以蔵二人
「武市先生、先生はおられるか!」
例の廃屋にドカドカと中岡が入って行く。
「ほたえなや、ここに居るき」
奥から武市の声が聞こえる。そして、その場所に三人が向かう。
「何じゃ…以蔵、行ってしもうたがか」
「ワシ、先生の言うちょった意味が分からんかったき、直接会いに行ったがよ」
「まぁエエ。そうなるやろう思うておまんに話したがよ」
黒い以蔵と武市の会話を聞いて、以蔵が武市に尋ねた。
「武市さん。私達二人を会わす事が最初からの目的ですか」
「半分はそうじゃ」
「もう半分は?」
「まさかこの以蔵が、ここまで阿呆じゃったとは思わんかったがよ。まぁエエ。多少計画は変わってしもうたが」
「私を、貴方の策略に巻き込まないで頂きたい」
「エエちゃ。お主は今まで通り平和にしちょってくれたらエエ。こっちの以蔵は、お主程ではないが、剣の腕は立つ。勤王党には必要な男になるきの」
「ほいたら、ワシは以蔵の名を捨てないかんがか?」
黒い以蔵が問い掛ける。
「いや、その必要は無いき。のお、以蔵殿」
「ええ、捨てるのは私ですから」
そう言いながら、以蔵は武市を睨む。
「私は、たった今から以蔵の名を捨てます」
「別にエエがよ。しかしの、おんしが誰か決めるんは、周りぜよ。武市っちゅう人間を決めちゅうがは、ワシじゃない。おまんら全員が、武市っちゅう男を作りあげちょる事を忘れたらいかん。おまん
も…以蔵か、他の誰かは、周りが決めるがぜよ」
「私は、貴方に負けません」
剣一はそう言い切り、廃屋を出て行った。
「先生…何を考えちょりますか」
中岡は武市に聞くが、武市は笑ったまま答えようとしない。無気味な笑みに、中岡は少しの恐怖を覚えた。
家に着くと、すっかり日が暮れていた。
既に夕飯の準備ができており、いつもと変わらない時間が訪れた。
剣一は飯を食い、佐那も静かに平らげた。
「何も聞かないんだね」
「聞いた所で、昨日までと何か変わりがありますか?」
「俺は俺…か」
「まぁ、俺だなんて言葉、初めて聞きました」
「貴方の本当のお名前は?」
「木下健一」
「最初にお会いした時のお名前が本当のお名前ですね」
「ああ…でも、名前なんてどうでも良い」
「そうです」
「だから、俺はこれからも岡田以蔵で居る」
「え…以蔵ですか?」
「恐らく、昼間の以蔵は暗殺を繰り返す。土佐勤王党として。だが俺は闇には生きない」
「闇と光の以蔵ですね。これは皆さん混乱するでしょうね」
佐那は何気なく笑ったが、以蔵は気付いた。
「そうか!それが目的か!」
「どうしたんです?」
「武市さん、俺をハメる気だ。目的が分かったぞ!ありがとう、佐那!」
「いえ、どういう事か分かりませんが、お役に立てたなら」
相変わらずにっこり笑う佐那を見ながら、以蔵は武市の罠を逆手に取る算段を立てていた。
四月に入り、桜の花も賑やかになる頃、城下では辻斬りが多発し
ていた。その目標は高知城に出入りする役人が主であるが、全て命を失う程の物ではない。
提灯・髷・着物…中には鞘を割られたという者まで居る。それぞれが刀を抜き、抵抗しているが、相手に手傷を負わせる事すら叶わない程の相手のようだ。
「あの男しかおらんじゃろ」
武市は怒りを抑えながら口に出した。
「役人に要らぬ警戒心を与えよって…」
辻斬りが役人達のみを襲撃する事により、藩内役人は必要以上に警護を重視し、上役にもなれば、常に手錬を七.八人連れて城下に出る様になっていた。
「偽蔵め…」
武市は以蔵の仕業である事を察知し、偽の以蔵、偽蔵と呼んでいた。
「西洋式兵器、流通の独裁、開国論…何としても奴は斬らにゃいかんっちゅうがや!」
「やめるんかいの?」
奥に座っている闇の以蔵は抜けた声で問いかけるが、逆に武市の神経を逆撫でた。
「阿呆は黙っちょれ! 今策略を練っちゅうがよ!」
武市は柄にも無く怒鳴り散らし、余程腹が立ってるのだろうと安易に想像できる程に憤慨していた。
「相手は生ける伝説の人斬り。しかし確証が無い事には、奴を捕える訳にもいかん。闇討ちしようにも、恐ろしい感覚で敵を察知するっちゅう話しじゃ」
「そんな物、只の噂に過ぎんじゃろ」
部屋には武市・闇以蔵の他に三名。那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の五名のみ。
誰かを闇討ちする計画を立てている。
「噂…じゃ無いじゃろな」
闇以蔵が会話に割り込む。
「ワシが忍び込んだ時、大声で笑い合っちょったが、ちょいと斬り込む事を考えたら、いきなり出て来たがよ。向こうは闘う気じゃった」
「伝説は本物かや」
大石は息を呑んだ。
続けて那須も口を開く。
「その手の噂は誇張されるが、奴に限ってはそうでも無さそうじゃの」
「それだけ修羅めいた男っちゅう事か」
安岡も口を続けて開いた。
「いくら伝説の男じゃろうが、現状の警備で一人斬り込む事はできんじゃろ」
武市は、暗殺を決行する決意を固めた。
「決行は八日。以蔵、おまんも同行するがじゃ」
「ワシもか?」
「警護が増えちゅう。手数が多い方がエエ。それに、おまんも偽蔵に負ける気はせんがやろ?」
「当たり前じゃ。ワシは誰にも負けん」
「そうじゃろう、じゃからおまんを勤王党に迎えたがよ」
「そん期待に応えてみせるがよ。偽蔵を討ち取る事が困難である以上、決行するしか無い」
四月八日。土佐城下で革命が起きる。
「八日ですか…ありがとう、中岡殿」
「しかし、以蔵殿も思い切った事をする…役人達を片端から無傷の辻斬りなんぞ、誰もやらん。今じゃちょっとした話題になっちょるぞ、以蔵が土佐に現れたっち」
「その噂を、武市さんが今まで利用しない方が不思議ですね。以蔵の名を使えば、より簡単に事が運ぶというのに…」
「最後に使うがやろ…八日に。伝説の重さは、以蔵殿より周りが感じちょるき」
「なら、先手を取りますか」
「また動くがか?」
「今日で王手を掛けますよ」
以蔵は茶を啜った。
「うぇ、渋い…」
「佐那殿が居らんと、何もできんお人じゃな、以蔵さんは」
缶に入った番茶が、懐かしく思い出された。
日が暮れる。もうすぐ城下を闇が包む。