第十一話:PAって物理学?
小さなPA会社を運営するサウンドエンジニアが日常的に体験する様々な出来事を紹介するドキュメンタリーです。最初はフードフェスに設営されたステージにて、バンド演奏や演芸など、様々な出演者やスタッフ、その他イベントを運営する人たちと関わっていきます。時には超大物のステージに携わったり、あるいは小さな病院での小さなクリスマスキャロルだったり、その規模は様々。さあ、今日はどんな人と会えるかな?
「では最後に、今後の展望についてお聞かせください」
地元のコミュニティFM局のスタジオに流れる、アナウンサーの柔らかな声。上条一郎はマイクに向かい、少し考えてから言葉を選んだ。
「展望というほどのものではありませんが、今後も良い音を届けられるように努力していくのみです。音響の仕事って、表に出ることは少ないですが、イベントの成功に大きく関わっていますからね」
「なるほど。裏方の力があってこそ、ステージが輝くということですね」
「そう思ってます」
アナウンサーが軽く笑い、番組はエンディングへと向かう。上条はこの時間を楽しんでいた。もともと話すのは嫌いではなく、むしろ自分の番組を持ってみたいと思ったこともある。ただ、音響の仕事が忙しくて、その夢は今のところ実現していない。地元のコミュニティFM局とはいえ、マイクの前で話すのはやはり緊張もあるが楽しい。その一方でPAエンジニアとしての仕事には自信があるが、喋るのは専門外だという自覚もある。そのうち、柚木と番組をやったら面白いかなとも思っていたりもする。
アナウンサーは番組の締めの言葉を言ってディレクターから放送を終了したとの言葉を受けて番組スタッフは撤収に入った。
「本日はお忙しい中、ありがとうございました」
「こちらこそ、貴重な機会をありがとうございました」
番組が終わり、スタッフに挨拶をしてスタジオを出る。事務所に戻ると、ちょうど清水美奈がひょこっと顔を出した。
「お疲れ様です、上条さん!」
「おう、美奈か。どうした?」
「ちょっとバイトの予定の確認に来たんですけど……あれ? なんか緊張してます?」
「いや、ラジオの生放送に出演してきたんだよ」
「えっ! すごいじゃないですか! どんなこと話したんですか?」
「仕事の話とか、まあ普通のことだよ」
「聞きたかったなあ〜」
清水は興味津々の様子で机に身を乗り出した。
「再放送あるなら教えてくださいね!」
「お前が聞いても面白くないぞ」
「そんなことないですよ! 上条さんの話、結構面白いですし」
「……そりゃどうも」
清水が嬉しそうに笑う。上条は照れ隠しに視線を逸らし、書類の整理を始めた。
「そういえば、次のイベント、また手伝わせてもらえます?」
「お前、好きだなあ」
「だって楽しいんですもん! 上条さんと一緒に仕事するの、好きですし!」
彼女は冗談めかして言ったが、上条は少しだけ戸惑った。バイトとはいえ、やる気のある若い子がいるのはありがたい。それでも、彼女のまっすぐな言葉にはどこか危うさを感じる。
「まあ、田渕さんにも確認するけど、また頼むかもな」
「やった!」
清水が弾むように言う。その様子を見ながら、上条は苦笑した。若いっていうのは、こういうことなのかもしれない。
清水は事務所のソファに座り、スマホをいじりながら様子を伺っていた。上条は深く息をついた。ラジオの収録も終わり、これで今日は一段落……と思ったのも束の間、電話が鳴った。
「もしもし、上条です」
『あ、上条さん? ちょっと急ぎの案件があるんですけど、時間ありますか?』
田渕貴之の声だった。
『多摩地区の消防操法大会の音響をお願いしたいんです。例年通りの規模だけど、今年は司会席の位置とスピーカーの配置をちょっと工夫したいらしくて、PAの設計から相談したいそうです』
「消防操法大会か。まあ、よくある仕事だけど……スピーカーの配置変更って、具体的には?」
『詳しい資料は後で送りますけど、競技エリアの端までアナウンスが明瞭に届くようにしたいそうです。それと、審査員席の音響バランスも調整が必要かと。前に頼んだ音響さんがダメだったようなんです』
上条は顎に手を当てて考えた。こういうイベントは一見単純な音響仕事に見えるが、意外と現場での調整が多い。
「了解。日程と会場の下見が必要ですね。詳しい情報を送ってください」
『助かります! じゃあ、後で資料送りますね』
通話を終えると、清水が興味津々の表情でスマホを置いた。
