第十話:最後の音が消えるまで
小さなPA会社を運営するサウンドエンジニアが日常的に体験する様々な出来事を紹介するドキュメンタリーです。最初はフードフェスに設営されたステージにて、バンド演奏や演芸など、様々な出演者やスタッフ、その他イベントを運営する人たちと関わっていきます。時には超大物のステージに携わったり、あるいは小さな病院での小さなクリスマスキャロルだったり、その規模は様々。さあ、今日はどんな人と会えるかな?
雨が上がり、フェス会場の空には青空が見え始めていた。ステージ前には、ビンゴの客に混じって最後の演目を待つ観客たちも集まり始めている。
ビンゴ大会の進行が続く中、ステージ裏では『The Rising Sun』のライブ準備が着々と進められていた。バンドのスタッフがフロントモニター類の位置を調整し、ステージ袖にはメンバーたちが集まっている。
「さあ、残る景品はあと一つとなりましたが、なんと残っている景品は東京ディズニーランドのペア入場チケットと東京ディズニーランドホテルのペア宿泊券です!」
司会の柚木真由美が声を張ると、観客の歓声が上がった。最後の景品を巡って、同時にビンゴした人たちによるじゃんけんが行われ、勝者にこの日一番の目玉景品が渡された。
「本日のビンゴ大会は以上となります。ポップコーンズのお二方、ありがとうございました!」
「ありがとうございました〜!」
「みなさま、ご参加いただきありがとうございました。この後は、いよいよ本日最後のステージ、The Rising Sunの演奏となります。今しばらくお待ちください」
会場内には『The Rising Sun』の楽曲が流れ始め、ステージ前の熱気が高まっていく。テーブル類が撤去され、機材の配置が最終調整される。
「大和、さすがに本番は遅刻しないな」
「ずっと会場にいたからな」
バンドメンバーの何気ない会話が飛び交う。長年のライブ経験もあり、大きな緊張感は感じられない。
清水美奈がワイヤレスマイクを大和に渡した。
「生で聴くのは初めてなのでドキドキしています」
「楽しんでね」
上条一郎は無線で丸川に確認を取る。
「ステージ、準備はどうだ?」
「全てOKです」丸川音弥の落ち着いた声が返ってきた。
「了解。いつも通り、バンドが入ったらすぐに演奏が始まるぞ」
BGMが淡々となる中、バンドメンバーが定位置につく。
『The Rising Sun』のメンバーは、上条のPAに絶対の信頼を寄せていた。ステージに上がっても一切の音を出さない。アンプの設定も予定通りだ。彼らは自分たちの音がどんなふうに届けられるのかを理解している。そして、上条がそれを完璧にコントロールすることを疑っていない。
「おまたせいたしました。本日最後のステージは、『The Rising Sun』のみなさんです!」
柚木の声が響き、BGMのフェーダーが下がり、演奏前のSEに切り替わる。すでにThe Rising Sunのステージを何度もやっている上条と柚木。連携は非常にスムースだ。
ドラムのカウントが入り、演奏が始まった。
スピーカーからの出音は問題ない。上条はヘッドフォンを片耳に当て、PFLで各チャンネルの音と各モニターへの送りバランスを確認する。
「何度やっても、さすがにこの瞬間は緊張するな」
短めのインストゥルメンタルが終わり、2曲目のイントロが始まると同時に、大和がマイクを持ちステージ袖から登場した。前方の観客が一斉に拳を突き上げる。観客のボルテージは一気に跳ね上がる。
ステージ前には熱狂的なファンが詰めかけ、その少し後ろには一般の観客が控えめに揺れている。さらに後方には、キッチンカーや屋台で買ったホットドッグやお好み焼きを手にした観客が、ステージを眺めながら食事を楽しんでいた。上条は、普通のライブよりもこういったフェスの雰囲気が好きである。
熱い演奏が続く。ステージは興奮に包まれ、公園を囲むように並ぶキッチンカーや屋台には行列ができている。
丸川はステージ袖でモニターの調整しながら、観客の反応を横目で見ていた。その横で、清水はただただ演奏を眺めているのであった。
演奏はアンコールを含め40分にわたって続き、フィナーレを迎えた。大きな拍手と歓声の中、『The Rising Sun』のステージは幕を閉じた。
バンドスタッフが機材を撤収し、機材車に運び込む。丸川と清水がステージ上でマイクとスタンド、ケーブル類を片付ける。清水はスピーカーケーブルをまとめながら四苦八苦している。太めのケーブルの八の字巻はまだまだ苦手なようである。
