受け継がれた魂と、困惑の魂
慶応三年六月二十二日。
京は三本木にある料亭に、土佐・薩摩両藩首脳が集まった。無論、龍馬・中岡・以蔵も隅で見守る。
当時、「大条理」と呼ばれていた大政奉還論を後藤が説明し、その後の展開を龍馬が説明。理論だけで終わらず、中岡率いる軍隊に薩摩藩を背景に、圧倒的武力を見せながらの戦略的交渉を徳川に持ちかけ、最終的に「江戸城を明け渡す」所までの算段である。
その密約には薩摩も非の打ちどころが無い。例えば徳川が大条理を拒否した場合は、武力によって江戸城を包囲し、討ち込む。それは長州・薩摩が先頭に立ち、他藩の介入の一切を防ぐ。更には海上から亀山社中が、土佐藩船の旗印を掲げ援護する。
武力を持っての討幕も、必ずしも否定はしない内容だった。更に西郷達薩長には、新政府の中心への道筋も見えている。
この密約を、西郷は呑んだ。
更に、自身が責任を持ち、中岡と共に長州に入り木戸を説得すると明言をする。
後日、西郷が書を認め、中岡が長州の木戸を訪ねて説得に成功。龍馬はこの密談の直後、中岡と話をし、それぞれが組織する軍隊を「海援隊」「陸援隊」と定めた。
史実からすると、早すぎる三藩の同盟。そこに出席をしていた者の名として、岡田以蔵が口伝いとして各藩を回る。
坂本龍馬と岡田以蔵の名が、混迷を極める時代に良いも知れぬ期待感を必要以上に煽っていたのだ。
何故かこの後、史実では起きた筈の「イカルス号事件」が起きない。この事件は、海援隊の白袴を纏った男が、イギリス人の水夫を斬り殺したとされる事件であるが…盟約を破棄させるため、後藤の足止めを目論んだ何者かが企てたのでは無いか、との説もある。
六月の末まで、彼らは京を駆ける。在京芸州藩士と面談しての同意取り付け、薩摩藩内の武力討幕反対派への回答、同時に武力討幕派に対する説明。
全ては恐ろしい程に順調に進み、七月一日、中岡は長州へ、龍馬は長崎へと向かう。そして彼らと入れ違う形で、薩摩藩から同盟への返事が届く。
「趣旨甚だ御同意の旨」
薩摩は大政奉還に関わる一連の流れに同意、という藩論として認めたのだ。これを祝う宴が翌日催され、薩摩藩は土佐藩重鎮を招いた。
翌三日、後藤は土佐へ戻る。龍馬の案を胸に抱き、容堂公を動かす為に。
----六月三十日、新撰組屯所。時は既に深夜になっていた。
「原田組長…」
何者かが土蔵の外から左之助を呼ぶと、思い扉は静かに、そして僅かに開いた。
「よく来たな、まぁ入れ」
柄にも無く小声で話しかけ、奥へと通す。
「座れ、浅野…いや、岡田か」
どっしりと座った土方が、愛想も無く言い放つ。
「では、失礼します」
慌てるでもなく、負けじとどっかと尻を下ろす以蔵。
「大条理…お前さんたちは大政奉還論と言ってるらしいが…? どこまでの事をやらかすつもりだ」
「新撰組に聞かれ、私が答えるとでも思っているのですか?」
「刻を超えたお主に聞く。我ら侍は消えゆく存在なのか?」
「刀を振るい、人を斬る事が侍の全てであれば、消えゆく者となります」
「言ってくれるじゃねぇか、俺たちが人斬り集団なんて呼ばれてるのを皮肉ってやがんのか?」
左之助が横槍を入れて来る。
「副長、侍には侍の生き様があるように、日本人には日本人の生き様があります。それを否定する権利は誰にも無い」
以蔵は冷酷に言い放つ。そして、暫くその意味を考えていた左之助は、不思議そうに以蔵に聞く。
「俺達は日本人じゃ無いって言うのか…?」
その言葉に土方は頬を緩め、軽く俯く。
「侍は主に従い、忠誠を尽くす。しかし日本人は国の為に動き、忠誠を尽くす」
「俺達は国を思ってねぇって言いたいのか!?」
今まで扉にもたれていた左之助が、ずいずいと以蔵に歩み寄る。
「共に忠義を尽くす者…。無礼を弁えろと言ってるんだよ、岡田は」
左之助を諌めるように土方は言う。
「将軍警護で発した新撰組…。その将軍の危機には違いないのだが?」
「では、慶喜公が自ら導き出した答えを汚すような行為だけは御控え頂きたい」
「経過を見守り、主君を信じろ…と?」
「しかし副長、政権返上後は、我々侍の時代は…」
「主君の選んだ道を疑うな、と、言う事だ…。そうだろう?」
以蔵は眼を伏せ、頷きながら言葉をかける。
「どの道、帝を、京を警護する軍隊は必要となります」
「岡田、愚弄するな」
土方の静かな言葉が以蔵を突き刺す。
「仮に大政奉還が成ったとて、我らの主君は徳川慶喜公。帝の護衛になど就けば侍の魂が消えうせる」
武士は武士として生き、武士として死ぬ。器用に生きられぬ本物の武士の姿を、以蔵はその目で見る事になった。威風堂々と、主君の為に生きる魂は、悲しい程の眩しさを放っている。
「だが、沖田が信じた男でもあるお主と坂本という男…。どれほどの器かも知れぬが、我らはその弟の魂により、今後の行動を見守る。そして主君の導き出す答えを信じ、それを疑わぬ」
土方は晴れ晴れとした表情をしていた。
彼は勘付いているのだろう。徳川を守る為には大政奉還を受け入れる他無い、という事を。そして、自らの命を賭して、侍の生き方を選ばざるを得ない事を。
暫くの無言の後、左之助は左腰に差していた鞘を以蔵に差しだす。
「山南からの贈り物だ。沖田にやるつもりだったが…病じゃ仕方ねえし、お前になら文句も無ぇだろう。反りが合うか試してみろ」
左之助から鞘を受け取った以蔵は、右に置いている太刀を取り、ゆっくりと刀身を抜き出す。
「そいつで何人斬った…?」
土方は噂の岡田以蔵を試すような口調で問いかける。
「井伊直弼を襲撃した水戸浪士数人、吉田東洋…斬り殺したのは水戸浪士数人だけです」
「桜田門? 随分前じゃねえか…俺はてっきり、修羅と言われる男だけにもっと斬ってるのかと思ってたぜ」
「勝手に周りが言っていただけですよ。まぁ…各藩に偽物が出て、人斬りなんて噂もありましたが」
そう言いながらも、自らも偽物である事を思い出し、少し表情が崩れながら山南の鞘に刀を納める。
「反りが合うか…。山南の魂は、お主に受け継がれたな」
この瞬間、以蔵は違和感に襲われた。
『新撰組が龍馬を放置。政策が違った筈の長州・薩摩が大政奉還へと動き出す…。龍馬暗殺の犯人は…?』
健一として生きていた時代、龍馬暗殺犯として挙げられる者は大勢いた。諸説あり、その時代でも定説はあるものの、未だ論議がある事くらいは知っていた。無論その中に新撰組があった事も知っている。
歴史が変わっていると実感した、初めての瞬間だった。




