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維新の剣  作者: 才谷草太
旅立ち
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桜田門外の変

 『桜田門外の変…今年だったよな…』

 万延元(一八六〇)年、大老伊井直弼暗殺。高校の授業でそう習った。確か、春だったと記憶しているが、その先にどうなって行ったのか、剣一は正直あまり覚えていない。学校で教わる歴史なんて、所詮そんな物だが、知らない歴史を変えないように行動する事が困難だという事は、剣一自信分かっている。

 武市達が千葉道場で盛り上がり過ぎていた為、書簡で何とか留めたが、この先は、自分が感じるように動くしか無い。その為に剣術を磨き、この動乱の世を、知り得る限り元の結果に導かなくていけ

ない。成り行きとはいえ、岡田以蔵となった事で、自分を人斬りとして身を置かなくてはいけない事も覚悟を決めていた。

 『岡田以蔵って…最後、どうなったんだろう…』

 人斬りの結末は、生き延びる事が困難なのは分かるが、自分も生き延びたい。しかし、その事で歴史が変わってしまう可能性もある。

 悩み続けても、結果なんて出る訳が無い。ただ、夕刻から降り始めた雪を眺めながら、今後を思案するしかできないでいた。


 翌朝、三月三日。あまり良く眠れなかった剣一は、うっすらと見える中庭の景色が目に焼き付いた。

 「見事に積もったな…」

 昨夜から降り続いた雪は、一面を見事に染めていた。

 「剣一殿…起きていらっしゃいますか?」

 縁側から佐那の声が聞こえた。

 「ええ、今着替えます」

 そう縁側に向かって喋りかけ、着物に着替えた。縁側では、佐那が腰かけ雪景色を楽しんでいる。

 「見事に積もりました」

 「そのようですね」

 障子を開けた剣一に気付いた佐那は、振り返らずに声を掛け、剣一も庭から視線を移さずに答えた。

 「あまり眠られていないようですが、大丈夫ですか?」

 「ええ…少し眠いですが、佐那さんを見ると、目が覚めました」

 「どう言う意味でしょう?」

 からかわれてると感じた佐那は、剣一を下から軽く睨みつけた。

 「少し…街を散歩しませんか」

 「わ…私とですか?」

 当時、男女が並んで歩く事が無かった為、その行為自体が親密すぎる関係を現すのだが、剣一にとっては関係のない事だった。今、一人で籠っていると、時の流れに圧し潰されそうになっていた。

