第9話
――『翠黛祭』、我らが高山大可高校が開催する文化祭の名称だ。毎年外部から約一万人もの来場者が訪れる一大イベントであり、実行委員会が準備や運営のために最も慌ただしく活動する催しでもある。
ふと、去年の今頃のことを思い出す。実行委員会の魔の手が無所属の生徒らに振りかかり始めた頃だ。口車に乗らされた者。勧誘を断り切れなかった者。一度きりの青春を思い、手を伸ばした者。実行委員会に所属した者らは皆慌ただしく動き、大変そうな表情や愚痴を漏らしながらも、与えられた役割に従って従順に働いていた。青春の一コマに最適とも言えることを彼らはしていたはずだ。
だがあの時の俺の目には、彼らがどうも魅力的に映らなかった。それは中学生時代、本来の実力を隠しながら学校生活を送っていたため、表立って何かをするということに対して距離をとっていたからだった。過去の自分を顧みた今だからこそわかったことだが、わかってはいても今更認識が変わることもないかもしれない。そうどこかで半分自分をわかったつもりで諦めている俺が、つい最近までいたのだ。
だが、もしかしたら今は違うかもしれない。今の俺は実力を隠す必要もなく、そして秀樹たちや浪川もいる。興味がないからって、食わず嫌いなんてしていられない。
「――それではこちらの件を在実さんと、新入部員の朝夜くんに任せたいのですが、よろしいですか?」
「うん、わかったよぉ」
「…………えっ、あぁ、えーと。……すまん、その、何の話だっけ?」
しまった。普段の癖で思案タイムに浸りすぎる余り、浪川の話をまるで聞いていなかった。すると一同の視線がくるりと俺の方に向き、秀樹が気味の悪い眼差しで俺を見ていた。
「おいおい朝夜ァ、新入りの分際で話を聞いてねぇとかマジか?どーせ、またいつもの変な妄想でもしてたってところだろ」
「あー、まぁ、そんなところなんだけどサ。すまん、浪川。もう一度説明してくれるか?」
俺が懇願するように手を合わせると、浪川は嫌な顔をすることなく首を縦に振ってくれた。
「わかりました。ふふっ、ではもう一度、いつもの変な妄想をしていた朝夜くんのために説明しましょう」
「えーと、すみません」
浪川は表情や声音といった態度を変えることはないが、さりげなく言葉に棘を忍ばせてくるタイプであるため底知れない恐ろしさを感じてしまう。浪川の機嫌を損ねるようなことはしないようにと、心に深く念じておくことにした。
「まず初めに、朝夜くんと在実さんには翠黛祭の展示を考案して欲しいのです」
「翠黛祭の展示?」
「はい。展示と言っていますが、要は教室内でできる催し物を考えてほしいという、実行委員会から私たち漫画研究部への依頼です」
と、入部早々そして所属して早々に(まだ正式な手続きを終えていないが)大きな仕事が舞い込んできた。すると浪川は机の上に置かれたバッグからクリアファイルを取り出し、席を立って俺と在実にプリントを一枚ずつ渡してきた。
目を通すと、A4サイズのプリントに【企画書】という小さな文字と記名蘭、そして大きな太枠が印刷されていた。プリントの大半は太枠に囲まれた白地が占めているため、自由に図や文字を記入することができそうだ。
「あーあ。今年は私たちにこの仕事が来ちゃったんだねぇ」
「実行委員長曰く、部室を手配した対価として、だそうです」
「ふーん」
在実は手に取ったプリントをぼんやりと眺めながら吐き捨てるようにそう言うと、浪川は依頼が舞い込んだ経緯を簡潔に述べた。
浪川が依頼について説明してくれたことを頭の片隅に置きながら、俺は紙面と向き合う。
最低限の文字しか印刷されていないプリントを見ても、これといってすぐにアイデアが思い浮かぶはずもなく。こういったものは完全にインスピレーション待ちだ。そのタイミングがいつ来るのかは、運任せと言っても過言ではないだろう。
「依頼の内容を口頭で補足しますと、在実さんと朝夜くんには二人で計二つの展示内容を考えていただきます。内容につきましては、生徒や来場者が参加できるものが望ましいとのことです」
「なるほど、なぁ。あ、そうだ浪川。これらの案って自分たちのクラスの中で考えるものとは別なのか?ほら、クラス展示の案って本来ホームルームの時間に皆で話し合って決めてなかったっけ」
「はい。各クラスが運営する展示でしたらそうなります。ですが、今回私たちが依頼されているのはクラスとは別の組織の展示を考案してほしいというものです。そのうちの一つが『実行委員会』、そしてもう一つは『生徒会』、だそうです」
「えっ、マジかよ……」
と、その補足はあまりにも内容が重すぎるものだった。実行委員会、そして生徒会の展示。すなわち学校を代表する組織の展示内容を考案してほしいということ。
――それにしても、これほど重要なことを生徒会と関係のない漫研に任せていいのだろうか?