フェス自体は18時まで続くため、上条は軽めの曲を流している。ステージ上にはメインスピーカーのみを残し、すべての機材が撤去されている。
時計の針は16時を大きく回っている。すっかりと晴れ上がった空はまだまだ明るいが、陽は大きく傾き一日が終わりゆくことを感じさせる。そして会場の随所には工事用の照明、通称「ぼんぼり」が灯され始めた。
ステージ上の片付けを終えた丸川と清水がPAテントに戻ってきた。
「おつかれさまでした」
「おつかれ!初めてのステージはどうだった?」
「もう、緊張しっぱなしですよ」
「まさか、ポップコーンズにいじられるとはな(笑)」
「ホントですよ!恥ずかしかった〜!」
「丸川、清水はどうだった?」
「すごく良かったですよ。キビキビしているし、出演者受けも良かったですしね。スタンドのネジの締め付けがちょっと」
「それは言わないでください・・・」
そこに田渕が大量の差し入れを持って現れた。タコス、お好み焼き、おでん、焼き鳥など、屋台の人気商品が用意されていた。
「お疲れさま!しばらく動きはないので、ちょっと一休みしましょう。」
司会を終えた柚木真由美もPAテントにやってきた。
「なーに、楽しそうね。私も混ぜてくれる?」
上条は丸川と清水に指示を出し、予備機材が乗っているテーブルを片付け、ひとときの団欒を楽しむことにした。
丸川が焼き鳥を頬張りながら一言。
「ビールは、、、ないですよね」
「まだ仕事中だ」
そう、音響チームだけではなく、舞台や警備のスタッフはもちろん、キッチンカーや屋台の人たちはまだまだ仕事は続く。
音響チームは、この後の音響機材のバラシ、機材車への積み込みと運搬、倉庫への搬入、機材チェックと続く。
「上条さん、倉庫入れを終えたらたまには軽く飲みません?清水の歓迎会も兼ねて」
「そうだな、たまにはそれもいいな」
「歓迎会してくれるんですか?やった!!」
「その前に八の字巻きの特訓な」
「え〜〜〜〜〜〜〜!」
会場内にはまだ数百人のお客さんがいて、各々が屋台を回って楽しんでいる。
上条が依頼を受けているのはあくまでステージイベントの音響であり、すべての機材を撤収して帰路に就いても問題はないのだが、BGMを消してしまうと一気にイベント終了の雰囲気となってしまう。
そのため、上条はイベント終了まで音を出すのをやめないのだ。むしろ、BGMを楽しんでいる。
それをわかっている柚木もまた、最後まで残る。そして、最後の締めの挨拶を言うのだ。
締めの挨拶を聞き、屋台は徐々に火を落としていき、来場客も三々五々に帰って行くのだ。
上条たちがその時までの小一時間の休憩を楽しんでいると、The Rising Sunの大和がメンバーとともに現れた。
「上条さん、今日もありがとうございました」
「おつかれ!毎回だけど、あの始まりは相変わらず緊張するよ。」
「俺たちもですよ。もうかなり経ちますけど、初めて上条さんから提案された時はマジで?とびっくりしましたよ」
「いいもんだろ?」
ギターの武蔵が答える。
「あの前まで、ステージに上がってからテロテロと音を出してましたからねえ。今思うと格好悪いですよね」
「確かになぁ。そうだ、みんなも一緒に食べてくか?差し入れが山ほどあるんだよ」
「お言葉に甘えたいところなんですけど、この後、明日のリハがあるんですよ」
「マジメだねえ」
上条が笑いながら言うと大和が返す。
「見た目と違って、ね」
そう笑いながら言うと、大和たちは手を振りながら会場を後にして行った。
ステージ裏にはDASの吉田がステージスタッフに指示を出す。
「音響機材の撤収が完了したら、ステージの撤去を始めます。まずはステージの周りに安全ポールを設置するところからはじましょう!警備の方々は、ステージ周辺にお客さんが入り込まないように注意してください!」
そうこうしている間にフェス終了時刻が迫っていた。
「さて、そろそろ時間だな。俺たちの本番はココからだ」
「じゃあ、私も最後の仕事をしてくるわ。美奈ちゃん、マイクくれる?」
「はい、ただいま!」
まだ日没前ではあるが、ぼんぼりの明るさを感じる程度にはなっていた。西の空には宵の明星が輝きはじめた。
柚木がフェス終了の挨拶を終え、BGMが落とされた。
上条たちが機材の撤収を終え、機材車に乗り込んで会場を後にする頃、宵の明星はすでに地平線の下に消えていた。
「さて、倉庫に戻ってもうひと仕事だな」
上条がそう声を掛けたが、助手席の清水は初の大仕事に疲れたのか静かに寝息を立てていた。