 「さあ、参りましょう」

 佐那の手を取り、表に出た。当然佐那は手を振りほどき、赤面して門の前に立ち尽くす。

 「あの…困ります」

 「佐那さん?」

 「殿方と並んで歩く訳には参りません」

 「…そうですか…では、後ろでも良いので、しばらく一緒に居ては貰えませんか?」

 少し困惑しているが、嫌な顔は全くしていない。そんな女性の姿に、剣一は新鮮さを覚えた。

 「では、少々支度をして参ります」

 そう言って、佐那は一旦屋敷に戻り、上着を二着、刀を二振持って来た。

 「侍が帯刀していないとは、何事です?」

 そう微笑み、刀を剣一に渡し、上着を掛けた。

 「さぁ、何処へでも」

 そう微笑んだ佐那に剣一も微笑み返し、気分が少し楽になった。

 「では…」

 そう言いながら、ブラブラと雪景色の江戸城下を歩きだした。

 …どれ程の時間を歩いただろう。剣一は、何かを目指すように歩いている。佐那は剣一に少し違和感を覚えながらも、背中を見つめながら着いて歩く。そんな中でふいに

 「あ、剣一殿」

 佐那が声を掛けた。ふっと気を取り戻した剣一の背中越しに、数人の侍に囲まれた駕籠が、遠くから歩いて来るのが見える。

 「どこかの偉い御方です。参りましょう」

 佐那はそう言って、剣一を促して、駕籠の通る前に平伏そうとした。

 「あ…佐那さん、これを」

 剣一は小さな手ぬぐいを出し、雪の上に広げた。

 「大丈夫。役人からは見えませんよ」

 「剣一殿…」

 剣一は、顔を赤らめつつも、これ以上無い笑顔を見せる佐那の隣に平伏した。

 暫くして、駕籠が近付いて来た。雪の降る朝という事もあり、外には数人しか居ない。その中で、剣一は久々にあの感覚に襲われた。

 『周りが…見える…龍さんと初めて対峙した時と同じだ!』

 剣一の背中に、気温とはまた別の、何かが走り、声が聞こえて来る。

 「良いな、合図は一発。後、各々果たせ」

 「先に森殿が供頭を襲う。機を逸するな」

 「噂に聞く岡田殿が、天下は春に回天すると言っていた。我らが口火を斬るぞ」

 しまった…自分の存在が、時代に影響を及ぼし出している。そう感じ、剣一は戸惑った。自分の居る事で、歴史が変わってはまずい。

武市は各藩の志士と繋がっていたのだ。土佐勤王党の早期発足と暴走を食い止めるだけの筈が、その噂は既に時代の陰で動き出していた。

 『この襲撃を止めるべきか、否か』

 拳を握り悩んでいる内に、平伏す一人の侍が護衛の先頭に居る者に斬りかかった。

 「曲者じゃ!襲撃じゃ!」

 護衛の侍達は、供頭に襲いかかった暴徒に向かって行った。が、更に爆発音が鳴り響く。平伏す侍の中の一人が、駕籠に向かって発砲したのだ。乾いたその発砲音を合図に、20人程の侍が一斉に飛び出して来た。護衛に付く侍は15.16名。しかも、雪の日で合羽を掛け、刀の柄は袋を掛けて雪から守っている。その袋を外すのに手間取っている間に、次々に切り捨てられる。

 純白の雪に広がる、鮮血。誰の物かも知れない指や耳…。地獄のような光景に、佐那は体が震えて動けない。

 ただ一人、護衛の中でも冷静だった男が、柄袋を取り、合羽を脱ぎ捨て奮闘している。剣一は、弾かれるように上着を脱ぎ捨て、地獄絵図の中に飛び込んで行った。

 「剣一殿!」

 声にならない小さな悲鳴を発した佐那は、その場を動けず、ただ涙を流した。


 「助太刀!」

 そう叫ぶと剣一は柄に手を掛け、残りの襲撃犯十人と睨みあいながら、護衛の生き残りの男と背中を合わせた。

 「有難い、こちらの助太刀か!」

 護衛の男は、もう一振りの刀を抜き、二刀構えを見せた。

 「拙者、河西忠左衛門と申す。助太刀感謝致す」

 しかし、剣一に名乗る気持ちは無い。

 「名など、とうに捨て申した。助太刀は武士としての魂にて!」

 そう叫び、襲撃犯を睨みつつ、腰を落とす。

 「退け、無用な屍を晒す必要は無い!」

 「何を言うか、そちらは既に二名を残すのみ!我らは世の為の粛清を行う者、退くのはお主等である!」

 いよいよ斬るしかないか。そう腹に言い聞かせるように唾を飲み込んだ。

 「河西殿、駕籠の中の御方を頼みます」

 「何…?」

 そう言うと、剣一は殺気の中に足を向け、ジリジリと動いて行った。

 あの感覚が全身を包む。周りの風景全てが頭の中に流れ込む。

 「抜刀術か、面白い」

 一人がそう呟き、左からすぐさま斬りかかって来る。同時に正面の男も斬りかかる。

 剣一は一歩下がり、二人の初撃をかわした。左の男は、すぐさま態勢を変え、右に向けて斬撃を放つが、剣一は下がると同時に抜刀しており、鎬で斬撃を受ける。そのまま斬撃の勢いを利用した剣一の刀は、上方に敵の刃を弾き飛ばし、右肩から腰に渡り袈裟に斬り降ろす。同時に、正面に居た敵の腹を、一文字に斬り裂く。鮮血が一瞬にして吹き出し、足元の雪を染め、襲撃犯2名は肉の塊となりそこに崩れ落ちる。