「漫研部員全員が実行委員会に所属しているため、実質的にこの部は生徒会の一部として機能すべき、ということです」
「えっ、うわぁ……。そういうことだったのかよ。いや、それよりもどうして俺の考えてることがわかったんだ?」
「ふふっ、顔に書いてありましたので」
「えぇ……」
浪川には常に俺の心が見透かされているような気がして気味が悪かった。邪教の教祖になることを提案してきた人だ。読唇術のひとつやふたつを身に着けていても不思議ではない。
「……はぁ、それにしてもこれまたとんでもない依頼だなぁ。それで、期日はいつなんサ?」
「来週の金曜日までだそうです」
「はやっ」
今日は月曜日であるため、期日までは十日以上の猶予はある。しかしこういったものは後回しにしているとあっという間に期日間際になってしまうものだ。
そんな心の余裕を無くしかけている俺に対し、かつて『遊びの天才』と呼ばれた在実は何故だか少し愉快そうにしていた。いや、それだけではない。シャーペンを取り出して、凄まじい速度で太枠内に文字や図形を書き込んでいる。
「あるみー、もう何か思いついたの?」
眩昼が尋ねると、在実は「うん」と一言返して不敵な笑みを微かに浮かべた。
「本当はクラスの方で提案しようと思ってた案があるんけど、こんなに大きな依頼をされたら仕方ないねぇ。ふふっ、私のとびっきりを見せてあげる」
「おおーっ、さすが遊びの天才アルミ様だ!それでそれで、どんな案なの?」
「それは案内のパンフレットができるまでのお楽しみぃ。――はい、書き終えたから紙は来藍ちゃんに返すね」
俺が頭を悩ませていたほんの数分で、在実は企画書を書き上げて浪川に提出した。浪川は一度企画書に目を通すと、興味深そうに頷きながらファイルにしまった。
「ふふっ、やはりこういったことは在実さんの得意分野なだけありますね。とても盛り上がりそうな内容です」
「えー、来藍ちゃんだけ見てずるいー!」
女子たちがきゃいきゃいと盛り上がっている様子を横目に、俺は深々と溜め息を吐いた。別に与えられた仕事に不満があってのことではない。むしろ発案のために頭を捻るのは非常に有意義だとすら思える。ただ、今日一日だけでも状況が目まぐるしく変わったものだから、少しばかり一呼吸おけるタイミングが欲しかった。
そんなことを考えていると、トントンと、正面にいる秀樹が机を爪で叩いて俺の気を引いてきた。
「へへ、気疲れしてそうな朝夜に俺から朗報だ。ちなみになんだが、来藍から言われたのは実行委員会としての仕事の一部であって、俺たち漫研のやるべきことは他にもある」
「え、マジで?」
「あぁ。下っ端のお前にピッタリな役回りを用意したから、せいぜい励むことだな」
秀樹はそう言うと俺から視線を外して浪川の方を見た。気付けば眩昼と在実は静かに部長の発言を待っていた。
「それでは話の続きをしますね。――ひとまず直近で取り組む必要がある実行委員会の仕事は以上になります。次の話はサーバー上で画面共有をしながら話しますので、朝夜くんは眩昼さんから見せてもらってください」
「わかった」
浪川の言葉に従い、丸椅子を眩昼の方へと寄せる。発色と画質の良いパソコンの画面には、浪川のタブレット端末の画面に表示されていると思わしきものが映されていた。
「おぉ……」
よく見なくとも、それは漫画の原稿であることがわかる。下描きの段階なのだろうか。線は荒々しくも、フキダシやコマの区切り方、キャラクターの大まかな造形がみっちりと描き込まれている。
