第一話:フードフェスの朝
そんなに大きくない(実際小さいw)音響会社を営むPAエンジニアおじさんの、ほぼ実話を元にした小説です。フェスや様々なイベントに出かけられることがあると思いますが、そのフェスやイベントの運営には、実際に数多くの人たちが関わっています。その中で、ステージなどで必ず必要とされる音響という仕事に関する小説です。
朝の空気はまだ冷たさを残しているが、今日の現場は快晴だ。上条一郎はレンタルした2トンのアルミパネル車のリアゲートを開け、機材を降ろし始めた。都内の公園で開かれるフードフェス。会場の隅では屋台の準備が進められており、スタッフがテントを張ったり食材を運び込んだりしている。
イベントの設営は、音響スタッフにとって最も骨の折れる時間だ。アンプやスピーカーといった重たい機材を運び、ケーブルの入ったケース類を転がしながら所定の位置へと運んでいく。ステージとPA卓を繋ぐマルチケーブルを敷設し、PA卓の機材を組み立て、各機材へのケーブルの配線を進めていく。
「丸川、サブウーファーはメインスピーカーの位置に合わせてイントレの下の段にしよう」
「了解っす」
大規模なフェスやホールイベントなら、前日や前々日から仕込みやリハーサルを行うのが一般的だ。しかし、都内の公園などで行われるイベントでは、前日夜にステージを組み上げ、音響や照明の設営は当日の早朝から行うことも珍しくない。そんな時間の制約の中、音響チームは限られた時間で機材をセットし、最適なサウンドを作り上げていく。
寡黙な丸川音弥は、上条の指示に従いながらサブウーファーを慎重にセットする。その横では、アルバイトの清水美奈がマイクスタンドを運びながら、汗を拭っていた。
「先輩、朝なのにもう暑いですね」
「ああ、昼には30度超えるだろうな」
会場の周囲には、色とりどりの屋台が立ち並び、スタッフたちが忙しそうに準備を進めている。鉄板の上でジュージューと音を立てる焼きそば、串に刺された焼き鳥の香ばしい匂い、フルーツたっぷりのクレープを仕込む屋台など、朝の静けさの中に活気が満ち始めていた。
ステージ前にはアルミ製の長椅子がいくつも並べられ、スタッフが配置を整えている。まだ観客はいないが、すでにイベントの雰囲気は出来上がりつつあった。
そんな中、設営スタッフの一人が音響チームの近くを通り過ぎた。白い作業服の背中には、小型ファンが埋め込まれており、風を送る音がかすかに聞こえてくる。
「いいなぁ、空調服……」
清水美奈が羨ましそうに呟く。
「ほんと、俺らも欲しいな」
丸川音弥も腕を組みながらぼそっと言う。上条は気がつかないふりをしているようだ。
朝の空気はまだ冷たさを残しているが、太陽はすでに強く照りつけている。昼には30度を超える予報で、暑さ対策は必須だった。春の穏やかな気候とはいえ、ゴールデンウィークの時期ともなれば、気温の急上昇は珍しくない。
空調ファンは30度ぐらいになるとその恩恵はとても大きいものの、そのまま冷房の効いた建物に出たり入ったりしたり、音響スタッフのように本番が始まったらPAブースの中に長時間いるような場合には、かえって空調服は体調を崩す原因になるのだ。上条はそれを知っているので、真夏の炎天下の現場以外では空調服を用意しないのだった。
準備を進めていると、リハーサルの時間が迫ってくる。アマチュアバンドからプロのバンドまで、出演者は様々だ。
この手のイベントの場合、演者の出演順や必要な機材が記された香盤表や進行表が存在する。だが、小規模なイベントでは、それを受け取るのが当日ということも珍しくない。今回も例に漏れず、香盤表と出演者リストが手元に届いたのは朝の設営がほぼ終わった頃だった。
上条は手慣れた様子でリストに目を通し、大まかな編成を頭の中で整理する。長年の経験から、どんな演者がいても対応できるよう、予備の機材をしっかり持ち込んでいる。
丸川が香盤表を見て、驚いたように声を上げた。
「上条さん!通常編成に加えてコーラス4人、ブラス4本、さらにパーカッションなんてバンドがありますよ!」
「スタンドなら予備で16本積んでいるし、マイクも58と57なら8本ずつ予備があるし、なんとかなるっしょ」
丸川は不安そうに香盤表を見つめながら、ふと気づく。
「でも、卓のチャンネル数が……」
「サブ卓も出すか〜」
「え、そんなものまで持ってきたんですか?」
「貧乏性なんだよねえ」
上条は機材車を指差し、丸川にニコッと笑いかけた。
「あ、オレっすね」
丸川は苦笑しながら機材車へと向かう。その様子を見て、清水が元気よく声を上げる。
「手伝います!」
そう言うと、清水も駆け出していった。
実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。