 一呼吸で二人を倒した剣一。そして襲撃には時間が掛かり過ぎると判断した残り八名程は、散り散りに逃げて行く。

 「助かり申した」

 河西は丁寧に頭を下げ、駕籠の扉を開けた。

 「ご無事ですか、伊井殿。賊は数人逃げましたが、顔に覚えが在ります故…」

 そう言うと、河西の顔色が変わった。

 「伊井殿!大丈夫でございますか!」

 剣一は駕籠を覗き込んだ。

 この伊井と呼ばれる男は、腰から太股にかけて怪我をしているように見える。

 「あの銃撃に…」

 蒼白となった河西の顔に、涙と怒りが見える。

 「拙者は大丈夫だ。歩くは困難だが、急所は避けておる。残った護衛は…お主だけか…」

 「いえ、助太刀下さった御方が一人…」

 駕籠の男は、河西の背後に居る男に目を移し、

 「よく闘ってくれた…後で褒美を取らす」

 剣一は険しい表情で、この駕籠の中の男に、

「褒美より、ここで貴方を護って討ち死にした侍達に、お言葉一つ無いのですか?」

 そう言い放った。

 駕籠を中心にした周りには、雪の積もった美しい光景とはかけ離れた物がある。

 白銀の世界に、赤く染まった一帯があり、襲撃の際に巻き込まれる物かと、町民たちは屋敷に隠れ姿は無い。ただ、十数体の動かない侍達が横たわっていた。

 「我が身さえ安泰なら、全て許容ですか」

 「無礼だぞ、例え大老を命懸けで護られたお主でも、無礼である!」

 「大老…?」

 「くはは…お主、拙者を誰とも知らず、命を掛けて闘ったか…」

 腰を押さえ、苦痛に耐えながらも、駕籠の中の男が笑った。

 「大老…伊井直弼殿…?」

 「そうだ!無礼にも程がある!」

 「良い、河西よ…。我を知らぬ上、命まで救われた身。咎めるな」

 伊井直弼…その名を聞いて、周りを見渡した。

 「桜田門…か!」

 剣一は、決定的なミスを犯した事に気付いた。桜田門外の変で、幕府大老である伊井直弼は暗殺され、この先に尊王攘夷と呼ばれる活動が活発化して行く流れが、剣一が死守した影響で、伊井直弼は生き永らえてしまう結果となった。

 『この場で切り捨てるか』

 この二名、油断している侍と、手負いの大老…暗殺する事は容易。

 剣一の中に、黒い何者かが蠢く。

 「剣一殿!」

 その声で我に返る剣一。そこには、涙を流しながら駆け寄る佐那の姿があった。

 「ご無事ですか?お怪我はありませぬか?」

 そう言いながら、剣一の体を触る佐那。

 「ええ、大丈夫ですよ」

 すっと表情が元の剣一に戻る。

 「剣一…と、申すのか」

 伊井は、剣一を見ながら口を開いた。

 剣一の名前を残すのはマズい。そう咄嗟に判断した剣一は、

 「いえ、今は名を変えています」

 「ほう…何と申すか」

 覚悟を決め、剣一は口を開いた。

 「岡田以蔵…」

 「え!?」

 佐那は驚きを隠せない。

 「佐那さん、事情は後で話します」

 「岡田…あの岡田以蔵か!」

 河西は柄に手を掛けた。

 「この春に、何か良からぬ事が起きると予言めいた戯言を発し、陰で混乱を誘い込もうと企む賊め…何故大老に近付いた!真意を申せ!」

 河西は駕籠の中の伊井を護ろうと、駕籠を背中に合わせて抜刀する。

 「何も企ててはおりませぬ。先の安政の大獄以来、政局が不安定になっており、この年の春を機に、何か大きな動きがあるのでは…との予測を立てていただけの事。それをどう解釈されようと、私の

意にございません」

 その言葉を聞き、駕籠の中の伊井は、また笑いながら剣一…いや、以蔵に聞いた。

 「幕府か、朝廷か…あるいは第三の権力者か。武器を持つ事を知らぬ朝廷に、列強諸国と渡り合い、かつ平静を保つ力があるか。従来の幕府に、今の世の不安を掻き消す威光はあるか。どいつもこいつも、ただ権力を道具としてしか見ておらん。その歪んだ考え故に、列強を恐れる。今は、ただ我慢するのだ。いずれ、この国は大国となる」