――もっと細部まで見てみたいのに、動かせない。
今見ている映像は、浪川の画面をこのパソコンに共有しているに過ぎないため、動かすことは当然できない。
内容はファンタジーなのだろうか。所々にレンガ造りの建物や、ドラゴンといったキャラクターが描かれている。だが登場人物の少女が小銃のような形状をした武器を持っていたり、軍服といった近代的な装いをしていることからSFファンタジーに近しいものも感じる。
「おにーちゃん、画面覗きすぎ。あたしが見れないんだけど」
隣を見ると、不満を口にした眩昼が目を細めていた。
「あぁ、すまん。えーと、漫画の下描きって確かネームって言うんだっけ?こういうの、初めて見たからつい」
目の前の画面に映されているのは、作品の完成に向けた下準備。今まで小説や色鉛筆を用いた簡単なイラストしか作ってこなかった俺にとって、より専門的な技術や段取りが詰め込まれていることが窺える。興味がわかない理由がない。
「ふふっ、興味を持ってくれたようでよかったです。この作品は私が書いたストーリーを漫画にしたものなんです」
「あー、そういえば小説書いてたって言ってたもんな。それで、これはどんな物語なんだ?」
「そうですね。タイトルは『白影赤光を見つめて』、というものです。そして内容なのですが、話すと少し長くなりますがいいですか?」
浪川は一度在実たちに目配せをしてみせた。
「皆がいいって言うなら是非とも聞きたいな」
俺も周りを見渡してみると、一同反対意見を示す素振りを見せることはなかった。そのことを確認した浪川は話を続けた。
「では、世界観と冒頭のあらすじを少しだけ話しますね。まずは世界観から――」
こうして浪川は共有された画面を使って、俺に物語の内容を説明し始めた。
――物語の舞台となるのは、内戦の終戦間際の島国。
古来より人と龍が共存し、独自の文化を持つその国は、長い間大陸諸国との関りを絶っていた。しかし大陸の魔術や技術力が発展していくにつれ、次第に外部からの干渉を受けるようになっていく。
国外からもたらされたのは、何も新たな技術や文化だけに留まらない。当然、その島国特有の資源や土地を欲する諸国の介入が後を絶たなかった。
国は外部との争いを避けようと、大陸諸国との友好関係を結んでいくうちに、最終的にこのような二大勢力に分かれることとなった。西側を、龍の力を用いた生体兵器や医療技術を推進していく革新派が。そして東側を、本来あるべき生命の姿を変えることなく科学技術を発展させていく保守派が勢力を拡大していた。
両者は島の外部からの侵攻を考慮し、内戦を起こさぬように努めていたが、とある事件を引き金に内戦が勃発。龍と人らによる島全土を巻き込んだ大規模な戦争により、自然豊かな国土の半分は焦土と化し、平穏な日々を過ごしていた人民らの日常は激変してしまった。
「――と、ここまでが物語の背景といったところです」
「なるほど」
浪川がそう言い切るまで、俺の精神は完全に物語の世界に浸りきっていた。
雄大な自然を背景に飛び回る龍や、人々の営み。それらが外部からの干渉によって劇的に変化し、悲劇が生まれ、そして終戦後の結末へと向かっていく。王道のストーリーであるものの、こういったファンタジー戦記は大好きだ。
「……ですがこれはあくまでも背景であり、焦点を当てるのはもっと違う話です」
「え、そうなのか?このあらすじだけでも十分な物語ができそうなのに」
