吉田東洋
「来たぜよ、真ん中の男じゃ」
「ありがとう、中岡殿はもう戻られた方が良い。見られると、後が面倒になる」
「では、失礼するぜよ」
二人は声を殺し、民家の隙間から明々と提灯を下げた団体を避け、身を潜める。背後に居た慎太郎は、以蔵の肩をポンポンと二度叩き、闇へと消えて行った。
以蔵は息を殺し、道を覗いた。
「護衛は…四人か、不用心な」
目標は吉田東洋。土佐勤王党が暗殺を目論む土佐藩の要人であり、一刀流を使うと聞いている。腕に覚えアリ、と言わんばかりの警護。
以蔵は思い切って道に出る。あちらは提灯の明かりに目が慣れ、暗闇までは見えていない。
提灯の明かりが以蔵を薄らと映し出す距離になり、護衛の四人は一気に警戒を強める。しかし以蔵は、何食わぬ顔で近付き、通り過ぎようとする。
護衛との距離もあり、通り過ぎた瞬間、東洋の背後を護る者以外は気を抜く。
以蔵は草履を脱ぎ、一気に背後の護衛に跳び付く。
「うわ!」
驚きで跳び付かれた護衛は声を上げ、以蔵はその男を引き倒してを思い切り踏み付け、その男の刀を放り捨てる。
左の護衛が提灯を方手に抜刀し、以蔵の顔を照らそうとするが、その提灯を以蔵は横に払うように木刀で叩きのけた。
提灯は地面で燃えている。以蔵はその提灯を左の男に蹴りあげ、顔を庇った所に一撃を入れ倒す。そして次の瞬間、東洋の眉間に木刀を突き立てる。
右に居た護衛がその木刀を払い、中段に構えるが、その刀を上から思い切り叩き下ろして折る。同時に水月に突きを入れ、再度東洋の眉間に切先を突き立てる。
「もう止めて下さい」
以蔵が口にした。
「辻斬りが横行しているにも関わらず、少数の護衛。そして実践に慣れていない身のこなし。東洋殿と言えば、護衛を盾に隠れるだけ。今の瞬間、東洋殿の頭は地面に転がっております」
東洋は背後の護衛を掴み、盾にしようと引っ張っている為、護衛一人は動けないでいた。
「おまん、誰ぞ!」
やっとの思いで東洋が口を開く。
「ワシを吉田東洋と知っての狼藉か!」
東洋は抜刀しようと手を柄に掛けるが、以蔵は即座に間合いを詰め、その手を握った。そして木刀の切先は、その背後に居る護衛の喉元に立てる。
「動くな。喉を潰すぞ」
そう言って威嚇した後、密着した東洋の脇差を抜き、腹に押し当てる。
以蔵の木刀で倒れた護衛が、モゾモゾと動き出した。
「私は、貴方がたを斬りに来た訳では無い。落ち着いて刀を納めて貰えませんか?」
東洋は慌てて護衛に指示をする。
「構わぬ。刀を下に置け」
そう言うと、護衛達は渋々刀を置いた。
以蔵は東洋の太刀を引き抜き、投げ捨てた。
「私の要望は一つ。東洋殿、土佐藩から身を隠し、一切表に出て来られぬ様、お願い致します」
「な…何を言うか、ワシの失脚が狙いか!」
「そうです。このままだと、東洋殿は斬り捨てられます」
「ならば、今斬れば良い!」
「今は斬りません。貴方に選択して頂きます。身を引くか、命を落とすか…」
「貴様は誰ぞ…」
「以蔵…岡田以蔵です。桜田門外で色々と噂が流れていますが、御存知でしょうか?」
「おまんが…岡田以蔵かえ! 何をしに土佐に来たがか…」
岡田以蔵という名を聞き、そして四人の動きを瞬時に封じた腕前を目の当たりにし、護衛達は恐怖で動けなくなっていた。
「各藩を周り、志士を助ける。それのみでございます。まぁ、私の名を語り、天誅と叫ぶ輩も多いでしょうが…」
「ワシは退かんぞ…」
「良いでしょう。今宵は警告に参っただけ。まぁ、相手が岡田以蔵とは言え、たった一人に手錬五人がこの有様です。良く良く御思案下さい。幸い、目撃者はございません…」
以蔵は脇差を投げ捨て、ゆっくりと闇に消えて行った。
「東洋殿。次に会われた時…楽しみにしておきます」
その一言を残して。
東洋の護衛は、翌日より強固な物となった。登城する時まで十人の警護を付ける程に。
彼は以蔵を恐れた。襲われた直後から、昼夜関係無く怯え、近付く者の帯刀を許さなかった。その話しが城内で囁かれ、そして城下広がる事になるのは二日後だった。