 「圧政を敷いて、逆らう者を投獄、斬罪してまでも、ですか?」

 「とにかく、拙者をどこかに移して貰えはせぬか…」

 傷口の手当も、防寒も万全では無い状態。

 「改めて、江戸城を訪れよ、お主とはもう少し話がしてみたい。

その時は、奥方も…」

 「お…奥方?」

 佐那は顔を真っ赤に染め、剣一の顔を見上げた。剣一は、そんな佐那を見つめ、微笑んだ。

 しかし、剣一はその言葉に甘えるつもりは全く無い。そして、頭を深く下げ、佐那を連れて後ろに下がり、雪を避けて平伏した。


 「岡田殿、奥方、いずれ、また」

 その言葉を最後に、襲撃の知らせを聞いた城の者によって、城内へと入って行った。

 剣一は、この時から岡田以蔵と決定的になり、その袖には、龍馬と思いを通わせる筈の佐那がしがみついている。

 その後、伊井直弼は傷口が元で大老を退き表舞台から去った。安政の大獄で投獄・隠居に追い遣られた者達は、その後に処罰から解かれる事になる。

 表の歴史自体に、ほとんど変化は無い様に感じられるが、以蔵にとって、もはや知り得る歴史では無く、止めようの無い惨劇へと足を踏み入れてしまう事件となった。


 桜田門外にて、以蔵が伊井直弼を救った噂は、大きく歪んだ英雄譚として広がっていた。


 「桜田門外で大老、伊井直弼を救い、数十人の刺客を切り捨てた英雄」

 「いや、そこに居た全ての者を切り捨て、大老に手傷を負わせた挙句、失脚にまで追い遣った人斬りの策略家」

 岡田以蔵は、幕府の英雄と人斬り、策略家の顔を併せ持った、修羅として噂されるようになり始めていた。


 その噂は、土佐にも鳴り響いていた。

 「やりおったな、岡田殿!」

 「まさか大老を失脚させてしまうとは、龍馬も想像できちょらんかったがやろ!」

 廃屋の中では、酒を手に取りながら、大勢の郷士が祝杯を挙げていた。

 「まぁ、噂半分としても、岡田殿が何かしらの切っ掛けを作ったっちゅうがは本当じゃろうな。まっこと驚いたぜよ」

 龍馬は、剣一が大老を『斬らずに』改革の糸口を掴んだ事を、大いに喜び、同時に自信を付けていた。

 「今、この時を以って土佐勤王党の発足とする!」

 武市の元に集まった郷士達は、尊王攘夷派としての組織を作り、土佐藩内部での活動を行う事となった。その切掛けは言うまでも無く以蔵の桜田門外での活躍だった。

 無血とは言い難いが、幕府要人を切り捨てる事無く失脚させ、政策を転換させた事は、土佐だけではなく、各藩の志士達の士気を大いに高めた。刻は既に春を迎える準備が済んだ、南国土佐。