浪川の言葉は俺にとって意外なものだった。俺であればこれだけのあらすじを作るだけでも十分満足してしまうが、どうやら浪川は違うらしい。
「確かに、物語の背景だけでも作品は十分に作れます。ですがそれではただ戦うだけの、ありふれた物語になってしまいます。私の場合、この舞台背景をもとに新たな視点と要素を加えます」
そう言うと、画面に表示されているページが切り替わった。
画面に目を凝らす。するとそこには序盤の世界観の説明パートとは違い、今度は白装束の男らしき人物が出てきた。
「朝夜くんは、死神についてどのようなイメージを持っていますか?」
すると突然浪川から質問を投げかけられたので、
「えーと、まぁ、取り憑かれるとその人が死ぬとか、死を司る恐怖の存在とか、そんなところかな」
ありふれた回答であるが、死神についてこれ以上何かを思いつきもしない。そんな死神が、この物語にどのような形で入り込んでくるというのだろうか。そう考えていると浪川は「ふむ」と言って頷き、意味ありげな様子で鼻を鳴らした。
「では、朝夜くんが言った『死を司る』という点に着目してみましょう。――もし、人には予め定められた死期というものがあり、それらを司る存在がいたとしたら。そしてその存在は、人の死期とは無関係に訪れる死因を見つけたら、一体どうするのでしょうか?」
「……」
吸い込まれるような瞳に、精神がのめり込むような語り口、そして与えられた新たな視点と要素。これらすべてが重なった今、俺の思考は今までにない程加速し、味わうように何度も浪川の質問を噛み砕いて答えを導きだそうとした。
「……そうだな。その場合、死神は不要な死因を排除する。つまり、死神であるのに人を死から守る、かな」
自身の答えを口にする。すると浪川はどこか満足そうに目じりを少し細めていた。
「はい、正解です。朝夜くんが言った通り、私の中での死神というのは単に死を与えるだけの存在ではありません。事前に定められた正しい死を人に与えるために存在する、言わば物語の校閲をするような存在です」
「校閲……、なるほど。正しい意味や内容になるように、つまりは物語が正しく進むように人の死を管理するのが死神ってことか」
「そうです」
戦いの中で誰が死に、誰が生き残るのか。それらを管理し定められた物語の結末へと世界を導く存在、それが死神だと浪川は言いたいはずだ。なるほど、浪川の世界の死神というのは、一般的な死神よりもやることが多くて大変そうだ。この世に何人の人がいて、ましてや戦争ともなれば排除すべき無関係な死因は山ほどあるのだから。
「しかし、全員が死神によって死を管理される訳ではありません。ほんの一握りの、運命に対して抵抗力を持つ主人公のような人にだけ死神は宿ります」
「……なるほど。はは、主人公には運命に対する抵抗力があるとは、言い得て妙だな」
確かに物語の主人公というものは『主人公補正』という言葉があるように、どんな絶体絶命な境地に立たされようとも物語が終幕を迎えるまで生き残るのがほとんどだ。だが浪川が描く世界では、どれほど物語の中心に立つに相応しい存在であっても、世界を正しい方向へと導くために死を与えられる。
人を不要の死因から守るだけでなく、運命の不安定さを排除するのも死神の役割だとは、なかなかに面白い設定だ。
――そうなると、この設定を読者に伝えるのに相応しい冒頭のシナリオは、こうではないだろうか?
