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残りものには福がある

作者: 平末さくら

 大学生の亜希子がショッピングモールの雑貨屋でアルバイトを始めて半年が過ぎた。レジを打ったり、棚の商品を整えたりと、忙しいながらも仕事には慣れてきた。けれど、彼女の心を最も揺さぶるのは、隣の靴屋で働く柏田の存在だった。


 柏田とは休憩室やバックヤードですれ違うことが何度かあった。しかし、会話は「お疲れさまです」とか、「今日も暑いですね」くらいで、それ以上は発展しない。彼はいつも穏やかな表情をしていて、笑うと少し目尻が下がる。その顔を見るたびに、亜希子の胸は少し高鳴った。


 ある日、バックヤードで荷物を整理していると、扉の向こうから足音が聞こえた。ドアが開き、そこに立っていたのは柏田だった。彼もこちらに気づき、軽く会釈する。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


 それだけの会話。でも、亜希子の心臓はいつもより少し早く打っていた。柏田がガムテープを取りに来て、すぐに去っていく間、彼の後ろ姿をこっそり目で追う。


 もっと話してみたいな。


 そんな思いを胸に秘めながら、亜希子は再び手元の仕事に戻った。




 亜希子は、友人に誘われて合コンに参加することになった。4対4のはずだったが、開始時には男性陣が3人しかおらず、「もう一人は遅れてくる」と幹事の男性が申し訳なさそうに言った。


 一次会の会場は、カジュアルなイタリアンレストラン。テーブルにはピザやパスタが並び、賑やかな雰囲気の中で乾杯のグラスが軽く触れ合った。


「亜希子ちゃん、趣味って何かある?」と、向かいの男性が笑顔で話しかけてくる。


「えっと……。雑貨屋でバイトしてるので、かわいい小物とか見るのが好きです」


「え~、おしゃれ!どんな雑貨が好きなの?」


 すかさず隣に座る友人がフォローを入れる。「亜希子、センスいいもんね!この前買ったバッグとかめちゃくちゃかわいかったよね?」


「そうそう!あのバッグ、本当にお気に入りで!」と亜希子も乗っかる。


 女性陣は、互いに話を広げたり、お互いの魅力をさりげなくアピールし合ったりしながら、場を盛り上げていた。「〇〇ちゃんって料理得意なんだよ」「△△ちゃんってほんとに面白いよね!」と褒め合うことで、自然に男性陣の興味を引こうとしていた。


 男性陣もノリがよく、「それはすごいね!」「今度教えてよ」と楽しそうに反応してくれる。会話が弾み、笑い声が響く中で、ふと亜希子は思った。


 もしここに柏田くんがいたら、どんな風に話してくれるんだろう?


 そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに頭を振る。今日は合コン。目の前の会話に集中しなきゃ。


 ちょうどその時、幹事の男性のスマホが鳴った。


「あ、遅れてたやつ、そろそろ来るってよ!」


 果たしてどんな人なのだろう。亜希子は少しだけ胸の高鳴りを感じながら、グラスの中の飲み物をひとくち口にした。




 亜希子はカラオケルームの片隅でストローをくるくると回しながら、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。


 二次会が始まってしばらく経つが、遅れていたはずの男性はまだ姿を見せない。人数が合わないまま進む合コンの空気が、次第に女性陣の焦燥感を生んでいた。そして、その焦りが露骨に行動に現れ始めたのは、誰もが酔いで気が緩み始めた頃だった。


 最初は協力し合っていた女性陣も、いつの間にか自分が余りものにならないよう、必死になっていた。隣の友人は、胸元の開いた服を少し引き下げるような仕草をしながら、「ねぇ、〇〇くんって筋トレしてるの?」と甘えた声を出している。その向かいでは、別の女性が男性の腕にさりげなく触れ、「私、こういうガッチリした体型好きなんだよね」と笑っていた。


 自然と男たちの視線は、スタイルの良い女性たちへと集中する。最初は和気あいあいとしていた雰囲気も、気づけば男女がペアになり、それぞれの世界へと入り込んでいった。


 どうしよう。


 亜希子は、手元のグラスを見つめながら思った。


 自分には、彼女たちのように武器になるスタイルもない。甘え上手でもないし、あざとい仕草なんてもっとできない。結果として、誰ともペアになれなかった。


 気がつけば、カラオケルームの中はまるで別の世界になっていた。3組のカップルが、それぞれのペースで距離を詰めている。肩を寄せ合うどころか、抱き合い、男の手が女の服の中へと忍び込んでいくのも見えた。くぐもった笑い声と、小さな甘い吐息が混ざる。