 その陽気もあって、この廃屋の祝杯は盛り上がり、朝から夕刻まで続いていた。

 「…ちょっと盛り上がりすぎじゃないかい?」

 突然廃屋の戸が開けられ、中に声を掛ける男。その横には旅衣装に身を包んではいるが、育ちの良さそうな女性も連れている。

 「な…何者ぜよ!」

 志士達の数人が、素早く刀を抜く。

 「答えによっては斬る!」

 「そうじゃ、ワシら勤王の志士じゃ、役人じゃろうが怖い事ありゃせんぞ!」

 そう息巻く数人を呆れ顔で見ながら、

 「斬り掛かるつもりなら、口上の前に斬り掛からないと…本番ならその首は胴体に乗って無いよ」

 「なんじゃと、おんしゃあ!」

 「やめんかい」

 口論を龍馬が止める。武市は奥で酒を呑みながら愉快そうに笑った。

 「おんしゃあ、人が悪いのお」

 「武市さん、お元気そうで何よりです」

 「武市先生、知りあいですか?」

 一同が武市を見る。既に先生とまで呼ばれるほど人望が厚く、上座に座る党首は、龍馬を見て顎で返答を促す。

 「武市センセは、説明もできん程酔うちょるがか。仕方無いの…そのお人こそ、今志士を奮い立たせちゅう英雄、岡田以蔵大先生じゃ」

 龍馬は大袈裟に両手を広げ、志士達を煽って見せた。当然、今最も輝く英雄を目の当たりにした志士達は、一気に熱を上げて行く。

 「龍さん、煽りすぎですよ」

 その声も歓声に掻き消され、以蔵と連れの女性は武市の隣、龍馬との間に招かれた。

 「岡田殿、連れの女子は…何か見た事あるがやけど…」

 武市は目を細めて女性を見つめる。

 「センセは女子にはさっぱりじゃの、千葉道場の佐那さんじゃろ」

 「おお、あの娘さんかえ! 二人で旅行気分かえ、羨ましいのお!」

 「そんな良い物じゃ無いですよ。桜田門での一件で、佐那さんも私と一緒に居たんです」

 「何と、女子を連れての襲撃かえ! どんな策略を練ったがか!」

 武市は、その策略という噂が気になって仕方が無い。剣の腕は立つが策略家としてその後に暗躍する血が騒いでいる。

 しかし、以蔵はその興奮を抑え込むように、

 「策略じゃありませんよ。まあ、その話しはまたいずれ…。とにかく、私達二人は夫婦として土佐に来た事にして下さい」

 と、集まった郷士達の士気を落とさないように話しかける。

 「佐那さんも一緒に居たっちゅう事は、何かしら狙われる可能性があるきの…ほとぼりが冷めるまで、夫婦で全国を放浪かえ」

 龍馬は冷やかすように言った。

 「何を言われても、私は平気ですよ。もう夫婦になりましたから」

 愛嬌良く笑って、龍馬をふふんっと鼻であしらう。

 「なんちゃ…つまらん。冷やかし甲斐も無いぜよ」


 時は遡る。桜田門での事件直後の江戸。

 「佐那さん、私達も戻りましょう」

 死体の山を見て、改めて感じる地獄。動揺して震える佐那の腕を取り、ゆっくり千葉家までの帰路に着く二人。惨状を目の当たりにした佐那は、武家の女と言えども足元は覚束ない。しかし、人を斬った高揚感と緊張は、恐怖という感覚を取り上げている。以蔵は肩を抱き寄せ、抱えるように歩いている。幸い、人通りは殆どなく、行き交う人も佐那の足取りから病人と思うらしく、反応も殆ど無い。

 そんな二人が、路地に差し掛かった時、以蔵はまた例の感覚に襲われる。

 『刺客か…先程の暗殺を邪魔された仕返しか…。血の螺旋、ここに極まるって感じか』

 斬れば斬るほど、恨みが増える。恨みが増えればまた斬らざるを得ない。そうした螺旋に巻き込まれた以蔵は、既に剣一とは相容れない世界に足を踏み入れてしまっている。

 『例え襲って来なくても、このまま屋敷に戻る事はマズイな』

 路地から何事も無く抜けた以蔵は、佐那の肩を抱き、開いている茶店に逃げ込む。まだ気配は無い、という事は、ここに居る事はばれてない。

 「ご主人、甘酒を一つ」

 そう言って、以蔵は佐那に話しかけた。

 「良いですか、甘酒を呑んで、体を温めて下さい。そうすれば少し落ち着きますから。私は表の様子を見て来ます。少し、帰って来るまでここで待っていて下さい」

 佐那は、心細げな眼ではあるが、コクっと頷いた。以蔵は、優しく微笑んで、ゆっくり表に出た。追手の気配はまだ無い…諦めたか…? そう思いながら、先程の路地に入った。

 『居る…三人…四人』

 感覚が研ぎ澄まされ、全身が焼け付く様にピリピリする。

 「見失ったと思っていたが、戻って来てくれるとはな」

 「安心しろ、わざわざ追い掛けて来てくれる人を、敢えて無視する事はせん。四人で良いのか?」

 「驚いたな、人数まで知られておったか」

 「先程の憂さ晴らしでもしに来たか?」

 「…まぁ、そんな所だ」

 狭い路地の正面から二人、背後から一人、以蔵を挟んでいる。

 「伊井直弼を護った、という事は、我々の敵。貴様も粛清せねばならん」

 そう言いながら、ゆっくりと正面の男は鯉口に左手を掛けた。その瞬間、以蔵は左手で鞘ごと、帯から太刀を抜きつつ、水月に柄尻を撃ち付けた。同時に右手で柄を握り、左手で鞘を引き抜刀しつつ、後ろに向き、切先を後方の敵の喉元に突き付けた。