「……なぁ、もしかしてこの作品の冒頭にはサ、主人公が死神によって死を与えられて戦死するシーンがあったりするだろ?」
自身の推理を披露する探偵のように、もう一度浪川の目を見て自身の推測の正誤を窺う。浪川の目を見る限り、どうやら俺の答えは正解らしい。
「ふふっ、さすが書き手なだけありますね、朝夜くん。――その通りです。この読み切り分として描いた冒頭では、死とは最もかけ離れるべき存在である少女の兵士が、死神の能力によって復讐の最中に命を落としてしまいます」
「あー、やっぱりか」
「序盤から少々心苦しい展開ですが、このようにしなければ私の中での死神の意味を読者に伝えることができません。訪れる死に容赦は一切なく、物語の結末に必要な展開を当てはめ続けられるのが、登場人物らに待ち受ける運命なんです」
「それは……、本当に容赦ないな」
そう語った浪川の声音から普段の温かさは消え、得体の知れない神秘が精神に混じっているようにも思えた。想像力や発想力、そして感性が普通の人間とはまるで違う。まさに邪教の教祖となるに相応しい器が、いや、『思想』がそこにはあった。
「そして更に付け加えて。――少女の兵士に死を与えた死神の正体が、過去に戦死した少女の兄であったとしたら」
「……」
「朝夜くんは、どう思いますか?」
一瞬だけ、無意識にできていたはずの呼吸が、自分で意識しないとできない状態になってしまった。
それは問いかけと呼ぶにはあまりにも鋭利で、俺の精神に深々と突き刺さったまま質量を増していく。
実際に妹を持つ俺だからこそ思うことがある。
――もしそのような状況になったとき、俺は眩昼に死を与えられるだろうか。
隣の眩昼とふと目が合った。普段の気の抜けた表情とは違い、俺の答えを待っているような真っ直ぐな眼差しが凛とした表情から向けられている。物語の内容を知っている眩昼も、もしかしたらその質問に対して何か思うことがあるのかもしれない。
「俺は……、多分、俺だったら、眩昼に死を与えることはできない……かもしれない」
「え、マジで?えへへ、よかったー。おにーちゃんに殺されなくって」
「……はぁ。俺がそんなことするわけないだろっ」
「いてっ」
あぁ、眩昼の気の抜けた反応のせいで拍子抜けもいいところだ。その腹いせに眩昼の額に理不尽なデコピンを一撃加えてやった。
つい先程まで作品の世界に没入していた気分だったからか、途端に戻ってきた現実が少しだけ残念な気がしてならない。もっと物語の世界にのめり込みたかったのに。
「まぁ、どう思うのかって質問に答えるとすると、随分残酷な展開だなぁってのが正直な感想サ。妹に死を与える役割を兄がしなくちゃいけないだなんて、恐ろしくて考えもしたくない」
「そうですか。――では、死神である兄は妹に死期が訪れるまで、迫りくる死因を徹底的に排除し続けていたとしても、朝夜くんは同じことが言えますか?」
「……それは、その……」
そうだった。浪川の言う死神は、単に死を与えるだけの存在ではないのだ。不適切な死を退け、事前に定められていた物語の結末に世界を向かわす役割を持ち、その手段として最終的に死を与えるに過ぎないのだった。
このように考えると、一概に残酷な展開と言えないのかもしれない。何故なら少女の兵士は命を落とす時期が決まっていて、死神である兄は妹に死期が訪れるまで妹のことを守っているのだから。
「なんというか、固定観念とかがあるせいで最初は残酷だって言ったけど、もしかしたらそうじゃないと言えるのかもしれない。……でも、やっぱり残酷は残酷だ」
最後の言葉は、俺という精神がある限りは絶対に揺らぐことのない感想だった。血の繋がりを考慮せずとも、よく見知った人物に不本意な結末をもたらすのは非常に心苦しい。――そう思うからこそ、俺は一度秀樹たちから距離をとったのだから。
すると浪川は「そうですか」と相槌を打って、俺の言葉を受け取った。
「……ふふっ、でも安心してください。ここにいる全員、朝夜くんと同じ意見です」
「え、そうなのか?って、まぁそうだよな。俺たち全員兄妹がいるんだから……ってあれ、そういえば浪川って兄弟とかいるのか?」
「はい。上に一人、とても優秀な姉がいます」
「そうだったのか」
何故か浪川は姉のことを『とても優秀』と、強調して言っていた。学年一位の学力を持つ浪川が優秀と言うことは、どれ程頭がいいのだろうか?