「消防放送大会って何です? 火事だぞ〜って一斉に知らせる防災無線みたいな??その速さを競うんですか???」
畳み掛けるような清水の質問に上条は思わず吹き出した。
「違う違う。放送じゃなくて操法な。消防操法大会ってのは、消防団がホースを展開して放水するまでの手順を、速さと正確さで競う競技だよ」
「えっ、そんな競技があるんですか?」
「あるんだよ。消防団って、普段は普通の仕事をしてる人たちが、地域の消防活動を支えるために参加してるんだ。その訓練の一環として、操法訓練っていうのがある」
「へぇ、じゃあその大会は、日頃の訓練の成果を競う場なんですね」
「そういうこと。チームワークも大事だし、規定通りの動きを正確にこなす技術も求められる。意外と見応えあるぞ」
「なるほど……で、その音響って?」
「大会では実況があるんだ。競技の進行を説明したり、審査員が評価を発表したりな。あと、開会式や表彰式のアナウンスもある。会場が広いから、スピーカーの配置をちゃんと考えないと音が届かないんだよ」
「なるほど、普通のライブとは全然違う仕事なんですね!」
「そういうこと。でもまあ、やることは基本一緒で、良い音をしっかり届けるってことだ」
清水は腕を組み、しばし考え込むような素振りを見せた。
「先日のフェスに比べれば、ずいぶん楽そうですね〜」
上条は眉を上げて清水を見た。
「楽? お前、わかってないな」
「えっ? だってバンドの爆音を調整するわけじゃないし、出演者が酔っぱらって遅刻する心配もないですよね?」
「確かにそうだが、だからって簡単ってわけじゃない。こういう式典系のイベントは、音の聞こえ方にめちゃくちゃ気を使うんだ。特に審査員席への音のバランスはシビアだし、広い会場だとハウリングを防ぎつつ、明瞭に聞こえるように調整しなきゃならない。会場のレイアウト次第では、スピーカーの配置だけで一苦労だぞ」
「ええ〜、そんなに大変なんですか?」
「舐めるなよ。こういうイベントこそ、経験と技術がモノを言うんだ」
清水は目をぱちくりさせながら、「なるほど、PAって奥が深いんですねぇ」と感心した様子でうなずいた。
上条はA3のコピー用紙を取り出し、さっと競技場のイメージ図を描き始めた。
「会場は地域の競技場だ。まず、ここがトラックな」
用紙の中央に楕円を描き、その周囲に観客席や競技スペースを追加していく。
「で、ここに消防団のチームが並ぶ。ここが放水エリアで、消防車が整列する場所もある。パレード行進もあるから、このトラックの内側を使うんだ」
清水は覗き込みながら、「へぇ、結構ちゃんとした大会なんですね」と感心している。
「競技場にスピーカー設備があれば、それを使うんだが、今回は設備がない。だからトランペットスピーカーを随所に設置する必要がある」
「トランペットスピーカー?」
「見たことあるだろ? 町内放送とかで使う、ラッパみたいな形のスピーカーだ。指向性が強くて、遠くまで音を飛ばせる。ただし、音質はあまりよくない」
「なるほど。で、それも準備しなきゃいけないんですね」
「うちにはないけど、知り合いのレンタル業者が大量に持ってる。だから、それを手配すればいい。ただし、設営が面倒なんだよ」
清水は頷きながら、「ワイヤレスマイクを使えば、配線の問題はないんじゃ?」と尋ねた。
「マイクはワイヤレスで問題ない。でもスピーカーはそうはいかない。スピーカーの設営にはケーブルの敷設が必要なんだ」
「ええっと……つまり?」
「PAブースは本部テントの横、つまりトラックの内側にある。だけどスピーカーは競技場のフェンスに設置しなきゃならない。つまり、スピーカーのケーブルがトラックを横切ることになる」
「えっ、それって……」
「そう、トラックの上を消防車がパレード行進する」
清水は口をあんぐりと開けた。
「どうしたら良いと思う?」
上条はニヤリと笑いながら、清水の反応を楽しむように問いかけた。
清水は腕を組んでしばらく考えた後、ぱっと顔を上げた。
「消防車に無線で音を飛ばして、スピーカー代わりにしちゃうのはどうです?」
上条は思わず固まった。
「……は?」
「だって、消防車ってサイレン鳴らせるじゃないですか! そこにマイクをつないで音を流せば、みんなに聞こえますよ!」
「……お前な、消防車のスピーカーがPA用じゃないのはわかるか?」
「うっ……」
「しかも、サイレン用のスピーカーでアナウンス流したら、肝心なときに警報が鳴らせなくなるだろ」