 「狭い路地だと、有利だと思ったか?」

 後方に居た男は、抜刀準備すら出来ておらず、ただ神速とも言える抜刀術に目を開いて立ち尽くしている。

 「追って来なければ、斬らずに済んだ物を、お主等は自ら敵を作り、死を招いている事が分からんのか」

 以蔵は怒りを表に出した。

 その瞬間、水月に一撃を喰らった後方の男が抜刀しようと体を起こし、再度柄に手を当てる。

 「馬鹿者…」

 以蔵が呟きながら、正面で立ち尽くす男の太刀を抜き、振り返りながらその太刀で後方の男の頭蓋を両断する。大量の鮮血が吹き出し、路地は一瞬にして紅に染まる。

 以蔵はその太刀を、横の板塀に深く刺し、再び振り向き後方の男の小太刀を抜く。

 「斬り合いの最中に、何をしている」

 そう言いながら、小太刀でその男の腹を深く突き刺し、地面に引き倒した。

 残る気配は二人…一人は頭蓋を割られた死体の背後で、抜刀している。一人はまだ姿を見せていない。

 「そいつが邪魔で踏み込んで来れないか」

 壁に刺した太刀と、その下に転がる死体が、踏込みの邪魔をしている。

 「路地に入り闘うなら、前後が連携して斬り掛かって来ないとな」

 壁に刺した太刀の柄を掴み、刀身を折る。そのまま残骸を地面に投げ捨て、納刀する。

 「ここで腹を斬れ」

 その言葉に、男は体が硬直した。

 「貴様が腹を斬らねば、私が両断する」

 静かに摺り足で、死体を避けながら近寄る以蔵に恐怖し、男は後ろに下がる。

 「名は…何と申される」

 「死にゆく者が、聞いてどうする」

 「其の方程の腕前、武士として死ぬなら、聞いておきたい」

 「もう一人、居るだろう? そいつは死ぬ気なんか無いだろう」

 男の顔が強張った。次の瞬間、男は以蔵に跳びかかった…太刀を捨て、捨て身で跳び掛かり、体を抑えようとした。

 その背後から、最後の男が姿を現し、仲間共々串刺しにする様に、突きに出た。

 「正気の沙汰か!」

 以蔵は跳び掛かる男を思い切り蹴飛ばし、後方に弾き返した。その勢いで以蔵も後ろに倒れ、蹴飛ばされた男は、背後から来る太刀に腹を貫かれた。

 自らの太刀で仲間を貫いた男は、死体の下敷きになり、そこから這い出している。

 以蔵はすぐに立ち上がり、自らの太刀を引き抜いてその男の首筋に刃を立てた。

 「伊井が居る以上、泰平は成らぬ!」

 その男はそう言った。

 「伊井を斬り、天下がどうにかなるか」

 「我ら同士が事を成すわ」

 「志は、誰かが引き継ぐか…。捨駒となる覚悟か」

 「それが大義の為ならば!」

 そう言うと、自ら以蔵の刃を取り、首を掻き切った。

 その路地には、以蔵と四人の屍がある。以蔵は斬り合ったその死体の真ん中に立ち、長かった緊張が解かれる。

 「人を…斬った…」

 何度もそう呟いた。

 太刀が手から落ち、雪の上に転がる。桜田門で、そしてこの路地で、間違いなく人を斬った。そして、今に至っては正しく人斬りの精神状態であり、頭には『斬る』としか意識が無かった。桜田門外

で、人を助ける為にという意志で立ち向かっていたが、そこから今に至る間に、人を斬るという感覚が麻痺し、鮮血を何とも思わない自分が顔を出していた。

 以蔵は剣一の顔に戻り、体の芯から震えが来た。血の気が一気に引き、涙が一気に溢れ出る。その場に座り込み、体を動かす事ができなくなった。周りを見れば、自分が切り捨てた者達が、何の感情も持たずにただ転がり、雪がそれらを覆うように降り続く。全てを覆い隠すように、剣一の感情も、次第に無くなって行く。無情の時は、ゆっくりと過ぎて行く…。


 どれ位の刻が流れただろう。茶店では、気分が落ち着いた佐那が、不安になりながらも剣一の帰りを待っていた。しかし、一向に帰って来ない。そろそろ昼も近いであろうと思われるが、街には人気が