気になることがありつつも、浪川は手元のタブレット端末に視線を落として話を続けた。
「さて。いろいろと脱線してしまいましたので、話を戻しましょう。現在ネームを描き終えましたので、これからはそれぞれが作業を分担して行ってもらいます。背景を在実さん、人物を秀樹くん、そして表紙と裏表紙のイラストを眩昼さんにお願いします」
浪川が指示を出すと、秀樹らはそれぞれ了解の意を口にした。新入部員である俺に仕事がないのはわかりきっていたことだが、少しだけ疎外感を感じてしまうのは仕方のないことだろうか。
そう思っていると、浪川と視線が合った。
「ふふっ、安心してください。朝夜くんにも役目がありますので」
「あぁ、それならよかった。一人だけ蚊帳の外っていうのも、少し寂しいからサ。それで、俺は何をすればいいんだ?」
「朝夜くんは、これから作り上げる物語の舞台となる場所の取材をしてきてください」
「取材、か」
結局現在漫研で制作中の漫画に関して蚊帳の外であることに変わりないが、先のことを見据えた取材ということであれば俺でも十分役に立つはずだ。
しかし、今の俺にとって『取材』という言葉には違った目的もあった。それは神社で浪川に言われた、秀樹らの取材をするということだ。あいつらにあって、俺にはない『思想』を悟られないように見つけなくてはならない。
「物語がどのようなジャンルで、どのような場所を舞台にするかは朝夜くんの自由です。ですが必ず、取材したことをもとに世界観を作り上げてください。その方が私たちが漫画にする際に描きやすいので」
「なるほどなぁ。――わかった。それじゃあ週末にでも出かけてみるよ」
「はい、お願いします」
こうして漫画研究部員として初めての役割を割り振られ、学生らしい活動をする準備が整った。
その後浪川は秀樹たちにそれぞれ個別に具体的な指示をし始め、俺はそれをボーっと聞くこととなった。
参考資料や、その状況における登場人物の表情や動きそして内心、更には表紙にどのようなイメージのイラストを載せるのかといった具体的な内容の会話だった。俺は今まで一人で創作活動をしていたからか、自身のイメージを他者と共有することの大変さを知ることがなかった。だがこうして目の前でその現場を見ると、如何にコミュニケーションが大事なことであるかがわかるものだ。
しかし、さすが浪川だ。部長なだけあって、的確に指示を出している。秀樹らも自身の考えをすり合わせるように意見を出し、浪川と連携をとっている。これが俺の今までの高校生活に不足していた要素なのだと、考えるまでもなく痛感することとなった。
――定例会議は、日が傾き始める手前まで行われた。
「――では、今日の定例会議はここまでとしょう。皆さん、お疲れさまでした」
浪川の言葉に対し、それぞれが「お疲れさまでしたー」と口に出す。
気付けば教室の外から覗く空に橙が差し込み、風音も少しばかり肌寒そうなものへと移り変わっている。しかしだいぶ日が延びたものだ。今は大体6時くらいだろうか。少し前まですぐに暗くなっていた空も、まだ少し青さを残している。
皆が一斉に帰り支度を始めたので、俺も身の回りの整理を少しばかり手伝った。
そんな時、ふと思うことがあった。
――そういえば、先生はいつこの部屋からいなくなったのだろうか。
眩昼の機材を渡した時には確かにいたはずなのに、気付けばいなくなっていた。
「――入部届の記入は済んだかね」
「うわっ、びっくりした。……って、またですか?」
椅子から立ち上がろうとしたところ、いきなり後ろから声をかけられたので振り返る。