「あ……確かに……」
清水はバツが悪そうに笑い、上条は呆れたように肩をすくめた。「まあ、面白い発想ではあるが、現実的な方法を考えような」
清水はむむっと唸り、さらに考え込んだが、結局よいアイデアは浮かばなかった。
「……ダメだ、思いつきません」
上条は少し笑いながら、指を一本立てた。
「じゃあ、いくつか方法を考えてみようか」
そう言うと、彼はA3の用紙の端にいくつかの案を書き出した。
「ひとつ目は、ワイヤレスで音を飛ばし、トラックの外で受信してそこから低インピーダンスアンプに繋ぐ方法だ。これならケーブルを跨がなくて済む」
「それ、いいじゃないですか!」
「ただし、これには問題がある。この競技場には体育館があって、そちらでもワイヤレスマイクを使用している。チャンネル数に余裕がないかもしれないんだ」
「なるほど……じゃあ、使えないかもしれないんですね」
「そういうこと。そこで、より確実な方法がふたつある」
「ふたつ目は、消防車の通る時間帯だけスピーカーの出力を一時的に止めて、通過後に再開するという方法。物理的な対策じゃなくて、運用で対応する形だ」
「うーん、それだと実況が途切れちゃいますよね」
「そうなんだ。だから三つ目の案。トラックを跨ぐように高所にケーブルを渡す。これは支柱を立てる必要があるが、車両の邪魔にはならない」
「おお、それいいんじゃないですか?」
「でも、設営に手間がかかるのと、支柱の固定が難しい。そこで、今回のベストな答えはこれだ」
上条はもうひとつ案を加えた。
「トラックにそのままケーブルを敷設する。」
「えっ、でも消防車に踏まれたら……ケーブルってそんなに丈夫なんですか?」
「地面にケーブルプロテクターを敷けば、安全性は確保できるだろ」
清水は目を輝かせた。
「それ、完璧じゃないですか!」
「まあ、完璧とは言わないが、今回の条件では最適解だろうな」
上条は満足そうに頷き、清水も「なるほど!」と大きくうなずいた。
「ケーブルプロテクターの耐荷重は50トンだ。」
「えっ、そんなに!? じゃあ消防車が踏んでも全然平気なんですね?」
「一番重い梯子車でも20トンくらいだから、問題ないな。」
清水は驚いた表情でしばらく考え込んだ後、ぽつりとつぶやいた。
「PAって……物理だ……」
「まあ、こんなことも何度も経験してるうちに、自然に対応できるようになったんだよな」
上条はふと、以前の消防操法大会での出来事を思い出した。
「そういえば、消防大会の音響って意外とトラブルが多くてな。昔、ちょっと笑えるハプニングがあったんだ。号令をかける役目の人が二人いたんだけどな」
「はい?」
「二人とも消防団でもそこそこ上の役職の人だったんだけど、片方の人だけ、なぜか号令をかけるときだけワイヤレスラベリアマイクの電波が途切れるんだよ」
「えっ、それは困りますね。なんでです?」
「リハーサルで気づいたから本番前に対処できたんだけど、理由がなかなか面白くてな」
上条はニヤリと笑いながら続けた。
「号令役の団員はPAブースから見て左に100メートルほど離れた位置にいた。ワイヤレスマイクの性能的には、通常なら問題なく届く距離だったんだけど……」
「でも届かなかった?」
「何でだと思う?」
「デブだったとか」
上条は飲んでいたコーヒーを吹いた。
「お前の当てずっぽう、大正解だよ」
「え?」」
「そう。問題なく電波が届く人と、なぜか届かない人がいたんだ。それで、よくよく観察してみたら……電波が届かない方の人、めちゃくちゃふくよかだったんだよ」
「ええっ?!」
「しかも、その人はワイヤレスラベリアマイクのトランスミッターを身体の左側につけていた。電波ってな、水の中は進めないんだ。つまり、ふくよかな体が壁になって、電波を遮断していたんだよ」
清水は目を丸くした。
「そんなことってあるんですか!? いや、確かに理屈はわかるけど……」
「結局、俺がトランスミッターの位置を右側に変えたら、問題なく電波が通るようになった。それで解決だ」
「すごい……そんなこともあるんですね」
「こういうのは、理論も大事だけど、現場で経験しないと気づけないんだよな」
上条が懐かしそうに話すのを、清水はとても楽しそうに聞いていた。
「やっぱりPAって物理だ……」
実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。
〜登場人物紹介〜
