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維新の剣  作者: 才谷草太
避けられぬ戦へ
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武市瑞山の死

 この先の戦が始まる前に、土佐に場所は移る。

 時は更に遡る事になるが、文久三年…慶応元年となる二年前の事。

 この土佐で、かつて『岡田以蔵』の名を使い策略を繰り広げようとしていた武市瑞山(半平太)の話しである。


 文久三年頃に、土佐勤王党の平井収二郎を始めとする数名の志士が、皇族である「青蓮院宮」からの令旨を盾に、土佐藩政の改革を断行しようとしていた。公武合体派であった山内容堂は、土佐勤王党が次第に邪魔になり、他藩士との政治交際を禁止する通達を出していた最中の事だった。

 内密に進められていた計画だったが、この策略が「青蓮院宮」本人から容堂の耳に入れられる事となり激怒。平井収二郎達は罷免され、土佐に強制送還、投獄される事となる。


 同年三月、山内容堂は京より土佐に戻り、吉田東洋暗殺計画の下手人捜索を開始する。それと同時に、土佐勤王党に同情的な人物等を、藩政から罷免。徹底した捜索と改革を行い始めた。

 翌四月、武市瑞山も土佐に帰郷。久坂玄瑞等は帰郷を止め、長州に脱藩・亡命するように薦めるが、瑞山はこれを拒否。帰国した後、容堂に平井収二郎達の助命を求めるが、六月八日に切腹する事になる。


 それでも瑞山は、容堂に喰い下がり国勢を説くが、一向に聞き入れられない。


 容堂自身、武市瑞山という男を買っていた。郷士から上士となり、頭も切れる。しかし思想の違いから、その手の話しは一向に聞こうとはしなかったのだ。


 しかし、瑞山の運命もこの年の八月に起こる、八月十八日の政変で一変する。

 京の中央政界から長州藩が失脚したのを皮切りに、勤王派勢力は一気に衰退。変わって会津藩等の公武合体派の勢いが増したのだ。更に大和国で土佐脱藩浪士による『天誅組』が挙兵するも、九月には壊滅。時勢は公武合体派に優位になっていた。

 そして九月二十一日には土佐勤王党幹部に逮捕命令が出され、瑞山は遂に投獄される事となる。


 獄中の瑞山は、まだ捕まっていない同志を思い、瑞山と同じく投獄されている同士や、面会に来る家族を通じて、軽率な行動を取らぬように、と連携を図っていた。それでも翌年七月には土佐の安芸郡で、武市瑞山の釈放を要求して清岡道之助等が挙兵。足軽八百人を動員しての鎮圧戦にまで発展し、九月に斬首刑となる。


 瑞山以外の志士達が次々と拷問を受け、死罪になり、時は過ぎて行った。


 慶応元年五月。遂に武市瑞山に「東洋暗殺未遂」の罪名が付く事は無くなる。彼への罪状は、「君主に対する不敬行為」。

 上士となっていた瑞山は切腹を許され、五月十一日に執行された。

 その切腹は、腹を三回斬り付ける「三文字の切腹」として気概を見せ絶命。享年37歳。



 「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」



 武市瑞山の辞世の句である。


 彼の死により、土佐勤王党は壊滅。生き残った者達の一部は、その生き場所を龍馬に求め、亀山社中に参加する事になる。



 後年、山内容堂は瑞山を切腹させた事を悔い、病床にあっては「半平太、許せ…」と、何度もうわ言を言っていたと伝えられている。


 慶応となり、龍馬と共に道は違えど、国の将来を想い奔走していた志士の魂が一つ、潰えた…。

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