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第十二話:それぞれの音の道

小さなPA会社を運営するサウンドエンジニアが日常的に体験する様々な出来事を紹介するドキュメンタリーです。最初はフードフェスに設営されたステージにて、バンド演奏や演芸など、様々な出演者やスタッフ、その他イベントを運営する人たちと関わっていきます。時には超大物のステージに携わったり、あるいは小さな病院での小さなクリスマスキャロルだったり、その規模は様々。さあ、今日はどんな人と会えるかな?

 連続したイベント仕事を終えた翌日、上条一郎は倉庫にこもり、機材のメンテナンスを行っていた。


 ミキサー卓の裏蓋を開け、中の基板やフェーダー周りに溜まった砂埃をエアコンプレッサーで丁寧に吹き飛ばしていく。次に、アルコールを染み込ませた布で汚れを拭き取り、動作に影響が出ないよう慎重に作業を進める。


 続いてアンプの筐体も開け、内部のファン周りに詰まった埃を取り除いた。野外での使用が続くと、どうしても細かい砂埃が入り込む。冷却がしっかり機能しなければ、ライブ中にトラブルを起こしかねない。埃が溜まっている状態を放置すればショートする危険もある。慎重に手入れしながら、上条は黙々と作業を続けた。


「お疲れさまです!」


 倉庫の入り口から元気な声が飛んできた。清水美奈だった。


「おう、来たか。」


 上条は軽く手を挙げて応じる。今日は彼女が機材メンテのアルバイトに来ることになっていた。清水はエンジニアとしての仕事に興味があると言い、最近では現場だけでなく、こうした裏方の作業にも参加し始めていた。


「何からやればいいですか?」


「まずはマイク拭きからだな。アルコールで全体を拭いて、それからこれでヘッド部分を除菌してくれ」


 そう言って、上条はマイク用の除菌スプレーを手渡した。


「了解です!」


 清水はすぐに作業に取り掛かる。


 清水はすぐに作業に取り掛かる。マイクのグリルを外し、一つずつ丁寧にスプレーで除菌し、風通しのいい場所に置いて乾かしていく。彼女は手先が器用で、細かい作業にもすぐ慣れる。


 上条はその間に、ここ数週間使いっぱなしだったケーブル類を手に取り、雑巾で拭きながら巻き直していった。


「そういえば、上条さんはなんでこの仕事を始めたんですか?」


 清水がふと問いかけた。


 上条は手を止め、少し考えるように天井を見上げた。


「……いくつか理由はあるけどな。母親が昔、FMラジオのDJをやってて、俺も子どもの頃から現場に出入りしてたんだ」


「えっ、お母さんがDJ?」


「ああ。だから、音楽やマイクには小さい頃から親しみがあったんだよ。それで、中学では放送部に入って、昼の放送でDJみたいなことをやってた」


「放送部……なるほど、それでマイク慣れしてたんですね」


「そういうことだな。中学高校時代は毎日マイクとミキサー卓を触っていたな。それに、大学時代は音楽サークルに入ってたんだ。ライブを定期的にやっていて、先輩の見様見真似で積極的にミキサー卓を触るようになった」


「それでPAに興味を持った、と?」


「そうだな。サークルのライブもあったが、それ以外にも大学には大学祭や七夕祭があるだろ?」


 上条と清水は、年齢こそ大きく離れているものの、同じ大学の先輩後輩にあたる。時代は違えど、学内イベントの空気感は共通するものがある。


「あの野外ステージに俺もバンドで出演しながら、PA卓をいじったり、配線や機材のプランニングをするようになったんだ」


「えっ、自分でも演奏してたんですか?」


「ああ。ギターを弾いてドラムを叩いて、ボーカルもやってたな。でも、やってるうちに演奏するよりも、音を作る方が面白くなってきたんだ。それで、気づいたら音楽サークルのPA担当になっていたわけだ」


「なるほど、それが仕事につながっていったんですね」


「そういうことだな。もっとも大きな転機は、大学を卒業した先輩がSoundOnという楽器店を始めたんだ。俺も誘われてアルバイトを始めるんだが、その仕事の一環でレンタルPAの現場に出るようになったんだ。そして、いつの間にか学生のうちからレンタルPAの仕事を全面的に任されるようになった」


「すごいですね! そんな若い頃から?」


 清水は目を丸くしながら、マイクを拭く手を止めた。「私だったらそんな大役、絶対に無理です!」


 清水は驚いたように言った。


「当時はバンドブームの真っ最中でな。『イカ天』なんていうバンドのオーディションのようなテレビ番組があったんだ。レンタルPA屋は引っ張りだこで、毎週末は原宿の歩行者天国で路上ライブのPAをやってたというわけさ」


「えー! 原宿で? そんな時代があったんですね」


 清水は(イカ天って何のこと?)と疑問に思ったが、そこは華麗にスルーすることにした。


「ああ、あの頃は熱かったな……。でも、そこで現場の厳しさも知った。音が出ないトラブルは当たり前、バンド同士のトラブル、警察が介入することもあった。だけど、その度に試行錯誤して乗り越えるのが面白くてな」


