回天
「剣さん、準備はエエかや」
「龍さん、名前は…」
「あぁ、そうじゃった。ほいたら打合せした通り、行こうかの」
「お願いします」
二人は剣一が寝起きしている客間で深呼吸した後、母屋の玄関に向かった
そこには身形のしっかりした青年と、佐那が立ち話をしている。
「あ、佐那さんちょっと…」
剣一が佐那を手招きで呼び付け、耳元で囁く。
「これからちょっと大事な話があるので、客間には誰も近付けないで下さいね」
必要以上に近い顔に、佐那は顔を赤らめながらも、コクっと小さく頷く。
「ほいたら武市さん、こっちに」
武市は佐那に会釈をし、帯刀していた刀を外して右手に持ち替えると、
「では、失礼」
しっかりとした口調で挨拶を言う。想像していたよりも太い声を発した為、剣一は少し違和感を感じた。
「…何か?」
「いえ…あまり訛りが無いもので」
「土佐者ですが、江戸言葉は分かってます」
「流石じゃの、武市さんは。ワシはまだ土佐訛が抜けちょらん」
「龍馬は直す気が無いだけじゃろ」
土佐訛で答えた武市は、しまった、という表情で剣一を見る。
「大丈夫です。土佐の言葉はわかります」
少し微笑んで、武市に応えた。
三人は客間に三角になって座った。
「武市さん、土佐ではどうなってたがか?」
「亜米利加に攻め込まれるっちゅう噂が広がっちゅう。幕府が開国するっちゅう話も広がって植民地になるゆう噂まで出ちゅう」
「清国の二の舞かや」
「ああ。何でも亜米利加との友好関係を取り付けた後は、今度は貿易しろちゅう話しらしいぜよ」
「武市さん、植民地になってしもたら、ワシらどうなるがか」
「侍なんて邪魔なモンは、徹底的に処刑されるち」
「処刑!わしゃ殺されるがか!」
「貿易をして、亜米利加の言う事を素直に聞いておったら、ワシら侍なんぞ用無しじゃきの…。国力も衰退するがぜよ」
「ほいたら、どうしたらエエがか? 敵と交易して、騙されるのを見とるしか無いがか?」
「誰が敵って決めたんです?」
武市と龍馬のやり取りに、冷静な剣一が口を挟む。武市は、その男の素性を知らぬ事に気付き、
「おまん…」
素性を改める為、剣一に問いかけようとするが、龍馬がそれを遮る様に剣一に聞き返す。
「亜米利加ぜよ、あげな船に乗ってワシらを威嚇しに来ちゅうがよ」
「大砲でも打って来たかい? それとも何人か殺されたかい?」
「いや、そげな話は聞いちょらんが…」
「安政元年、日米和親条約が結ばれてる…だろ?」
「どれもこれも、亜米利加に有利な条約じゃ。和親なんぞ、名前だけちゃ!」
武市が声を荒げた。
「燃料、食料の補給。居留地の設置、ワシらは旨味が無い。それもこれも、五十年も前に『薪水給与令』を出しちゅう事から、亜米利加に舐められちゅうがよ!」
「清国を倒した亜米利加に圧され、物資補給のみの開港をしたっちゅう、アレじゃな」
また武市と龍馬の会話となった。
「ジワジワと追い詰めて来るがよ、奴らは」
武市は眉を顰めた。
龍馬は、武市に聞く。
「ほいたら…武市さんはどうしたらエエと思うちょるがか?」
「今の脅威は、亜米利加じゃが…そもそもの原因は幕府じゃ」
「幕府…を、倒すんですね」
剣一が諦めた口調で先手を打った。
「そうじゃ!」
武市は驚いた拍子に、返答した。しかし剣一はそれに構わず続ける。
「土佐で同士を募り、反幕府体制の勢力を築き上げ、倒幕を狙う」
「トウバク…幕府を倒す、で、倒幕か」
龍馬は、ハッとして武市に詰め寄る。
「待て待て、倒すっちゅうて、反乱でも起こす気か?」