「情報を制する者は、戦を制する、ですよ」
「いや、まっこと驚いたぜよ。こうまで効果があるちょはな。噂では、東洋は厠まで護衛を付けちょるっちゅう話しじゃ」
中岡は大笑いをしている。
「あの桜田門外で生まれ、独り歩きした伝説に加え、坂下門外の失敗で、岡田以蔵伝説が確固たる修羅となったお陰ですよ」
「しかし、間違いなく以蔵さんじゃろ?」
「まぁ、恐らくは」
「愉快愉快、斬り殺す事のう、ここまで城内をかき乱すちょわの」
「八日までに、気が病んで失脚、となれば良いんですが…」
「そうならなんだら、斬るがか?」
「いえ、できれば斬りたくはありません」
「そうじゃろうの、以蔵殿は」
「しかし、武市さんの出方次第では…」
「おまん、武市先生と策士勝負でもしちょるがか?」
中岡は、眉をひそめて聞いた。闇の以蔵の剣術の腕は知っている。同時に武市の謀略に関しての知識の高さに関しても、知っている。
ここに居る以蔵は、剣術の達人と言われても想像すらできない程に普段はおっとりしており、更に謀略・策略という暗闇とは対極に存在する人物に見える。普通なら、卒業を控えつつも大学に通って
いる学生だったのだから、これが普段の姿だ。
「恐らく、今回だけでしょう。次は武市さんと知恵比べしても勝てません」
「どうして今は勝てるがか?」
以蔵は中岡を笑顔で見つめながら答えた。
「私が策略を練る人間には見えないでしょう?それに今回、東洋を襲撃した際には仕掛けを残しました。ですから、私が襲撃した、という確証はありません」
「仕掛けっち、何ぜよ」
「東洋は辻斬りが横行しているにも関わらず、護衛を少数しか付けていませんでした。自分を襲う輩は居ない、襲われても対処できる。恐らく自尊心の高さから、そう表現したかったのでしょう。ですから、岡田以蔵一人にやられた、という事を彼の頭に叩き込んだのです」
「それが仕掛けか?」
「一人にやられた、となれば今後志士達の標的になり兼ねない。だから他言はできない。しかし、恐怖心から護衛を増やし、必要以上に警戒する。しかし武市さん側も、策略には縁遠い私の仕業とは断定できず、暗殺を強行するしかない」
「何故今決行する意味があるがじゃ」
「恐怖の噂が城内で広がっており、ここで東洋を暗殺すれば、その影響力は大きい」
「ほいたら、先の襲撃は無意味ちゃ!」
「いえ、襲撃を諦めさせる為にした事ではありません」
中岡は混乱して来た。
「武市先生に有利になるように、襲撃したがか?」
「武市さん側にも、以蔵が居ます。しかし、先んじて顔を見せている以蔵は私であり、恐怖の対象も私です。あちらの以蔵がいくら名乗っても、恐怖の対象からは外れるでしょう」
「以蔵の名を取り戻すつもりかや」
「いえ、それは考えてませんが、恐らく二人になるでしょう。元はそれが狙いでしょうが、あちらは人斬り以蔵を二人作るつもりです。あちらも剣術は立ちますからね。ただ、暗殺剣の以蔵と、活人剣の以蔵、という図式はできあがります」
「言うてる意味が…」
「襲撃時には、私も飛び込みます。東洋は、私が以蔵だとすぐに気付くでしょう。そして二度目の恐怖と、多少の手傷は負って頂きます」
「うーん…良う分からんぜよ…」
「それより、武市さんに気付かれてませんか?中岡さんの身が危険に晒されては…」
「それは大丈夫じゃ。二人の以蔵が出会うてから、ワシはお主とは接点が無いようにしちょるき。それに、活人剣っちゅう物に興味もあったがよ。暗殺だけが、革命じゃ無いっちゅう事も、この目で確かめたいき」
以蔵達は、才谷屋の土蔵の中に居る。分厚い壁に、窓も無い空間…。声が漏れる心配も無い空間であるが、その反対に圧迫される程の暗闇が広がる。
日も暮れ、新月のこの夜は星明かりしか頼る物が無い町外れ。
「東洋の奴、必要以上に怯えちゅうがぜよ」
廃屋にヒソヒソと声が忍ぶ。
「護衛が増えたからには、こちらも増員せにゃいかんの」
武市が眉間を抑え、絞り出すように話す。
「昨日から護衛が八人になっちょるがよ」
