいから、あたしが狙われていることに……」


「はぁ。勝手に一人で盛り上がるな。本当は、いつの間に眩昼も絵を描けるようになってたんだなぁって思ってただけ」


 この言葉すら本当のことではなかったが、誤魔化すには十分だった。


「あぁ、そのこと?えーとね、なんか描いてみたら描けたんだ。そしたら意外にハマっちゃってサ」


「でも、まだ一年くらいしか描いたことないだろ?それなのにコンペで受賞って……」


 昔から、眩昼はそうだ。何をやらせても上達が異常に早く、新たなことへの挑戦にためらいがない。もし眩昼の興味が勉強に向いていたら、俺よりもずっと勉強ができていたはずだ。


「まぁでも、人間には向き不向きがあるって言うでしょ?」


「眩昼が言っても説得力ねーよ」


「えへへ~。あたし、天才ですから」


 眩昼はわざとらしく調子に乗るが、まるで嫌味に感じない。それは自他ともに認めている事実なのだから。


「はぁ。最初は誰一人として変わってないなーって思ってたけど、秀樹もいつのまにか絵を描けるようになってたし、知らないうちに変わってたんだな」


「そうかなぁ?あぁでも、みんな創作活動をするようになったからそうかも」


「そうだろ?」


 眩昼の言う通り、俺がいなくなったことを境に、今まで創作活動をしてこなかった秀樹と眩昼が絵を描き始めるようになった。そのきっかけがわからないため、尋ねることにした。


「ところで、どうして眩昼と秀樹は絵を描き始めたんだ?きっかけとかサ」


「あー、秀樹はわからないけど、あたしのきっかけは来藍ちゃんだよ」


「えっ――」


 その名を耳にした瞬間、妙な胸騒ぎがした。

 過ぎ去る電車が風を切り、やがて警報音が止んで静けさだけが残る。


「浪川が?」


「うん、そうだよ。――あっ、踏切やっとあいた」


「……」


 立ち漕ぎで一気に加速する眩昼の赤いクロスバイクを、無心で追いかける。

俺を邪教の教祖に、そして漫研に勧誘してきた少女――浪川来藍の影響は、もしかしたら俺が想像しているよりもずっと大きいのかもしれない。

 かつて行動を共にしていた仲間に加わった、新たな存在。その影響が、俺の知らないところで密かに拡大している予感がしてならなかった。

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