薩摩説得
時はまた更に遡り、元治二年1月28日、西郷は人の勧めにより薩摩で婚礼の儀を行い、その後、福岡に赴き第一次長州征伐後の長州五卿の待遇問題を解決すべく奔走していた。
ちょうどその頃、中岡慎太郎は西郷と行動を共にしていた。
「確かに兵糧は不足しておいもんが、長州は米を出してくれもすか? 先の征伐戦で、薩摩は長州の敵になっておいもす。先に米の受け取いをしたか」
薩長盟約に先駆け、銃器と米の交換といういがみ合っている両藩の駆け引きが、既に繰り広げられていた。そう、西郷自身この盟約には乗り気であり、推し進める必要性は高いと感じてはいるが、今現在としても先の長州戦での後始末に追われている中で、そう簡単に長州が首を縦に振るとは思えないでいた。
「長州では、昨年暮れに藩政改革が行われています。既に先の戦の傷を癒し、来る次戦の準備に掛かっています。更にあちらでは坂本殿が桂小五郎・高杉晋作を説得しており、恐らく意思を翻す事は無いと思われます。更に、この時期に米を出せと言われ、蓄えの減っている春先の米を出せると御思いですか?」
相変わらず土佐訛を隠し、流暢に話しかけている。
「つまい、銃器が先と言とうですか?」
西郷の表情からは、先に出してなる物かという気持ちが窺える。
第一次長州征伐戦で敵同士だった両藩。そして今まさにその処遇で奔走している西郷にとって、長州が折れるとは考えにくい事だった。その脳裏には、先の戦の仕返しとばかりに、武器だけを騙し取られ、大きな敵となる可能性が浮かんでいた。
中岡はその西郷の表情から不信感を感じ取り、
「西郷殿。拙者は土佐脱藩者であり、長州庇護の身。更に禁門の変、下関での戦に長州藩士として参戦しました。蛤御門では薩摩藩と敵対し敗戦、下関では諸外国と争い敗戦。その様をこの目で見ており、従来の戦では諸外国には勝てぬ事を痛感しております。今戦うのは外国ではありません。また、藩同士でもありません。各藩が力を合わせ、弱体化している幕府から政権を奪い、強い国に変える事が先決なのです」
そう持論を展開し、倒幕意思を語った。
「幕府を倒す、ちゅう共通の意思があう…ちゅうこっじぁなぁね? そいどん、長州が裏切った時はいけんしやすか?」
「西郷どん…信じてみては如何です? 坂本殿と中岡殿の事は信じられうでしょう?」
暫く口を閉じていた男は、西郷に諭すように言葉を挟んだ。
「大久保どん、そん先にあっとは朝敵です。易々と信じてはおい達も朝敵と…」
「長州が朝敵となった事は、幕府から政権を奪い、朝廷に返上するが為の行為。その事を良しと思わない政敵が画策し、朝廷自らが長州を敵とみなした事が発端となっております」
長州藩士として数々の戦に加わっていた中岡は、強く反発する。
「今まさに、思想が思想を敵とし、本来味方であるべき者達を敵とし、互いに命を削り合っています。西郷殿、大久保殿、思想では無く、人を信じて見て下さい。私と、そして坂本という男を」
「小松どんも言ていたわ…坂本はおもしとか男だと。おいどんは余り面識はありもはん…そいどん、信頼でくう男だと」
大久保利通は、かつて小松帯刀が在京中に懇意となった坂本龍馬の話しを思い出していた。もちろん西郷は龍馬と懇意であり、長崎での浪士結社援助を小松が進めている事も承知している。
西郷はしばらく腕を組み、深く考え込んだ。
長州との交易を推し進め、薩摩藩に米が入れば士気が上がる。更に、恐らくその先にあるのは薩長の同盟。長州奇兵隊や、それを指揮する高杉晋作の手腕は評価している上に、桂小五郎の政策能力も高く評価できる。後々長州を味方に引き入れれば、この先の倒幕運動は一気に加速するだろう。
今ここで長州に武器を流し込み、その奇兵隊を育て上げる事に成功すれば、陸路の先鋒として幕府軍の侵攻を長州で食い止める事も可能となる。それにはまず、朝廷を策に巻き込む必要がある。
「分かり申した。同盟は後に置き、銃器を薩摩名義で購入し、長州に流す事は進めてくいやんせ。長崎の小松どんには、おいどんから知らせておきもす。薩摩の立場から、同盟には幾分手回しが必要になり申す。しばし猶予を頂きたい」
その西郷の言葉に、中岡は深々と頭を下げ、
「では、拙者はこれより京に上り、薩長を裏から援護する浪士結社設立に向け、坂本の手伝いを致します」
その言葉に西郷は目を丸くした。
「坂本さぁは、浪士結社をそんよな目的で作い上げたのか…。まこて、計い知れんごつ男なあ」
龍馬の長州説得に先駆け、中岡は西郷との約束を取り付けて京に向かった。