もはや言葉にするまでもないが、そこには先生が立っていた。
「またとは、一体どういう意味だ?」
「いや、だって先生って気付いたらいなくなって、どこにいったのかなって思ったら急に現れるんですもの。少しくらい存在感というものをわかりやすく示してください」
俺がそう訴えかけると、先生は何かを考えるように腕を組んだ。
「それはそうだな……、残念だが昔からの癖で直すことができない。君が私に慣れてくれたまえ」
「えぇ……」
先生の存在を知覚できないことに慣れるようになるのかと思いつつも、在実たちに驚く素振りが見られないことから慣れるしかないのだろうと、半ば諦めることにした。
俺はそのまま入部届を先生に提出し、実行委員会の所属届を浪川に手渡した。
入部届を受け取った先生は「確かに受け取った。では、また明日」と言って、わざとらしく足音を立てながら部室を出て行った。しかし、その足音は部室を出て行った数歩のところではたと聞こえなくなってしまった。――先生はきっと、常に数ミリ宙に浮いているか、テレポートする能力があるに違いない。そう思って帰りの支度を済ませた。
カーテンを閉め、忘れ物がないか確認し、部室の明かりを消し、全員が廊下に出ると鍵を持っていた浪川は施錠をした。
特にこれといって何かが起こることがないまま、他愛もない会話を繰り返しながら駐輪場へ。思えばこんな時間に帰るのはいつぶりだろうか。そして、誰かと話しながら帰るのも。
こんなありふれているであろう状況であっても、今の俺にとってはどこか懐かしさを、いや、懐かしさを通り越して目新しさを覚えてしまう。それ程までに、俺の精神は過剰な平穏によって歪んで沈んでいたのだのだろう。
かつて、自身の心理状況を第三者視点から俯瞰して解析してみようとしていたものの、やはりそこには俺という主観と、こうであって欲しいという願望が混ざってしまっていたのだろう。――俺は歪んでいない、まだいくらでも再起できるはずだ、と。
冷静になって考えれば、俺の問題は孤独から解放されれば解決できることがほとんどであったのに、そのことに気付かなかった。いや、気付いても行動する気力がなかった。
だからこそ、強引な浪川の行動が俺を導いてくれた。そして、運よく俺のことを受け入れてくれる環境があった。
秀樹は自称群馬一運のいい男と称しているが、俺も俺でなかなかに運がいいと思う。主人公として立ち回るに相応しい運の良さだと思う。
「朝夜ー、今何考えてるんだ?」
空をぼんやり眺めながら思案タイムに耽っていたところ、隣の秀樹に声を掛けられる。
「ん、えーとな、俺って世界一運がいい男だなってサ」
「はぁ?それってオレより運がいいって言いたいのか?」
「あぁ。お前の運の良さなんて眼中にないほどに、な」
「なんだそれ」
くだらない会話に、波乱の連続による少々の気疲れ。久々の感覚に浸された俺の頭は今、どんな酔っ払いよりもいい気分に満たされているに違いない。そう思える程、今日の出来事は俺に様々な影響を与えてくれた。
さて、週末はどこを取材をしてみようか。
取材を口実に、俺は最初の人物と二人で話す場を設けることにした。
視線の先、そこには小さく笑う在実の姿があった。――そう、俺の元カノであり、俺に絵を描くきっかけと楽しさを教えてくれた在実は、俺にとって原点とも呼べる存在だ。
果たして、在実には一体どのような思想が隠されているのだろうか。そんな俺の目論見を知るはずのない在実は、ケラケラと談笑を続けていた。