以蔵の襲撃以降、東洋の護衛が倍に増え、その護衛の質も上がった。容堂謹慎中は土佐藩での実権を握っている東洋だけに、その護衛も今回は選りすぐりの猛者となった。
『少なくとも五人と斬り合い、犠牲となってもあまり痛まない者…』
武市は非情にも捨駒を考えた。もちろん、その筆頭にあるのは、あの男である。
「以蔵、おんしなら何人斬れるがか?」
「ワシ一人で十分じゃ」
以蔵も、偽蔵に対抗心を持っており、自ら新しい伝説を作ろうと野心を持っている。
「よし、ほいたら予定通り四人で決行じゃ。襲撃後、それぞれ脱藩するがじゃぞ。長州の高杉晋作を訪るがエエ。既に話しは通しちゅう。そいと以蔵…」
武市は以蔵に目をやり、諭すように言う。
「おまんは名を名乗れ」
「何ち? 暗殺に名乗るがか?」
「以蔵伝説を、土佐勤王党の物にするがよ。心配するには及ばん。すぐに長州に向け脱藩するがじゃき」
「お…おう」
「おまんの名を、取り戻すがぞ」
「わ、分かった」
武市はゆっくりと立ち上がり、勤王の志士を見渡しながらゆっくりと語る。
「伝説の以蔵は、我と共にある。暗殺計画を封じる計画の偽蔵めを、驚愕させる暗殺をし、革命を我が手に収めるがよ」
志士達の興奮が高まる。その中に、冷静に流れを見ている者が居た。才谷屋の土蔵から、この廃屋に駆け付けた中岡だった。
『人を斬る事での革命か、活かす事での革命か…こん先の運命を分ける襲撃になるがよ。龍馬…おんしの言う通り、あの以蔵殿が天を揺るがす男なら、ワシは龍馬に付いて行くがよ』
龍馬も、血を流さない革命を追い求めて奔走を始めていた。
四月八日。この日は朝から曇っていた。高知城にある大手門を、八人の護衛に護られながら駕籠が出て来たのは夕刻。曇り空ではあったが、まだ明るく、城下に人の往来もある。その一行は、意図的に大通りを選びながら進んでいる。その道の両端には平伏す町民たち。その刻は次第に迫っている。
「天誅―!」
大声が響き、大男が駕籠に付く護衛に斬り掛かる。同時に反対側から二名の男が飛び出し、同じ様に斬り掛かる。
護衛三名は斬り倒され、即死。残る護衛は五名。それぞれが抜刀し、構える。先んじて以蔵が襲撃した事で、東洋は手錬を揃えた。仲間が斬られて動揺している者は居ない。そして、襲撃犯が複数だ
という事を察知した、駕籠の中の東洋は外に出る。
襲撃犯三名を見渡し、少し安心して口を開いた。
「岡田以蔵はおらんがか」
ゆっくりと抜刀する東洋。そこに、正面に平伏していた、薄ら汚れた男が立ち上がり、口を開く。
「ワシが、岡田以蔵じゃ」
そう口にした瞬間、硬直していた町民たちは悲鳴を挙げて家の中隠れる。
「そうか、おまんが…あの時言われた偽物かや。無駄じゃ、斬れえ!」
東洋が叫ぶと、護衛五人が襲撃犯に斬り掛かる。
以蔵は自分が偽物と言われた事、伝説の以蔵に全く恐れて無い事の意味が全く分からずに居たが、那須達襲撃犯は、護衛の侍達と斬り合っている。そして、残る二名が以蔵に斬り掛かって来る。
『二人か』
以蔵は抜刀し、即座に応戦しようとするが、その内の一人の剣を、別の男が受けた。
「貴様!」
以蔵が叫んだその先には、偽蔵の姿がある。
「多勢に無勢ですか?」
偽蔵はその護衛を捻じ伏せ、峰打ちで倒すと、東洋に近付く。
「い…以蔵!」
その東洋の言葉に、全員が驚愕する。護衛の者達に一瞬隙が生まれ、那須・大石達に斬り捨てられた。しかし、その瞬間『偽蔵』は彼らの腕に太刀を当て、骨を折る。
「おまんら、もうエエき。予定通り退け!」
闇の以蔵が叫び、三人は戸惑いながらも、その場から走り去る。
「ワシを助けてくれるがか…」
東洋が言うと、闇の以蔵が東洋に斬り掛かって来る。慌てて太刀で受ける東洋。
「ワシが以蔵じゃ!」
そう叫ぶが、東洋の恐怖は偽蔵に集中している。
偽蔵は以蔵の喉に刀を当て、
「刀を下せ」
と諭すが、以蔵はその態勢を変えようとしない。
「東洋殿、斬られてみますか?」
「阿呆…ワシは死なぬ…」
それを聞くと、偽蔵は以蔵の腕を掴み、後ろに引き離す。
「何をするがじゃ!」
その言葉を偽蔵は聞き流し、東洋の左足を斬り裂く。
