第八話:けん玉マジック
そんなに大きくない(実際小さいw)音響会社を営むPAエンジニアおじさんの、ほぼ実話を元にした小説です。フェスや様々なイベントに出かけられることがあると思いますが、そのフェスやイベントの運営には、実際に数多くの人たちが関わっています。その中で、ステージなどで必ず必要とされる音響という仕事に関する小説です。
後書きに『登場人物紹介』と『用語解説』を掲載しました。
和太鼓サークル『天地神明』の演奏が終わると、ステージ周辺のスタッフは迅速に動き出した。大きなブルーシートが広げられ、濡れないように和太鼓が丁寧に保護される。観客の拍手が鳴りやまぬ中、清水からマイクを受け取ると柚木真由美がステージに登場した。
「皆さん、素晴らしい演奏に大きな拍手をお願いします!」
観客の中には傘を差し始めた人もいたが、小雨はそれほど強くなく、イベントは継続できる状況だった。ただ、ステージの床は少し湿り気を帯びており、出演者の安全確保のためにも、一時的に進行を調整することになった。
柚木は軽くステージを見回し、進行表を確認する。そして、明るい声で話し始めた。
「さて、この間に、会場内の美味しいグルメをご紹介したいと思います!」
このフェスは音楽だけでなく、多くのキッチンカーや屋台が並ぶフードフェスでもある。こうした時間を使って飲食ブースを紹介するのは、ある種の定番でもあった。
「まずはこちら! 大人気のハンバーガーショップ『BURGER SUN』さん!」
柚木が指をさすと、PAブースのすぐ横にあるキッチンカーの前で、店員が手を振って応えた。ジューシーなパティを挟んだハンバーガーの香りが、雨に濡れた空気の中に漂う。
「お次は、おなじみのクレープ屋さん『Sweets Rollo』さん!」
クレープを焼く甘い香りがふわりと広がり、子供連れの観客が興味津々といった表情を見せる。柚木の紹介に合わせ、会場内を移動する人が増えていった。
「そしてこちら、いつも大人気の『Kon's Kitchen』さん!」
カウンターには、美味しそうなタコスやホットサンドが並び、立ち寄る人の列が途切れない。すでに売り切れになっている商品もあるようだ。
「中にはもう売り切れになっている商品もあるようです」
PAブースでは、吉田北斗がキッチンカーを眺めながらぼやく。
「Konさんのタコス、食べそこねちゃうかなぁ」
「仕事が優先だろ。愚痴るな愚痴るな」
すると、そのタイミングでPAブースに近藤が現れた。手にはしっかりとタコスが握られている。
「約束していたタコスだよ!去年たくさん買ってもらったから、これはオレのおごり!スタッフと食べてね」
「こりゃありがたい!ゴチになります」
「ありがとうございます!」
上条と吉田が嬉しそうに受け取り、早速口に運ぶ。スパイスの効いたジューシーなタコスの味が、雨の中でもしっかりとした満足感をもたらす。
ステージでは次の演目、けん玉アーティストのショーが控えていた。BGMの準備はすでに整っており、ラベリアマイクは清水がけん玉アーティストの蝶ネクタイにセットし終えている。
雨の様子を確認するために、柚木が引き続き場をつなぐことになっていた。その間、清水がPAブースへ戻ってくる。
「柚木さん、さすがですね。雨を逆にイベントの盛り上がりに変えちゃってる」
「そりゃ、あいつの腕だよ。場をつなぐのは進行役の仕事だからな」
「確かに。でも、お客さんも楽しんでるみたいでよかった」
ステージ上の柚木は、次々とキッチンカーを紹介しながら、観客を飽きさせないように工夫を凝らしていた。
「あー、タコス!!ズルい!!」
「みんなの分もあるよ。丸川や田渕さんの分まで食べるなよ!」
「私、そんなに大食いじゃありませんっ!」
雨は降り続いているものの、空は明るいままだ。雷の心配もなく、イベントはこのまま続行できる。
上条は深く息をつき、改めてPA機材に視線を向けた。