 亜希子は、喉の奥がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。


 一人だけ取り残されている。


 壁際に座り、膝を抱えるようにして縮こまる。スマホを開いても、特に誰かに助けを求めるわけでもなく、ただ画面を眺めるだけ。


 帰りたい。


 でも、ここで一人で帰るのも負けたような気がして、動けなかった。


 目の前の光景が霞んで見えるほど、寂しさが募っていく。




 今にも涙が零れ落ちそうな気分になっているときだった。部屋の扉が不意に開いた。


「遅くなってごめん!」


 軽く息を切らしながら入ってきたのは、なんと柏田だった。


 亜希子の胸が、ドクンと高鳴った。


 まさか、と思ったけれど、間違いなく柏田だ。走って来たのか、少しだけ乱れた髪に、見慣れた黒のジャケット。彼は友人たちに事情を説明している。


「サークルの面倒な先輩に捕まっちゃってさ。やっとのことで逃げ出してきた」


 そのとき、柏田の表情が変わった。


「あれっ! 亜希子ちゃん?」


 柏田が少し驚いた顔をする。しかし、自然な流れで、空いていた亜希子の隣に座った。


「なんか、照れるね。こんなところで会うなんて」


「うん……」


 声が上ずるのを必死に抑えながら、亜希子は頷いた。


 気づけば、周りのカップルたちはそれぞれの世界に入り込んでいて、他人のことなど気にしていない。まるで、この空間に亜希子と柏田だけが取り残されたようだった。


「すごい偶然だな」


 柏田が静かに笑う。その笑顔を見た瞬間、亜希子の心に積もっていた寂しさが、ふっと溶けていくのを感じた。


「ねえ、ちょっと外の空気、吸いに行かない?」


 勇気を振り絞って言った亜希子に、柏田は少し驚いた顔をした後、すぐに「いいね」と頷いた。


 扉を開けて、二人でカラオケ店の外へ出る。騒がしい音楽と甘ったるい熱気から解放され、静かな夜の空気が心地よかった。


 亜希子は、柏田の横顔をそっと盗み見る。


 夢みたい。


 ずっと遠くから眺めるだけだった彼が、今、隣にいる。


「こういうの、運命っていうの?」


 ふいに、柏田が笑いながら言った。


 亜希子の心臓が、また大きく跳ねた。


 カラオケルームを出て、歩道を並んで歩く。外の空気はひんやりとしていて、騒がしい部屋の中とはまるで別世界のようだった。


「こんなところで会うなんて、本当にびっくりした」


 亜希子がそう言うと、柏田はふっと笑った。


「俺も。最初、信じられなかったよ」




 行き先は決めずに歩く柏田の横顔をそっと盗み見る。いつも職場ですれ違うだけだった人が、こんなにも近くにいる。それだけで、胸がいっぱいになった。


 ふと、柏田が立ち止まる。


「なあ……」


 彼は少し照れくさそうに笑いながら、ゆっくりと口を開いた。


「今日さ、亜希子ちゃんのこと……。お持ち帰りしたい」


 その言葉に、一瞬、時間が止まったような気がした。


「え……?」


「ダメかな?」


 真剣な眼差しでこちらを見つめる柏田の姿に胸が高鳴る。ずっと憧れていた人から、そんな風に誘われるなんて。


 亜希子は、そっと視線を落として、けれどすぐに微笑んだ。


「ダメじゃないよ……。嬉しい……。嬉しいに決まってるじゃん」


「ほんと?」


「うん」


 柏田の顔が、ぱっと明るくなる。


「じゃあ、行こっか」


 優しさにあふれる手が、そっと亜希子の手を引いた。


 暖かい。


 ずっと片想いだった人と、今こうして繋がっている。その事実が嬉しくて、胸がいっぱいになる。


 夢みたい。


 亜希子は静かに息を吐きながら、彼の隣を歩き出した。




 その後の記憶は、少しぼんやりしていた。タクシーに乗って、並んで座って、何を話したかもよく覚えていない。ただ、柏田の隣にいることが心地よくて、ほんの少しだけ夢みたいで。


 彼の部屋はシンプルだった。余計なものがなくて、生活感もほどほどにある。男の人の部屋ってこんな感じなんだな、なんて場違いなことを考えながら、亜希子はソファに座った。


「緊張してる?」


 柏田が笑いながらそう言う。


「してる……」


 正直に答えると、「そっか」と優しく笑って、彼は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。


「飲む?」


「うん……。ありがとう」


 水をひと口飲んで、少し落ち着く。でも、隣に座る柏田の温度がすぐ近くにあって、またドキドキし始める。


「なんか、不思議だよな」


「何が?」


「今まで、職場のバックヤードとかでちょっと挨拶するくらいだったのに、今はこうして二人でいる」


「ほんとにね」


 会話が途切れる。けれど、気まずくはなかった。ただ、お互いにお互いを意識しすぎて、次の言葉が出てこないだけだ。


 そして、ふいに柏田が手を伸ばして、亜希子の頬にそっと触れた。


「帰りたい?」


「帰りたくない」


 小さな声で答えると、柏田は安心したように微笑んで、そっと距離を詰めてきた。


 キスは思っていたよりも短くて、切なかった。ずっと憧れていた人が、今、自分のすぐ近くにいる。その事実が嬉しくて、でも少し怖くて、亜希子はそっと目を閉じた。


 この夜が、夢じゃありませんように。

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