「おまん、どっちの味方ぜよ! いや、どっちでもエエ、そん男はワシが斬る!」
そう叫びながら斬り掛かって来るが、偽蔵は刀で受け流し、以蔵と距離を取って納刀する。
「何のつもりじゃ…」
東洋は足を斬られ、呻き声を上げながらその場から逃げようとしているが、距離が稼げないで居る。その状況を見て、以蔵は眼の前の敵を倒す事が先決とした。
「おまんの伝説は、ワシが貰う!」
そう叫びながら以蔵が構えるが、偽蔵は負けじと声を挙げる。
「この岡田以蔵、これ以上向かうならば斬る!」
このやり取りを家の中で聞く者達は、土佐訛の以蔵もどきが、本物の以蔵を倒し、伝説を我が物にしようと企んでいる、と思っただろう。もちろん、それこそが剣一の考えであり、自らの今後を守る事に繋がる策略だった。
暗殺は一瞬で終わらせなければならない。
既に騒ぎは広がり、程無く奉行所の役人達も駆け付けるだろう。
「…今回は退く。次は斬るぜよ!」
そう言うと、闇の以蔵は逃げ去った。
「大丈夫でございますか」
東洋に手を貸し、立ち上がらせようとする以蔵。
「黙れ、おまんが足を斬ったがやろ…」
ためらい無く足を斬った以蔵に、東洋は怯えている。役人達も駆け付け、すぐそこまで来ている。
「警告致す。このまま足の療養と称して藩政から身を退かれよ。さも無ければこの以蔵、次こそは東洋殿が何処に居られようとも、斬りに参る。護衛を何人付けようとも、神速以蔵、修羅と化して必ず斬る。そしてこの先は我のみならず、先程の様な偽以蔵も多く東洋殿を付け狙うであろう」
耳元で静かに、低く言った。
恐怖に陥れるには、もう十分だった。
夜間、四人の護衛を倒し、その恐怖に震えた数日間、そして今日、手錬を揃え、一事は安心感に覆われた後に落とし込まれた恐怖。更には二人の以蔵に襲われた事実…。何もかもが、この先安泰に過ごせない事を暗示していた。
「大丈夫です。賊は全て逃げました。東洋殿も命に関わりはありません」
生き残った者が役人に報告している時には、既に以蔵の姿は無かった。大勢の役人で溢れ返り、要人が生きている事と屍の確認で混乱している中、姿を隠した。
武市の暗殺は失敗に終わり、東洋は警告後も暫く藩政を行ったが、以蔵への恐怖から心を病み、藩政から外れる事を余儀なくされた。
程無く、城下町民の間で噂が立ち始める。
「活人剣岡田以蔵が土佐に現れ、東洋を失脚に追い込んだ」
「偽物の以蔵が現れ、本物に負け去った」
その噂に、更に尾鰭が付き、諸国に広がって行くのも、そう時間は掛からなかった…。
「偽蔵めが!」
廃屋で武市が荒れている。そして、闇の以蔵もその場に居た。
「あの男の策略に、ワシが乗せられておったがか! まんまと偽物が本物になり、新しい伝説まで贈ってしもうたがか!」
辺りの灯篭や木箱に当たり散らしながら叫ぶ武市に、以蔵は泣きながら謝罪する。
「すまん先生、すまん」
「もうエエ!おまん等、何処にでも行けばエエがや! 何処ぞで首でも斬って来るがエエ!切腹などやらさん!ワシと関わりの無い所で、首を斬れ!」
「勘弁しちょくれ、ワシは奴と闘うまで死にとうは無いんじゃ」
「脱藩指示も無視してのこのこ戻って、何を言うがじゃ!」
武市は以蔵を蹴り飛ばした。
「何でもするき、誰でも斬るき…」
武市は何度も蹴りつけながら、その言葉を聞いていたが、息を切らしながら闇以蔵に叫び出す。
「一度土佐を離れろ。時が来たら呼び戻す。そん変わり、おまんには人斬りになって貰うがぜよ!土佐勤王党とは繋がりの無い人斬りにの!」
「…分かったぜよ…」
「さっさと出て行け!」
更に強く蹴飛ばし、以蔵を追い出す。
一人になった武市は暗闇を見つめ、
『あの偽蔵…いや、以蔵が防ぎ切れぬ程の屍を作り上げちゃる。
東洋失脚後、ワシは藩政を掌握する算段はついちょる。屍を山積みに、その上に立っちゃるぞ』
そう硬く誓いを立てた。そして、土佐勤王党は暗殺組織となって行く。そこに、もはや偽物となった闇の以蔵も暗躍するが、活人剣以蔵とは全く別人と認識されるようになる。