「いや、大規模な戦争は必要無い思うちょるがよ。噂じゃが、今幕府内は何やら揉めちゅう事らしい。世継ぎやら政権やらで、地盤が緩んじょる。機を待てば、案外すんなり事が運ぶかも知れんき」
「武市さん、血を流さんでエエ方法は無いんじゃろうか。ワシら郷士は、上士に蔑まれて生きて来ちゅうがよ。そいつら斬って、自分らがエエ思う方向に向けるっちゅうのは、そら解決とは言えんじ
ゃろ」
「龍馬、天誅ぜよ」
「そうは言うても、人斬りには違いなかろうが。何人斬れば、天が回るがか」
「将軍を斬るなら、そこに行き着くまでに数十人、いや数百人の屍が転がりますね。それを成すなら、こちらも数百人の腕が必要になり、江戸城下には数千の屍が転がる事になるでしょう」
剣一が冷静に言う。
「それでも!誰かがやらにゃいかんぜよ!」
武市は語尾を強め、膝を立てる。
「…おまん、誰ぜよ」
当然の質問が、ここでようやく出て来た。余りに熱くなり、そもそもの疑問を忘れていた武市が、突然思い出した。そして、余りに突然だったこの奇襲のせいで、龍馬と剣一は、打ち消す事ができなかった。
「訳あって、国を捨てた浪人…です」
「そうじゃ、ちょいと脱藩しちゅうがぜよ…この道場じゃ、ワシの同郷の友人っちゅう事で、世話になっちゅうが…」
「脱藩なんぞ、ちょいと、でできるモンじゃ無いじゃろ…」
「関所を越えりゃ、誰でもできます」
「大罪じゃ」
「天を回す大仕事を前に、脱藩ごときで小さい、小さい」
剣一は、無理矢理に笑顔を作った。
「この小さな島国で、まかり通る事が許されない理由は? 森にも、海にも、壁なんてありません。在るのは、時の流れだけ…」
乗り越えられない、時の壁…剣一には信じ難いほど現実的な比喩だった。
「よう言うた! ワシは決めたぜよ、天を回す!」
「どうやって?」
剣一は、龍馬の今後を気にかけ、質問をした。
「まだ分からん。武市さんの言う通り、斬らにゃいかんかも知れん。じゃが、始めっから反乱を考える事はせんき。ワシはワシなりに考えてみるがよ!」
剣一は安堵した。これで龍馬が人斬りに向かう可能性は薄れた。
「おんしゃ、中々の男ぜよ。何かあった時には土佐の武市を訪ねて来るがよ」
そう言って、剣一に手を伸ばした。
剣一も、そこまで言われて無視するわけにはいかない。武市の手を取り、
「こちらこそ、宜しく頼み申します」
「で、名前は?」
龍馬が、溜息とともに口にする
「岡田じゃ」
「…下の名は?」
「…イゾウ…」
この瞬間、人斬り以蔵が未来人となった。が、歴史を知る岡田以蔵、人など斬った事の無い人斬りを呑みこみ、この歴史との温度差により、大きく幕末のうねりが始まって行く事になる。
三人はその後、この国の在り方について話を膨らませていた。そこには、天誅という言葉は出ず、将来の在るべき姿の国、日本を映し出していた。
『武市瑞山、坂本龍馬。彼らは一度手を組む。しかし、龍馬はそこから抜け、独自の思考で天を動かし、英雄となる。この二人…望む物は同じなのに』
やり場のない矛盾と怒りが、剣一に込み上げるのが分かった。
「道は違う」
そう剣一が呟く。
それまで未来を想像し談義していた龍馬と武市は、言葉を止めて剣一を見る。いや、そこに剣一の顔は既にない。
「描く姿は一つじゃ」
龍馬が口にする。
「ああ、何者にも屈しない、強き国と、平和な国へ」
「道は違えど、必ず同じ未来で会うぜよ」
武市は、穏やかでありながらも、力強い表情で二人を見ていた。
「武市さん、龍さん、我が道を信じましょう」
歴史を知る人斬りは、覚悟を決めた表情へと変わっていた。