上条一郎:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。
丸川音弥:上条一郎の大学の後輩。45歳。寡黙であるが時としてズバッと物をいう時があり、上条も一目置いている。上条と同じく、音響を生業としていて、人手が足りない時は上条の片腕として仕事をしている。妻・陽子(40歳)と長女で幼稚園児の陽菜(5歳)と3人ぐらい。イベント現場が近所だと、妻子2人で顔を出し、時にはお手伝いもしてくれる。
清水美奈:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。上条一郎に恋心を抱いているそぶりがある。
田渕貴之:イベント運営会社・DASエイジェンシーの代表取締役社長。56歳。主なイベントでは上条に音響を発注している。普段は厳しい眼差しながら、気心がわかるとよく笑う人情厚い人。小難しいクライアントからの仕様を切り盛りする。
吉田北斗:イベント運営会社・DASエイジェンシーの若手社員。30歳。入社5年目なので、ほとんどの業務をこなすことができるが、音響・映像・照明に関する知識が未だに皆無で、変な発注をしては関係業者を悩ませる。
今陽太郎:キッチンカー『Kon's Kitchen』のオーナー。通称Kon。東京都多摩地区を中心に関東一円のイベントやフェスに呼ばれる名物キッチンカー。様々な会場で顔を合わせるうちに上条や吉田らと顔見知りに。
柚木真由美:42歳。イベント司会やラジオのパーソナリティも務めるマルチタレント。上条とはお互いにイベントを手伝いあう中でもある。柚木主催のイベントでは上条が音響を務めることが多い。
大和:The Rising Sunのボーカル。上条とは旧知の間柄。驚くほどの声量と表現力で歌うが、酒を飲みすぎてリハーサルに遅れることがある。
坂口:Blue Wellsのキーボーディスト。音にこだわりがあり、何台ものキーボードを持ち込むことがメンバーには不評。だが、このバンドのカラーを決定づけているのは彼のこだわりの音である。
圭吾:Blue Wellsのボーカル。とても素直な好青年。まだまだ荒削りだが、将来が楽しみなボーカリストである。
ポップコーンズ:レギュラー番組を何本も持つ売れっ子であるが、こう言ったフェスへの出演や司会なども精力的にこなす若手お笑いタレント。アドリブが得意で、今回もスタッフの清水をいじる。
武蔵:The Rising Sunのギター。上条と会うまでは、ステージに上がった際に本番前に余計な音を出していたことを「あれは格好悪かった」と反省している。
〜用語解説〜
ラベリア:ラベリアマイク。ピンマイクともいう。上条が通常使うのはワイヤレスタイプのラベリアマイクである。
トランスミッター:ラベリアマイクやギターなどの音をワイヤレスと飛ばすための装置。送信機。手のひらサイズでポケットに入れたりベルトに引っかけたりして使用する。
TASCAM:ティアック株式会社が持つ業務用機のブランド。
MD-CD1:TASCAMがかつて販売していたMDとCDを一体型にした3Uのダブルデッキ。この舞台になっているようなフェスの場合、今でも編集したBGMをMDで持参する出演者がいるため重宝するアイテムの一つ。
サンパチ:ソニーが販売しているC-38Bというマイク。漫才用ステージマイクの定番。NHKの紅白歌合戦や紅白歌合戦の古い映像でも見ることが多い。大瀧詠一さんが自身の曲のレコーディングに好んで使っていたのは有名な話。今では、ラベリアマイクを使用することが多いのだが、漫才をやる人たちにとっては、そこにサンパチがあることが重要なのである。
EQ:イコライザー。この場合はパラメトリック・イコライザーを指している。High、Mid-High、Mid-Low、Lowのレベルを調整する。
PFL:プリ・フェーダー・レベル。ミキサーは通常、最初にプリアンプ(ゲイン)を通る。この次にフェーダーに行くのだが、このフェーダーの影響を受ける前の音をヘッドホンやモニタースピーカーで確認できる機能。反意語はAFLである。
八の字巻き:音響や映像業界でケーブルを収納する際に使われる巻き方のひとつで、一方方向に巻くのではなく交互に巻くことによって、ケーブルがねじれず、絡みにくいのが特徴。
ぼんぼり:道路工事現場などでよく見かける大きな提灯型の照明器具。通常は発電機と一体型になっており、電源を不要とする照明器具である。