「なんか、ドラマみたいですね」


「借りてきた発電機にガソリンが入ってなかったり、ドラムセットのスツールを忘れたりと、まあ、実際に色んなことがあったさ。楽器店の方はとても順調に成長してさ。で、社長たちは本来の業務で大いに忙しくなってきてPAレンタル部門を閉じることに。で、そこのPA機材を全て買い取って、会社を立ち上げたんだ。最初は大変だったけど、続けていくうちに何とか形になった」


「すごい……。最初は好きだからやってたのに、気づいたら仕事になってたって感じですね」


「そういうもんさ。好きじゃないと続かないしな」


 清水は感心したように頷いた。上条の話を聞いていると、ただの経験ではなく、積み重ねたものの重みを感じる。自分が同じ道を歩んだら、果たしてここまでたどり着けるのだろうか――そんな思いが頭をよぎった。


「その楽器店って、今もあるんですか?」


「ああ、今でも渋谷で大々的に店を構えてるよ。昔からバンドマンがよく集まる店だったが、今はプロのミュージシャンやスタジオ関係者も利用するようになった。PA機材もかなり充実してて、昔とは比べ物にならない規模になってるな」


「へえ、すごいですね! そんなところでバイトしてたなんて、上条さん、やっぱりすごい経験してますね」


「まあな。SoundOnでの経験は、俺にとって本当に大きなものだったと思う。Apple Macintoshと出会ったのもあの店があったからだしな。あの頃は本当に忙しかったが、楽しかったよ。」


「上条さんはMac大好きですもんね」


「そうだな。初めて触ったMacはSE/30というマシンだったんだ。あの奥に飾ってあるやつだよ。あのコンパクトなボディに驚いたし、当時のPCとは違う直感的な操作が衝撃的だったんだよ」


 上条の視線は、ふと倉庫の奥へと向けられる。


 視線の先には、使い込まれたPA機材が並んでいる。今では使われることはほとんどないものもある。今、彼が手にしているのは、あの頃から使い続けてきたままの一本のキャノンケーブルだった。ノイトリック製の端子が取り付けられたカナレの4E6Sというケーブルだ。上条をアルバイトに誘ってくれた大学の先輩と一緒に製作したケーブルだ。


(永田さん、元気にしているかな……)


 ふと、手の中のケーブルを撫でる。端子の金属部分には、使い込んだ証が刻まれていた。永田さんと一緒に作ったこのケーブル。初めてPAの仕事を本気でやろうと思った、あの頃の記憶が甦る——。


 「おい上条、このケーブル、実は魔法がかかってるんだぜ」


 真剣な顔でそう言った永田さんが、ふざけて手品のようにケーブルを手の中で回したのを思い出す。音響の先輩としてもミュージシャンの先輩としてもクールで格好いいのに、時折、妙に子どもっぽい冗談を挟んでくる人だった。


 「じゃあ、その魔法で音質が良くなるんですか?」


 若き日の上条は苦笑しながらツッコミを入れたが、永田さんはニヤリと笑って、「まあ、信じるか信じないかはお前次第だけどな」と、さらに謎めいた表情で笑った。


 そこから、彼の若かりし頃の記憶が鮮やかに蘇っていく——。


 初めて一人で現場に立った時の震え。まだまだ未熟で大失敗をしてしまった時の後悔。ライブを終えて出演者から最高だったと言ってもらえた時の喜び——。


 そんな日々の繰り返しの中で、上条は気づかぬうちに、この道を選んでいたのかもしれない。


 新章へ続く。

実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。


〜登場人物紹介〜


上条一郎かみじょういちろう:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。


清水美奈しみずみな:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。上条一郎に恋心を抱いているそぶりがある。


永田力ながたりき:上条の大学の先輩。SondOnという楽器店をはじめる。上条がPAに携わるようになったきっかけとなる人物。通称はリッキー。


〜用語解説〜


イカ天:正規名称は『いかすバンド天国』という。1989年から2年弱の間にTBSで放送されたバンドのオーディション的な番組。ここから世に出て今でも活躍しているバンドはいくつかある。上条の友人も多く出演している。


スツール:椅子のこと。業界的にはドラムやピアノ用など、丸い椅子を指すことが多い。


キャノンケーブル:3ピンのキャノン端子(XLR端子)


ノイトリック:音響・映像用ケーブルにコネクタ類を製造する企業。ヨーロッパの小国、リヒテンシュタインの会社。


カナレ:愛知県にあるケーブル製作会社。カナレ電気。音響ケーブルの多くはここの製品である。


4E6S:音響用のキャノンケーブル(正式にはXLR端子付きケーブルと呼ぶべき)の多くを占めるケーブル。マイクケーブルなど、バランス転送を行うケーブル政策に使われる。

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