PAテントは白い三方幕と透明シートで覆われている。ステージ袖にあるアンプ類も小型のテントで雨対策には万全を期している。マルチケーブルのボックスも厚手の防水シートで対策済みだ。
「けん玉の次は若手のお笑いタレントさんだったな。サンパチとラベリアの準備はしてあるな?」
清水は無言で頷いた。
「それが終わったら、いよいよThe Rising Sunの仕込みだからな。バンド側のスタッフと協力して、なんとか押している時間を巻き取りたいな」
吉田も無言で頷いた。
というより、頬張ったタコスでハムスターのようになった二人には声を出すことすらできない。吉田は目で「うんうん」と必死に同意を示し、清水は指を立てて「オーケー」のジェスチャー。上条は呆れつつも、Konさんのタコスは旨いからな、と納得したように肩をすくめた。
スタッフ無線に手を伸ばし、上条は丸川に呼びかけた。
「丸川、和太鼓サークル『天地神明』の片づけの進行状況はどうだ?」
『今、太鼓はすべてブルーシートで養生済み。ステージ裏への移動を開始します』
「了解。The Rising Sunの機材車は?」
『すでに入庫待機中。バンドスタッフが機材の準備を始めています』
「よし、スムーズに進めよう。PA側の準備も急ぐ」
無線を切ると、上条はフェスの会場内を見渡した。雨は続いているが、今のところは順調だ。
田渕の判断でステージが再開されることが決まった。
柚木は田渕からのカンペを受け取り、マイクを持って話し始める。
「小雨は降っていますが、気象協会によると雷の心配はないとのことです。まだ霧雨のような状態ではありますが、けん玉の達人、ケンダマニアさんが、雨でもやれる!いける!とのことですので、この場をお任せしたいと思います。それではみなさま、盛大な拍手でお出迎えください!ケンダマニアさんです!!」
派手なBGMと共にステージに現れたケンダマニアを会場のお客さんが拍手で出迎える。軽やかなステップを踏みながらBGMに合わせてけん玉の様々な基本テクニックを見せる。彼にとっては肩慣らしのようなものなのだろう。余裕でニコニコしながら次々と見せる技に、観客たち、特に子供たちは目を輝かせる。
「こんにちは!ケンダマニアです!」
ステージ前に集まって来た子供たちに持って来たけん玉を貸し与え、子供たちと対話をしながら、けん玉の簡単な技の説明をしつつ、一緒に技に取り組んでいく。そのうちの一人がステージに呼ばれ、一緒に技に挑戦したりとほのぼのした雰囲気が生まれている。
BGMもなかなか良い選曲で、雰囲気作りに一役買っている。
子供たちの笑い声が響き渡り、ケンダマニアの軽妙なトークが冴える。
ひとしきりの子供たちとの交流の後は、ふたたびBGMに合わせてのけん玉ショー。
二つのけん玉を使ったりと、その芸は多彩。こういったショーが見られるのも、ちょっと緩やかなフェスの面白さだと上条は思う。
TASCAMのMD-CD1が最後の曲を掛ける。
なんと、用意された6mの脚立に駆け上ったケンダマニア。用意されたCDの曲に入っているナレーションが流れる。
「さ〜てお立ち合い。これからお見せする大技、秘技・レインボーロード。成功すれば明日は晴れ間違いなし!上手く行ったら拍手喝采!失敗しても拍手喝采を、あ、お願いいたしまする〜〜〜〜〜」
まるで歌舞伎のような口上が流れる中、ケンダマニアがけん玉の球をふわりと投げる。長い長い紐に繋がれた赤い球が白い空に綺麗な弧を描き、ふわりふわりと数回転。そしてふわりとケンダマニアに引き寄せられたかと思うと、ストンと彼の右手の剣の先にすっぽりと収まった。
会場は割れんばかりの拍手。
脚立を軽快なステップで降りたケンダマニアは会場に大きく手を振りながらステージをあとにする。
柚木がマイクを持ってステージに入ってくる頃には、すっかりと雨が上がり、雲間から陽の光が差し込んでいた。
「すごい!ケンダマニアさんの大技が成功したら、明日どころか今まさに雨が止んで雲が切れて来ました!!ケンダマニアさんにもう一度盛大な拍手をお願いします!!」
