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第六話:クリックの向こう側

そんなに大きくない(実際小さいw)音響会社を営むPAエンジニアおじさんの、ほぼ実話を元にした小説です。フェスや様々なイベントに出かけられることがあると思いますが、そのフェスやイベントの運営には、実際に数多くの人たちが関わっています。その中で、ステージなどで必ず必要とされる音響という仕事に関する小説です。


後書きに『登場人物紹介』を掲載しました。

 Wild 60's の演奏が終わり、ステージ上の機材転換が始まった。


 上条一郎はミキサー卓の前でヘッドセットマイクを手に取り、「オープニング、トラブルなし。転換、予定通り」とスタッフ用の無線に報告した。丸川音弥が無言で頷き、準備に取り掛かる。


 「次はBlue Wellsか」


 吉田北斗が確認するように言う。


 「そうだ。学生バンドだが、演奏はしっかりしてる。キーボードの機材が多いから、セッティングを優先するぞ」


 上条はそう言いながら、ステージ袖の様子を確認した。Blue Wellsのメンバーがスタッフの指示を受けながら機材を運び込んでいる。キーボーディストの坂口が、三台のシンセサイザーを慎重にセットし始めた。


 「お、やる気満々だな」


 田渕貴之が笑いながら言う。「J-POP WORLD SELECTION 2024」の最優秀賞を受賞しただけあり、機材の扱いも慣れているようだ。


 ステージ中央では、司会の柚木がフードフェスの出展者を紹介しながら、場を繋いでいた。


 「今回のフードフェスには、全国からこだわりのキッチンカーや屋台が集まっています! 皆さん、もう何か食べましたか?」


 観客から歓声が上がる。


 「それから、フードフェス特別企画として、人気投票も開催中です! 気に入ったお店があれば、専用の投票シールをブースの前に貼ってくださいね。優勝したお店には豪華賞品が……」


 柚木の軽快なトークが続く中、ステージでは転換作業が着々と進んでいた。


 「まあ、そこそこやれるバンドだが、問題はギターの音量だな。リハでちゃんと下げるように言ったが……」


 上条は小さくため息をついた。ギターのボリューム問題は、アマチュアバンドにありがちなミスの一つだ。


 ステージでは坂口が最後の接続を終え、サウンドチェックが始まった。ドラムのスネアが鳴り、ベースの音が確認される。ギターのボリュームも問題ない。そして、キーボードの透明感ある音が場内に響いた。音出しは一瞬で終わった。


 「いい音してるな」


 丸川がぽつりと呟く。


 「だろ? こいつがこのバンドの肝なんだよ」


 上条は納得したように頷いた。


 「このバンド、転換中にほとんど音を出していないんだけど、大丈夫なんですか?」


 吉田北斗が不安げに尋ねる。


 「ちゃんとわかっているバンドは、音が出ているかどうか、つまりPAのミキサー卓に接続できているかどうかの確認さえできれば、余計な音は出さないよ」


 「そういうもんですか。僕だったら心配でもっと音を出しちゃいそうです」


 「たまに本番前に"ワンコーラスだけやります"とか言って演奏しちゃうやついるだろ。アレ、最悪なんだよね。みっともないというか、客がシラけちゃんだよな」


 「そりゃ、吉田さんはバンドやってなさそうですもんね。ステージでむやみに音出してたら、音響さんに笑われますよ」


 清水美奈が茶化すように言い、吉田は苦笑しながら肩をすくめた。


 そして、転換時間が終了し、ステージ袖でBlue Wellsのボーカルが深く息を吸った。


 「さあ、本番だ」


 観客が静まり、MCの紹介が入る。Blue Wellsのステージが始まった。


 先ほどのWild 60'sとは違い、彼らはまだ若く、場数も踏んでいない。観客だって、ほんの数人の友達を除けば見知らぬ人たちばかりの、いわばアウェイな場所での演奏だ。戸惑わないわけはない。


 それでも、必死に演奏を続けるうちに、徐々に客の反応が大きくなり、ようやく一体感が生まれてきた。


 PA卓にいる上条も嬉しそうに頷いた。


 「こいつら、ちゃんとわかってるじゃねえか。音のバランスもバッチリだ」


 「上条さん、ドラムの人、ヘッドフォンしてますよね?なんでですか?」


 清水美奈が不思議そうに尋ねた。


 「実はこのバンド、打ち込みってやつを使ってるんだ」


 清水の頭の中では、バンドのメンバーが全員でアスファルトの道路に金槌で釘を打ち込んでいる光景がよぎる。「打ち込みって?」


 「あらかじめ、キーボードのフレーズの一部をシーケンサーという機械に打ち込んでおいて、それを再生させながら自分たちも演奏するんだ。今はシーケンサーはコンピューター上のソフトウェアになっているけどな。」