実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。
〜登場人物紹介〜
上条一郎:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。
丸川音弥:上条一郎の大学の後輩。45歳。寡黙であるが時としてズバッと物をいう時があり、上条も一目置いている。上条と同じく、音響を生業としていて、人手が足りない時は上条の片腕として仕事をしている。妻・陽子(40歳)と長女で幼稚園児の陽菜(5歳)と3人ぐらい。イベント現場が近所だと、妻子2人で顔を出し、時にはお手伝いもしてくれる。
清水美奈:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。上条一郎に恋心を抱いているそぶりがある。
田渕貴之:イベント運営会社・DASエイジェンシーの代表取締役社長。56歳。主なイベントでは上条に音響を発注している。普段は厳しい眼差しながら、気心がわかるとよく笑う人情厚い人。小難しいクライアントからの仕様を切り盛りする。
吉田北斗:イベント運営会社・DASエイジェンシーの若手社員。30歳。入社5年目なので、ほとんどの業務をこなすことができるが、音響・映像・照明に関する知識が未だに皆無で、変な発注をしては関係業者を悩ませる。
今陽太郎:キッチンカー『Kon's Kitchen』のオーナー。通称Kon。東京都多摩地区を中心に関東一円のイベントやフェスに呼ばれる名物キッチンカー。様々な会場で顔を合わせるうちに上条や吉田らと顔見知りに。
柚木真由美:42歳。イベント司会やラジオのパーソナリティも務めるマルチタレント。上条とはお互いにイベントを手伝いあう中でもある。柚木主催のイベントでは上条が音響を務めることが多い。
大和:The Rising Sunのボーカル。上条とは旧知の間柄。驚くほどの声量と表現力で歌うが、酒を飲みすぎてリハーサルに遅れることがある。
坂口:Blue Wellsのキーボーディスト。音にこだわりがあり、何台ものキーボードを持ち込むことがメンバーには不評。だが、このバンドのカラーを決定づけているのは彼のこだわりの音である。
圭吾:Blue Wellsのボーカル。とても素直な好青年。まだまだ荒削りだが、将来が楽しみなボーカリストである。
ポップコーンズ:レギュラー番組を何本も持つ売れっ子であるが、こう言ったフェスへの出演や司会なども精力的にこなす若手お笑いタレント。アドリブが得意で、今回もスタッフの清水をいじる。
武蔵:The Rising Sunのギター。上条と会うまでは、ステージに上がった際に本番前に余計な音を出していたことを「あれは格好悪かった」と反省している。
〜用語解説〜
ラベリア:ラベリアマイク。ピンマイクともいう。上条が通常使うのはワイヤレスタイプのラベリアマイクである。
TASCAM:ティアック株式会社が持つ業務用機のブランド。
MD-CD1:TASCAMがかつて販売していたMDとCDを一体型にした3Uのダブルデッキ。この舞台になっているようなフェスの場合、今でも編集したBGMをMDで持参する出演者がいるため重宝するアイテムの一つ。
サンパチ:ソニーが販売しているC-38Bというマイク。漫才用ステージマイクの定番。NHKの紅白歌合戦や紅白歌合戦の古い映像でも見ることが多い。大瀧詠一さんが自身の曲のレコーディングに好んで使っていたのは有名な話。今では、ラベリアマイクを使用することが多いのだが、漫才をやる人たちにとっては、そこにサンパチがあることが重要なのである。
EQ:イコライザー。この場合はパラメトリック・イコライザーを指している。High、Mid-High、Mid-Low、Lowのレベルを調整する。
PFL:プリ・フェーダー・レベル。ミキサーは通常、最初にプリアンプ(ゲイン)を通る。この次にフェーダーに行くのだが、このフェーダーの影響を受ける前の音をヘッドホンやモニタースピーカーで確認できる機能。反意語はAFLである。
八の字巻き:音響や映像業界でケーブルを収納する際に使われる巻き方のひとつで、一方方向に巻くのではなく交互に巻くことによって、ケーブルがねじれず、絡みにくいのが特徴。
ぼんぼり:道路工事現場などでよく見かける大きな提灯型の照明器具。通常は発電機と一体型になっており、電源を不要とする照明器具である。