柚木にそう言われて会場のお客さんも雨が上がったことに気がつき、再び割れんばかりの拍手が起こった。このタイミングで雨が止んで雲が切れたのは単なる偶然なのだろうが、観客の目には目の前で奇跡をみたように感じられたのだろう。いや、ひょっとすると、彼は本物の魔法使いだったのかもしれない。
雨の心配が遠のき、フェスはまだしばらく続く。
ちなみに上条も大の晴れ男で、雨が降っても小雨のレベル。それでも、雨対策には細心の注意を払っている。上条が絡むイベントが雨で中止になったことが全くないのは、その準備故でもある。だが、上条本人は雨が降るわけがないと思っているので、こういった小雨が降るだけでも内心は癪に触っていたりするのだ。
ステージ袖では次のお笑いタレント、ポップコーンズがスタンバイしていた。
実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。
〜登場人物紹介〜
上条一郎:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。
丸川音弥:上条一郎の大学の後輩。45歳。寡黙であるが時としてズバッと物をいう時があり、上条も一目置いている。上条と同じく、音響を生業としていて、人手が足りない時は上条の片腕として仕事をしている。妻・陽子(40歳)と長女で幼稚園児の陽菜(5歳)と3人ぐらい。イベント現場が近所だと、妻子2人で顔を出し、時にはお手伝いもしてくれる。
清水美奈:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。上条一郎に恋心を抱いているそぶりがある。
田渕貴之:イベント運営会社・DASエイジェンシーの代表取締役社長。56歳。主なイベントでは上条に音響を発注している。普段は厳しい眼差しながら、気心がわかるとよく笑う人情厚い人。小難しいクライアントからの仕様を切り盛りする。
吉田北斗:イベント運営会社・DASエイジェンシーの若手社員。30歳。入社5年目なので、ほとんどの業務をこなすことができるが、音響・映像・照明に関する知識が未だに皆無で、変な発注をしては関係業者を悩ませる。
今陽太郎:キッチンカー『Kon's Kitchen』のオーナー。通称Kon。東京都多摩地区を中心に関東一円のイベントやフェスに呼ばれる名物キッチンカー。様々な会場で顔を合わせるうちに上条や吉田らと顔見知りに。
柚木真由美:42歳。イベント司会やラジオのパーソナリティも務めるマルチタレント。上条とはお互いにイベントを手伝いあう中でもある。柚木主催のイベントでは上条が音響を務めることが多い。
大和:The Rising Sunのボーカル。上条とは旧知の間柄。驚くほどの声量と表現力で歌うが、酒を飲みすぎてリハーサルに遅れることがある。
坂口:Blue Wellsのキーボーディスト。音にこだわりがあり、何台ものキーボードを持ち込むことがメンバーには不評。だが、このバンドのカラーを決定づけているのは彼のこだわりの音である。
圭吾:Blue Wellsのボーカル。とても素直な好青年。まだまだ荒削りだが、将来が楽しみなボーカリストである。
〜用語解説〜
ラベリア:ラベリアマイク。ピンマイクともいう。上条が通常使うのはワイヤレスタイプのラベリアマイクである。
TASCAM:ティアック株式会社が持つ業務用機のブランド。
MD-CD1:TASCAMがかつて販売していたMDとCDを一体型にした3Uのダブルデッキ。この舞台になっているようなフェスの場合、今でも編集したBGMをMDで持参する出演者がいるため重宝するアイテムの一つ。
サンパチ:ソニーが販売しているC-38Bというマイク。漫才用ステージマイクの定番。NHKの紅白歌合戦や紅白歌合戦の古い映像でも見ることが多い。大瀧詠一さんが自身の曲のレコーディングに好んで使っていたのは有名な話。今では、ラベリアマイクを使用することが多いのだが、漫才をやる人たちにとっては、そこにサンパチがあることが重要なのである。