無く、無気味な程静まり返っていた。

 不安に駆られた佐那は、代金を支払い剣一の姿を探しに出た。店を出て、辺りを見回す。嫌な予感が頭から離れない。

 『あの時の路地…』

 直感的に、剣一が何かに巻き込まれているなら、そこしか無いと浮かんだ。

 雪道を急ぎ、路地に辿り着いた佐那は、声が出無かった。

 そこには雪に隠されそうになっている鮮血と、五人の体が倒れている。その中に、自分が想いを寄せる男の姿がある。絶望と恐怖が押し寄せ、佐那は剣一に走り寄り、積もった雪を払った。

 「佐那さん…」

 生気を失った剣一の目は、虚ろに佐那を見る。

 「剣一殿、御無事でしたか…」

 佐那は、涙を流しながら、声を絞り出した。

 「大丈夫です、大丈夫です、剣一殿」

 何度もそう言いながら、剣一の体を擦るが、剣一の反応は無い。怪我は無いが、瞳に光は無く、何処かを見つめている。

 佐那は、そんな剣一を見るに堪えなくなり、胸に顔を圧しつけて泣いた。声を殺して…。

 そんな佐那の肩を、剣一は抱き締めた。目に光は戻っていないが、フラフラと立ち上がり、佐那を抱き上げて、

 「ここから去りましょう」

 そう言うと、路地から出て、民家の納屋に逃げ込んだ。

 「僕は、人を斬りました」

 雪を避け、風も通らない場所で少し生気が戻った剣一は、震えながら佐那に言った。

 「六人も、人を斬りました」

 そう口にすると、震えが止まらなくなった。

 「僕は人斬り、人斬り…」

 何度も呟く剣一に、佐那は涙を堪えて近付き、大きく平手打ちをした。

 「何です、男のくせに…侍のくせに!」

 突然の平手に、剣一は茫然とした。

 「人を護る為の助太刀、自分を護る為の斬り合い、それは貴方が、好まざるとしても、自ら選んだ道でしょう!それをしなければ、御自分が斬られていたかも知れない、大事な方が斬られていたかも知

れない、貴方は侍です!その魂によって、闘ったのです!」

 震えながらも、剣一を叱り飛ばした。

 暫く沈黙が続いた。その沈黙の中、剣一は考え込んでいた。

 『僕がこの時代に来て、岡田以蔵となり、伊井直弼を護った。そして、その伊井を斬る事で、恐らく死罪となるはずの男達を斬った。歴史は変わったのか? 僕は変わったのか?』

 自問自答しながら、答えを探そうとした。

 「剣一殿は、以蔵と名前を変えたようですが、私はどちらでも構いません。貴方は貴方です」

 佐那は、剣一に諭すように話し始めた。剣一も、その言葉で少し救われた気がした。

 「貴方は確かに、今日人を斬りました。しかし、それが何です? 貴方はいつも仰ってるではありませんか。天は回ると。激動の時代がやって来ると」

 「佐那さん、聞いていたんですか?」

 「心配だったのです。剣一殿…以蔵殿がどこか遠くへ行ってしまわれるのでは無いかと」

 「佐那さん…?」

 「お慕い申しております…」

 「…」

 「以蔵殿は、天下の為に尽くす御方です。私には分かります。何か天命があり、この世に降りられた御方なのです」

 剣一は何かの間違いだと思っていたのかも知れない。この時代に来た事を。

 覚悟を決めたつもりで、以蔵と名乗ってはみた物の、人を斬った事で剣一という平成の人間に戻っていた。今の事実を受け入れられないでいた。その中途半端から、今回の歴史の混乱を招いてしまったのだ。

 「佐那さん。私は、岡田以蔵です」

 目に光が戻った。

 「私は、私の思うままに、自らの正義の為に生きて行きます」

 覚悟は決まった。それは人を斬る覚悟では無い。時代を、歴史を見守る決意だった。

 「屋敷までは遠いです。お着物を乾かしましょう」

 佐那はそう言って、納屋にある物をかき集めて火を付けた。

 「大丈夫かな…ここ、燃えない?」

 「大丈夫ですよ、恐らく」

 驚くほど楽天的ではあるが、以蔵にはそれが有難かった。二人、火に近付き寄り添う。感情を同じくした、想いを通わせる二人であれば、必然的にそうなるように、二人は結ばれた。