 「え、それってなんかずるくないですか?」


 「まあ、ずるいと言ってしまえばそれまでなんだが……まあ、それはそれとして、コンピューターの演奏とバンドの演奏がずれちゃったら困るだろ?なので、コンピューターから出ている音のうち、クリック音だけをドラマーのヘッドフォンに流し、シンセサイザーの音だけをPA卓に送っているんだ」


 「じゃあ、ドラマーの人は責任重大ですね!」


 「ああ、かなり練習しないとクリックに合わせてドラムを叩くのは難しいな」


 そんな冗談を話していられるぐらい、Blue Wellsの演奏は完璧だった。そして、どうやらこのBlue Wellsの演奏は上条にYMOを彷彿とさせたようだ。


 「今から40年ほど昔の話なんだが・・・」


 「え、私は生まれていませんよ」


 「そりゃそうだな。YMOは知っているだろ?」


 清水は小さく頷く。


 「YMOが1980年にLAからライブ演奏の衛星生中継を行ったんだが、その際にシーケンサーのクリック音だけが半拍ずれてしまうという出来事が起こったんだ。ドラマーの高橋幸宏さんが、真後ろにいる松武秀樹さんの方を振り返って何とかしてくれって顔をしているのが印象的だったな」


 「半拍ずれって・・・演奏できないじゃないですか!!」


 「ライブの一曲目で、そしてとても難しい曲だったんだ。そしてクリックがズレる。そんな演奏を平然とやってのけたのが幸宏さんのすごいところだよな。元々気難しそうな顔で叩く人なんだが、もっとすごい顔になってたな」


 上条はそう言って笑った。笑い話ができるほど、Blue Wellsの演奏は安定していた。


 ここまでステージはスムースに進行している。スタッフの息もバッチリ合っている。


 だが上条は、そして田渕も、あることを心配していた。


 田渕はPAブースに近づき上条に目配せをすると上条は小さく頷き、田淵に対して「よろしく頼む」と言わんばかりのジェスチャーをした。田渕は吉田と丸川を連れてステージの裏へ進んで行った。

実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。


〜登場人物紹介〜


上条一郎かみじょういちろう:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。


丸川音弥まるかわおとや:上条一郎の大学の後輩。45歳。寡黙であるが時としてズバッと物をいう時があり、上条も一目置いている。上条と同じく、音響を生業としていて、人手が足りない時は上条の片腕として仕事をしている。妻・陽子(40歳)と長女で幼稚園児の陽菜(5歳)と3人ぐらい。イベント現場が近所だと、妻子2人で顔を出し、時にはお手伝いもしてくれる。


清水美奈しみずみな:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。上条一郎に恋心を抱いているそぶりがある。


田渕貴之たぶちたかゆき:イベント運営会社・DASエイジェンシーの代表取締役社長。56歳。主なイベントでは上条に音響を発注している。普段は厳しい眼差しながら、気心がわかるとよく笑う人情厚い人。小難しいクライアントからの仕様を切り盛りする。


吉田北斗よしだほくと:イベント運営会社・DASエイジェンシーの若手社員。30歳。入社5年目なので、ほとんどの業務をこなすことができるが、音響・映像・照明に関する知識が未だに皆無で、変な発注をしては関係業者を悩ませる。


今陽太郎こんようたろう:キッチンカー『Kon's Kitchen』のオーナー。通称Kon。東京都多摩地区を中心に関東一円のイベントやフェスに呼ばれる名物キッチンカー。様々な会場で顔を合わせるうちに上条や吉田らと顔見知りに。


柚木真由美ゆずきまゆみ:42歳。イベント司会やラジオのパーソナリティも務めるマルチタレント。上条とはお互いにイベントを手伝いあう中でもある。柚木主催のイベントでは上条が音響を務めることが多い。


大和:The Rising Sunのボーカル。上条とは旧知の間柄。驚くほどの声量と表現力で歌うが、酒を飲みすぎてリハーサルに遅れることがある。


坂口:Blue Wellsのキーボーディスト。音にこだわりがあり、何台ものキーボードを持ち込むことがメンバーには不評。だが、このバンドのカラーを決定づけているのは彼のこだわりの音である。

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