 一刻程、お互いの肌で温もり合った二人は、乾いた着物を纏い外に出た。

 「雪も止みましたね」

 「以蔵殿、そのような言葉遣いはもう…」

 「あぁ、そうか」

 二人は小千葉道場に向かい歩いて行った。


 「佐那!何をしていた!」

 重太郎が佐那を叱りつけた。

 「重太郎さん、私が散歩にお連れしたんですよ。佐那は悪くありませんから」

 「しかし、昼も過ぎています!昼食は…」

 「兄上、そのような事で怒鳴らないで下さい!」

 「佐那もちょっと落ち着きなさい」

 「佐那? 剣さん、今佐那と呼び捨てた?」

 「あ、いや」

 返答に困る以蔵に、重太郎は畳み掛ける様に以蔵に問いただす。

 「とうとう妹を貰ってくれる決心ができたのかい? これはめでたい! 父上、父上!」

 「ちょっと、重太郎さん!」

 その夜、千葉家では祝いの席となった。しかし翌日、大きな知らせが舞い込んで来る。


 「岡田以蔵と名乗る剣豪が、幕府大老伊井直弼の命を護るも、褒美を断り一人の女子と共に、雪の街に消えた。大老はこの剣士を見付け、褒美を取らせるとの事」

 「倒幕を目論む連中は、岡田以蔵を危険分子として、見付け次第切り捨てる」


 この二つの話しを持ち込んだのは、千葉の門下生であり、大きく江戸の町に流れている、との事だった。

 以蔵の居る部屋には、佐那も共に朝を迎える事となった。こうなる以前から、二人を結ばせようとしていた千葉家にとっては、そうなる事が当然、とばかりに部屋に二人を押し込んだのだが…道場でその話しを聞いた以蔵は、重太郎を部屋に呼び、そこに居た佐那と三人で話しをしていた。昨朝に巻き込まれた桜田門外での事件、そこで以蔵という男に間違われ、巻き込まれたと誤魔化し、その後、犯人の残りに追われた事を説明した。

 「驚いたな…剣さんが以蔵に間違われたか」

 「ええ…まぁ成り行きでそう名乗っただけですが」

 「しかし、私も見たかったな、その賊を切り捨てる雄姿を!」

 「勘弁して下さいよ…人違いとは言え、英雄と危険分子、両方の顔を持ってしまったんですよ?」

 「そうか…暫く大人しくしていた方が良いな。身を隠して、外に出ない方が良い」

 「しかし、剣豪となると片っ端から江戸の道場を当たりに来ませんか?」

 「そうか…そうなると厄介だな」

 「私は、暫く江戸を離れます。土佐にでも戻り、龍さん達に匿って貰います」

 「ああ、それが良い。佐那も安心だろ」

 「ええ、知らない所に行くより、龍さんの所でしたら私も気兼ね無くお世話になれます」

 「え?」

 「は?」

 以蔵と重太郎は同時に佐那を見た。

 「だって、岡田以蔵と『女』でしょ?私も顔を見られている以上、安全とは言えませんし、主人と居る方が安心です。ね、あなた」

 「主人と来たか! こいつは良い!」

 「佐那、ただの旅行じゃ無いんだよ?」

 「私も武家の娘ですよ。善は急げ、出立の準備をして参ります」

 佐那は忙しく部屋から出て行った。

 「剣さん…諦めた方が良いよ、佐那は止められないから」

 そう言いながら、重太郎は笑った。

 「剣さんや龍さんが付いてるなら、佐那も安心だよ。頼むよ。でも…」

 そう言うと、重太郎の顔は変わり、以蔵を睨みつける。

 「剣さん、妹になにかあったなら、私が斬る」

 「…護ってみせます」

 そう以蔵が答えると、重太郎はニっと笑い、

 「父上達には、婚儀の報告と、藩への届を土佐で出す為に帰郷する、と伝えよう」

 重太郎は部屋を出た。

 残された剣一は、太刀を眺める。

 『この先、何人斬る事になるのか…いつまで生き残れるか』

 とにかく、大政奉還にまで漕ぎ着ける為に、できる限りの策を練る事を決心した。


 翌日、二人は土佐に向かって出立する。

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